”ばっきん”のブログ

日常生活中心のブログです。
平成28年9月から妻と息子、母の4人で暮らしています。

函館にあるのに「東京庵」・・・私のお気に入りのそば店

2010年08月22日 09時24分45秒 | 外食そば・やきそば
私のプロフィールに「そば好き」とあるが,そば店の話題が一向に書かれていないのが疑問と思われる人も多いと思う。
誤解を避けるためにあえて言い訳をさせてもらうが,私は「そばファン」であるが,「そばマニア」ではない。
したがって,いろいろなお店を食べ歩くわけではなく,今年実食したのは,今日時点で60食,そのうち半分の31食が「東京庵」であるということで,ほとんど他のお店には行かないので実食記を書けないからだ。
東京庵は,函館の西部地区・函館山ロープウェイ下の南部坂に昭和11年開業した老舗だ。
開業当初、東京から職人を呼び寄せ、“函館に江戸前そばのお店を開きたい”その思いから「東京庵」と命名したと伝え聞く。
この店を利用するのは,気軽に入れる大衆店であること,店主が蘊蓄を吐くことがないこと,自宅から近いこと,そして他の店とはちょっと違う趣があることである。


上の写真は,「ざる+玉子」ではなく,「とろろそば」というメニュー,写真が見にくいかもしれないが,小鉢の中は生玉子ととろろである。
これに,タレを自分で調合していただくのだが,これがなかなか食べやすく,とろろも多量のタレのため完食できないことはない。
他店なら,普通は丼にそばととろろと生玉子が入れてあり,そこにタレをぶっかける方式だが,これだと「とろろ」を全てのタレとともに飲み干さなくてはならなくなり,完食はある意味危険だ。

他に冷やしたぬきも変わっている。普通は上記のようにぶっかけ式なのだが,ここの冷やしたぬきは,温たぬきがそのまま冷たい代物。
つまり,器の大量のタレではではなく,冷たいツユが入っているのだ。
他店のような冷やしたぬきをご所望とあれば,さらにもやしとワカメとかつを節が入った豪華版「冷やしそば」を注文すればよい。

天ざるも,そば用のタレと天ぷら用の天つゆが両方ついてきて,そばタレが脂っこくならない工夫もある。

カレーそばも普通は鶏ベースだろうが,ここでは豚ベースである。

各種のご飯セットものも用意されており,バラエティに富むのにもかかわらず,ちゃんと手打ちそばまである。
そして,何よりも各種のラーメンも食べられるのも,家族連れにはうれしいことだ。
ことに塩ラーメンは,下手なラーメン店よりずっと函館塩らしい趣である。

というわけで趣味性の濃いそば店ではなく,僕自身もそんな店は嫌いだからこの店がお気に入りなのだ。
なお,ちょっと残念なのは「禁煙」ではないこと。まぁ,あまりそこを強く求めて商売が傾かれればこちらも困るので許すことにしよう。

僕の本籍地は,函館市松風町・・・でも,一度も住んだことはない

2010年08月21日 23時06分26秒 | 想い出
北島三郎の代表的なヒット曲はもちろん函館の女(ひと),その2番の歌詞には,「灯りさざめく 松風町は・・・」とある。
この曲が発売されたのは1965年,僕が小学校2年生の時だ。
高度経済成長まっただ中の活気のある時代で,およそ,健全なものも不健全なものも全てを包含して,日用品,グルメ,酒,女,歌すべての娯楽が一杯詰まった街だった。
実は,僕の本籍地はこの松風町であるのだが,いろいろ諸事情があって,一度も暮らしたことのない,住んだことのない町である。
大体僕ぐらいの年代だと,函館の中心は紛れもなく,大門・松風町だったと誰もが思うところのだ。
しかし,いまやシャッター通りを通り越して,建物すら無くなってしまい,空き地が目立つ。
「灯りさざめく」どころか,「暗闇にご用心」といったところだ。
今年は,やや観光が盛り返しているが,観光客の方々が思い描いてくる函館のイメージとはちょっと違和感があるかもしれない。
もちろん,今や観光の中心は西部・ウォーターフロント地区だから,夜の函館なんてどうでもいいだろうし,活性化なんて地元の人間だって懐疑的だ。
その原因のひとつが,僕の本籍地が松風町だということに関係がある。
松風町の興隆がピークに達した当時,店舗はあるが,居住空間はなく,郊外に家をもつ経営者が多かったこと。
仮に建物が自分のものであっても,借地が多いこと。
そうしたことが,常にスクラップ・アンド・ビルドの障害になってきたことだ。
それでも,大門・松風町での商売から離れることに抵抗を持っている人がいるから,細々でもかろうじて続いてる商業地区なのだ。
しかし,そうしたこの地にこだわりのない世代の消滅とともに,消え去るうんめいなのかもしれない。
新幹線開通後は函館駅だってどうなるかわからない。
その時を見据えて,「灯りの消えた松風町は・・・・」というフレーズを入れて,函館の男(ひと)という詩を創ろうかと密かに考えている。・・・・・・・・もちろん冗談。

核に賛成する言論の自由?

2010年08月19日 23時49分07秒 | 地域
歴史家羽仁五郎の主張からだが
公平第一型の議論でいえば,核支持という議論も,核反対という議論と同じように成り立つと主張すること自体が間違っているということ。
「わかりやすく言えば大人と子供が一対一で相撲をとって公平ということと同じ考え方だ。」と彼は主張する。
核に反対というのは,核兵器によって命を脅かされて人々の動き。
核支持というのは,議論というのではなく核を製造する事実そのものであり,言論の自由などではなく,事実を強引に認めさせる「支配」の問題だということで,大人が子供に向かって対等に戦う自由を認めろという例を引き合いに出している。

若い頃は,確かにそうだと信じ込んでいたが,ここには「核」=「悪」はゆるぎない事実だと決めつける独善性があると思う。
確かに,兵器としての「核」はあっていいはずはない。しかし,平和的エネルギーの必要としての「核」は絶対に否定して良いものか。

もっと自由に考えても,よいのではないか?と思うのが本日撤去された函館のあの「自由の女神」である。
「自由の女神」設置支持という意見は「支配」の問題?,設置反対というのは,核兵器と同じ命を脅かされる対象か?ということである。

景観を破壊することは確かによくない。しかし,あの物体が景観を破滅に導くというのはあまりにも誇大な妄想である。

逆に考えてみよう。設置反対は,景観を「支配」する問題,設置支持は,営業の自由を奪われる対象としたらどうか?

「観光地だからいいんじゃない」・・・・これは,両方の意見の理由に使える。
じゃあ,「観光地でなくなったら」・・・・間違いなく,景観は保全されるかも。(別の意味で)

そもそも,景観保全は,函館の観光が決して色あせないという前提に立っている。
そうであるならば,この地区の駐車禁止区域を拡大したのもなにか間違いのようにも感じる。

(注)2011年3月11日に起こった東日本大震災を踏まえて、現在の考えは上記とは少し違っております。



君の心が戦争を起こす・・・羽仁五郎の主張について思うこと

2010年08月17日 20時23分15秒 | 主張
反体制の教祖、進歩的知識人の代名詞に位置づけられる羽仁五郎氏が,逝去する前年の昭和57年に上梓した著作に久しぶりに目を通した。マルクスを礼賛し,理想を古代ギリシャの都市に求めた同氏の著作は,当時かなり読んだものだったが,そのほとんどは,既に手元にはなく,最晩年の同書だけが残っていたのだ。
毎年,終戦特集がメディアで取り上げられるこの時期だが,改めて読んでみて気がついた点があったので少々引用したい。
さすがに,ソ連の崩壊やベルリンの壁崩壊までは予想できなかったろうし,独占資本がマインドコントロールするシステムの主張など陳腐な点もあるが,本質をついているところもあるのだ。

一般には「価値」というものは,「交換」によって発生するだろうと考えられていた。(中略)では,それを発生させているものは何かといえば,「労働」によってだとマルクスは考えた。この考えは,どう考えても正しいだろう。
もともと労働というのは,人間本来の喜びであったと,マルクスも言う。それがなぜ,苦しみになってしまったのだ。労働の生み出す価値が,すべて自分の外に出てしまう。資本家に奪われてしまうからだ。


この考えが,彼独自の管理された心の問題であると言っているのである。その主張の矛先は「家庭そのものが抑圧の対象である」とまで発展する。中央集権を嫌い,地方自治の主体性の発展を訴えた彼だったが,皮肉にもその地方自治体は疲弊に疲弊を重ねている。
ただし,一人一人の心の解放が戦争を回避できるといった点は評価出来るのではないだろうか。

いずれにしても,労働に喜びを感じなくなった人が充満する日本は崩壊の一途をたどることだけは間違いななさそうだ。

最近は何でもフィーリングやセンスとかで,自分を表現した気でいる。一見芸術家気取りの若者がたくさんいるが,どれをとってみても,この社会の奥のほうにいるやつに,それと知らずにコントロールされて,それで,ありもしない自分を表現したと錯覚しているものばかりだ。

この点は,今でも何も変わっていない。

<引用>1982年光文社刊 「君の心が戦争を起こす 反戦と平和の論理」 

函館にも映画館の栄華な時代があった

2010年08月16日 22時59分49秒 | 想い出
現在,函館市には2つの映画館しかない。松風町の「シネマ太陽函館」と本町の「シネマアイリス」である。
私の小学校時代、住んでいた湯川町に、「湯川公楽」という二番館があった。
新川町昭和通りにあった「文化劇場」との姉妹館で同じプログラムでした。
母が映画好きだったせいもあり、市内の映画館にはよく連れて行ってもらったものでした。
ただし、「湯川公楽」に来るのは大体、日活や東映、松竹、大映といった日本ものが多かったです。
子ども向けの「怪獣物」には熱狂しました。
われわれの世代で言えば、「ゴジラ」,「モスラ」,「大魔神」や「ガメラ」でしょう。
とにかく、住んでいたところから約100メートル、今の北洋銀行の1軒おいて終点側、現在のグルメシティがそうであります。
もちろん、洋画もあったのですが、何せ字幕が読めない。
子ども向けの「ディズニー物」なんかは、大森町の巴座でなければやっていませんでした。
今思うと、昔の映画館には郷愁がありました。
特に、白黒のニュース映画、あれ結構気に入っていたんです。
それと幕間の市内の商店等のCMスライド、これも懐かしい。
そして、映写機のあのまわる音、、、あれこそが映画の醍醐味、ビデオ映画では絶対に味わえない寂寥感にも似た空気がありました。
そして、大事なのは、そこで飲むジュースとポップコーンが重要なアイテムです。
昔は、映画は2本か3本立てが当たり前、それを少なくても2回は見てましたからねぇ。
テレビの普及とともに,つまり私自身の成長過程で逆転していった現象が,映画館の衰退です。
しかし,それは何もハード的なものだけではなかったような気がします。
同じ場所に一堂に集まり,同じ楽しみを共有する・・・つまり,価値観の共有の時代から,家族単位・個人単位の価値観の獲得への変化がそれでした。
1 映画は家族・あるいは友達や恋人と観るもの,
2 映画は一人で楽しむもの と2つの意見がありますが,
現在の私は明らかに後者にならざるを得ない,映画でなくても,テレビでも同じなのですが,楽しみを共有する連帯感の不足が,不安定な現在の社会の精神構造の歪みとなっているのではないでしょうか?

私の記憶している市内の映画館は下記のとおり,もちろんこれ以前には,もっとあったようですが,函館市内にお住みの皆さん,どれだけ覚えていますか?

「東宝公楽」,「大映」,「巴座」,「日活」,「東映」,「帝国館」,「有楽座」,「大門座」,「映劇」,「近代テアトル」,「名画座」,「ロマン座」,「セントラル」,「フランス座」(当時は映画もやっていたみたい,もちろん私は観ていない)・・・以上大門・駅前地区
「銀映座」・・・十字街,「文化劇場」,「中央座」・・・昭和通り,「東劇」・・・本町,そして「湯川公楽」・・・湯川町の19館が新聞の映画館情報に搭載されていたのです。

ホームシアターも夢のような特別のものでなく,現実のものとなりましたが,やはり家庭では味わえない大スクリーンと大音響こそ映画の醍醐味でしょう。

おまけに・・・かつて大門地区にサウナメトスがあったころ,同店内に寝ながら観ることができるシアターがありました。就職してからはもっぱらそれに頼っていましたが,それすらも今はない。

映画館が栄華な時代は,函館も栄華な時代だったのかもしれません。