デイヴィッド・クロネンバーグ監督の'11年作品『危険なメソッド』をWOWOWシネマで見ました。
“チューリッヒ ブルクヘルツリ病院 1904年8月17日”の字幕。暴れる女性ザビーナが病院に担ぎこまれます。医師のユングはこれから毎日君の話を聞こうと言い、ザビーナが幼少時から父に尻をぶたれ、それで快感を得るようになったことを知ります。やがてユングの提案で、ザビーナはユングの研究の手伝いをすることになり、自分の妻に連想法を施し、その結果をザビーナに訊くと、ザビーナは適格に答え、さっきのがユングの妻であることも見抜きます。ユングの最初の子供はユングの希望とは違い女の子でした。謝る妻。ザビーナは自分は不道徳で堕落し、一生入院の必要があると言います。
“2年後 1906年3月3日 オーストリア ウィーン”の字幕。ユング夫妻はフロイトを訪ねます。ユングはザビーナが治癒し、大学の医学部でも優秀で、心理療法の歩く広告塔になっていると言います。フロイトに聞かれ、ザビーナが今でも処女だと思うと言うユング。ユングはフロイトと何度も会って語り合い、妻にフロイトの説得力の強さに負けてしまいそうになると告白します。湖上の船でユングと会ったサビーナは、ワグナーの音楽について語ります。
ユングはフロイトに10月までグロス博士を預かってほしいと言われますが、彼は性欲を一切抑制せず、抑制すると神経症者になるのだと言います。ワグナーの『ワルキューレ』を流し、聴衆の様子をメモするザビーナ。やがてザビーナはユングを誘惑し、グロスはユングの元から逃げ出します。ユングはサビーナを訪れ、彼女の処女を奪います。2人娘を産んだ後3人目を妊娠したユングの妻は、ユングが欲しがっていた赤い帆のボートを贈り、ユングはザビーナに関係を断とうと言いますが、ザビーナは承知しません。ユングの妻は男の子を産み、愛人の元から戻って来てとユングに言います。ザビーナにボートで会いに行くユング。
フロイトはグロスを預けたのは自分が悪かったと言いますが、ユングの神秘主義への偏向に異を唱えます。ザビーナの尻を叩くユング。フロイトはユングに愛人がいると女が言いふらしていると教えます。ユングはザビーナは自分の患者でしかないと言うと、ザビーナはユングの顔を切り、診察料として金を置いて帰ります。ザビーナはフロイトに手紙を書き、それを聞いたユングはフロイトに仲裁を頼み、ザビーナはユングと別れる決心をします。病院を去ることになったユングを訪ねたサビーナは、今後は自分はフロイトの患者になると言ってユングに紹介状を書かせます。そしてフロイトとユング夫妻はアメリカに行くことになります。
“1910年9月25日 スイス キュスナハト”の字幕。ザビーナは卒業論文を院長となったユングに見せに来ますが、ユングはフロイトの論と逆だと批判します。ザビーナの尻を叩くユング。卒業したら町を出ると言うザビーナに、全てを捨てて君と消えてしまいたいと言うユングは、「行くな」と言って彼女の膝で泣きます。
“2年後 1912年4月17日 ウィーン”の字幕。フロイトはユングを非難し、ザビーナは擁護します。君の一件でユングに愛想が尽きたと語るフロイトは、患者を君に任せたいとザビーナに言ってきます。その後、フロイトは倒れ、ユングとフロイトとの間で悪意のこもった手紙の応酬があり、二人は関係を断ちます。
“1913年7月16日 キュスナハト”の字幕。ユング夫人と妊娠中のザビーナ。ユングはフロイトと絶交した後、執筆が進まず眠れず患者も取らなくなったと夫人は言い、助けてほしいと言います。ユダヤ系ロシア人の医師と結婚し、ロシアに戻ると言うザビーナに、ユングは今の愛人も元患者で君を思わせると言います。車で去るザビーナ。呆然とするユング。“グロスは1919年ベルリンで餓死。フロイトはナチスにウィーンを追われ、1939年にロンドンにて癌により死亡。ザビーナはロシアで優秀な精神分析家を育てた。その後故郷ロストフに戻り、幼稚園を設立。1941年、ナチスの侵攻により、娘2人と共に銃殺された。ユングは第一次大戦中に長期の神経衰弱を病んだが、その後世界的な心理学者となる。妻や愛人の死後、1961年、平穏に没した”の字幕で映画は終わります。
特にこれといった“ショット”もなく、あまり面白くないメロドラマを見せられたといった感じでした。
→「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
“チューリッヒ ブルクヘルツリ病院 1904年8月17日”の字幕。暴れる女性ザビーナが病院に担ぎこまれます。医師のユングはこれから毎日君の話を聞こうと言い、ザビーナが幼少時から父に尻をぶたれ、それで快感を得るようになったことを知ります。やがてユングの提案で、ザビーナはユングの研究の手伝いをすることになり、自分の妻に連想法を施し、その結果をザビーナに訊くと、ザビーナは適格に答え、さっきのがユングの妻であることも見抜きます。ユングの最初の子供はユングの希望とは違い女の子でした。謝る妻。ザビーナは自分は不道徳で堕落し、一生入院の必要があると言います。
“2年後 1906年3月3日 オーストリア ウィーン”の字幕。ユング夫妻はフロイトを訪ねます。ユングはザビーナが治癒し、大学の医学部でも優秀で、心理療法の歩く広告塔になっていると言います。フロイトに聞かれ、ザビーナが今でも処女だと思うと言うユング。ユングはフロイトと何度も会って語り合い、妻にフロイトの説得力の強さに負けてしまいそうになると告白します。湖上の船でユングと会ったサビーナは、ワグナーの音楽について語ります。
ユングはフロイトに10月までグロス博士を預かってほしいと言われますが、彼は性欲を一切抑制せず、抑制すると神経症者になるのだと言います。ワグナーの『ワルキューレ』を流し、聴衆の様子をメモするザビーナ。やがてザビーナはユングを誘惑し、グロスはユングの元から逃げ出します。ユングはサビーナを訪れ、彼女の処女を奪います。2人娘を産んだ後3人目を妊娠したユングの妻は、ユングが欲しがっていた赤い帆のボートを贈り、ユングはザビーナに関係を断とうと言いますが、ザビーナは承知しません。ユングの妻は男の子を産み、愛人の元から戻って来てとユングに言います。ザビーナにボートで会いに行くユング。
フロイトはグロスを預けたのは自分が悪かったと言いますが、ユングの神秘主義への偏向に異を唱えます。ザビーナの尻を叩くユング。フロイトはユングに愛人がいると女が言いふらしていると教えます。ユングはザビーナは自分の患者でしかないと言うと、ザビーナはユングの顔を切り、診察料として金を置いて帰ります。ザビーナはフロイトに手紙を書き、それを聞いたユングはフロイトに仲裁を頼み、ザビーナはユングと別れる決心をします。病院を去ることになったユングを訪ねたサビーナは、今後は自分はフロイトの患者になると言ってユングに紹介状を書かせます。そしてフロイトとユング夫妻はアメリカに行くことになります。
“1910年9月25日 スイス キュスナハト”の字幕。ザビーナは卒業論文を院長となったユングに見せに来ますが、ユングはフロイトの論と逆だと批判します。ザビーナの尻を叩くユング。卒業したら町を出ると言うザビーナに、全てを捨てて君と消えてしまいたいと言うユングは、「行くな」と言って彼女の膝で泣きます。
“2年後 1912年4月17日 ウィーン”の字幕。フロイトはユングを非難し、ザビーナは擁護します。君の一件でユングに愛想が尽きたと語るフロイトは、患者を君に任せたいとザビーナに言ってきます。その後、フロイトは倒れ、ユングとフロイトとの間で悪意のこもった手紙の応酬があり、二人は関係を断ちます。
“1913年7月16日 キュスナハト”の字幕。ユング夫人と妊娠中のザビーナ。ユングはフロイトと絶交した後、執筆が進まず眠れず患者も取らなくなったと夫人は言い、助けてほしいと言います。ユダヤ系ロシア人の医師と結婚し、ロシアに戻ると言うザビーナに、ユングは今の愛人も元患者で君を思わせると言います。車で去るザビーナ。呆然とするユング。“グロスは1919年ベルリンで餓死。フロイトはナチスにウィーンを追われ、1939年にロンドンにて癌により死亡。ザビーナはロシアで優秀な精神分析家を育てた。その後故郷ロストフに戻り、幼稚園を設立。1941年、ナチスの侵攻により、娘2人と共に銃殺された。ユングは第一次大戦中に長期の神経衰弱を病んだが、その後世界的な心理学者となる。妻や愛人の死後、1961年、平穏に没した”の字幕で映画は終わります。
特にこれといった“ショット”もなく、あまり面白くないメロドラマを見せられたといった感じでした。
→「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
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