”ばっきん”のブログ

日常生活中心のブログです。
平成28年9月から妻と息子、母の4人で暮らしています。

核に賛成する言論の自由?

2010年08月19日 23時49分07秒 | 地域
歴史家羽仁五郎の主張からだが
公平第一型の議論でいえば,核支持という議論も,核反対という議論と同じように成り立つと主張すること自体が間違っているということ。
「わかりやすく言えば大人と子供が一対一で相撲をとって公平ということと同じ考え方だ。」と彼は主張する。
核に反対というのは,核兵器によって命を脅かされて人々の動き。
核支持というのは,議論というのではなく核を製造する事実そのものであり,言論の自由などではなく,事実を強引に認めさせる「支配」の問題だということで,大人が子供に向かって対等に戦う自由を認めろという例を引き合いに出している。

若い頃は,確かにそうだと信じ込んでいたが,ここには「核」=「悪」はゆるぎない事実だと決めつける独善性があると思う。
確かに,兵器としての「核」はあっていいはずはない。しかし,平和的エネルギーの必要としての「核」は絶対に否定して良いものか。

もっと自由に考えても,よいのではないか?と思うのが本日撤去された函館のあの「自由の女神」である。
「自由の女神」設置支持という意見は「支配」の問題?,設置反対というのは,核兵器と同じ命を脅かされる対象か?ということである。

景観を破壊することは確かによくない。しかし,あの物体が景観を破滅に導くというのはあまりにも誇大な妄想である。

逆に考えてみよう。設置反対は,景観を「支配」する問題,設置支持は,営業の自由を奪われる対象としたらどうか?

「観光地だからいいんじゃない」・・・・これは,両方の意見の理由に使える。
じゃあ,「観光地でなくなったら」・・・・間違いなく,景観は保全されるかも。(別の意味で)

そもそも,景観保全は,函館の観光が決して色あせないという前提に立っている。
そうであるならば,この地区の駐車禁止区域を拡大したのもなにか間違いのようにも感じる。

(注)2011年3月11日に起こった東日本大震災を踏まえて、現在の考えは上記とは少し違っております。