”ばっきん”のブログ

日常生活中心のブログです。
平成28年9月から妻と息子、母の4人で暮らしています。

なか卯はいつも手頃だ

2013年09月09日 22時23分10秒 | 想い出
1年前の9月9日にはなか卯に行っている。

最近もたまに行くが、段々客の入りが悪くなっているような気がする。

すき家より気に入っているので、函館に1店舗しかないなか卯には頑張ってもらいたい。

なか卯のすだちおろしうどんとミニ牛丼。
9月9日の夕食は、めずらしく外食となった。日曜日とあって、少しウェイティングがあったが、なぜか、うどんが食べたくて初志貫徹だ。オーダーしたのは、今旬のメニューで徳島産す...


特殊な環境下の少年時代 その2

2012年07月21日 23時07分47秒 | 想い出
ボクは、パーマ屋(美容院)の住み込み従業員の子で育てられたため、周囲は女性だらけだった。
どうも、これがいけなかったのか、女性が珍しくなかったので、憧れもなかった。
というわけで、かなりいい歳まで独身を貫くことになる。
幾分、環境のせいにしすぎるきらいはあるが、、、、

また、母は仕事オンリーなので、母の料理というものは食べたこともなかった。
ただ、従業員の賄い料理にプラスアルファをしてもらうことが多かったため
食べ物に関しては贅沢である。

兄弟はいなかったし、子どももボク一人なので喧嘩をする術も身につけることはなかった。

美容室の客は、温泉街のため、女将や芸者さんなどが多く、店での会話を子どもながらに傾聴していたので、
男の子のくせに耳年増であった。

若干ゆがんだ性格は、こうして築きあげられたのだが、本人はまんざらでもないと感じているところが問題なのかもしれない。

僕にとっての父親の存在2

2012年07月18日 23時01分47秒 | 想い出
高1までは、長い時間顔を合わせることのなかった父と一緒に暮らし始めたことにより、それまでのイメージとは全く違った感覚を持つに至った。
それは父親という存在が実に窮屈と感じたこと。
新たに兄や姉となった人たちとの顔合わせは、父との距離をかえって増大させたこと。
思うにこいつのために母は苦労したのかという憎しみさえも抱くようになった。
以後、大学4年間の東京生活を含め、父とは死ぬまでの13年間(正味9年間)暮らしたが、父の死後以降、兄や姉とは全くと言っていいほど会っていない。

変な意味、父の実家や兄弟との縁も切れたので煩わしさがなくなった。
もちろん、回忌法要などは全くしていないばかりか、納骨した墓にはその後参拝していないのだ。

特殊な環境下の少年時代 その1

2012年07月14日 23時04分07秒 | 想い出
さて,話を僕の幼少時代にもどそう。
僕の母親は,住み込みの美容師であったことは前にも述べた。
僕が高二の春だったころ,母が父と婚姻。
それまでは私生児であり,いまどきの言葉でいうと母は未婚の母であった。
道徳的にいえば,妻子ある男との間に産ませた子どもであり,不適切な関係によって生まれた子どもでもあろう。
だが,自分でいうのも妙だが,僕は幸せな子ども時代を過ごしたと思っている。
それは,父と一緒に暮さなかったことも起因している。
当初,美容師が子どもを持つことに反対していた店の経営主が母を解雇,美容業とは縁が切れるはずだったが,店随一の技量をもった母の抜けた穴は大きく,再び店に迎えられる。
その後,母は仕事に専念,養育は子どものいない経営主が行ってこともあり,経済的には裕福な暮らしをしたと思っている。
逆にいえば,肝心の身内とのつながりは皆無に等しく,特に父親方の身内は高二まで存在すら知らなかったのである。