梁塵秘抄
原文
①仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せ ぬ暁に 仄(ほの)かに夢に見え給ふ
②極楽浄土の東門は 難波(なにわ)の海にぞ対(むか)へたる 転法輪所(てんぼうりんしよ)の 西門(さいもん)に 念仏する人参れとて
③我が子は二十に成りぬらむ 博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ 国々 の博党(ばくとう)に さすがに子なれば憎う無し 負(まか)い給ふな王子の 住吉西の宮
④女の盛りなるは 十四五六歳 廿三四とか 三十四五にし 成りぬれば 紅葉(もみじ)の下葉に異ならず
⑤舞ゑ〳〵蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬(むま)の子や牛の子に蹴(く) ゑさせてむ 踏み破らせてむ 実(まこと)に愛(うつく)しく舞うたらば 華の園まで遊ばせむ
⑥頭(こうべ)に遊ぶは頭虱(かしらじらみ) 項(うなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食(く)ふ 櫛(くし)の歯より
天降(あまくだ)る 麻小笥(おごけ)の蓋(ふた)にて 命(めい)終はる
現代語訳
①極楽浄土の御仏(みほとけ)は 常にいますと言うけれど 見えないゆ えの尊さよ それでも静かな明け方に 微(かす)かに夢に現れる
②極楽浄土の東門は 難波の海の向岸(むこうぎし) 四天王寺の西門に 念仏する人参るべし
③我が子は二十歳になるという 流れ流れて行くうちに 母 を泣かせる博打うち それでも可愛い我が子ゆえ 憎くみ きれない親心 負けてはならじと神頼み
④女盛りは十四五六よ 二十三四はまだよいが 三十四五に もなったなら 散るもみぢ葉のようなもの
⑤舞ってごらんよかたつむり 舞ってくれなきゃ馬の子や 牛の子たちに蹴らせるよ 踏んづけられたら割れちゃうよ 上手にかわいく舞ったなら お花畑で遊ぼうよ
⑥白髪に遊ぶ髪虱(かみしらみ) うなじの窪に食らいつく 櫛(くし)でけずれ ば桶の蓋 落ちては遂に潰(つぶ)される
解説
『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』は、「当世風」を意味する「今様(いまよう)」と呼ばれた流行歌の歌詞集で、平安時代末期の治承年間(1180年前後)、後白河法皇(1127~1192)により編纂されました。「梁塵(りようじん)」とは「梁(はり)の上の塵(ちり)」という意味で、中国の漢代に声の美しい魯(ろ)の虞公(ぐこう)が歌うと、梁(はり)の上の塵までもが呼応して動いたという故事から、美しい歌や音楽を表しています。『梁塵秘抄』は今様を解説した口伝集(くでんしゆう)と、歌詞集の合計二十巻から成っていたのですが、口伝集は一部が『群書類従』に収められ、歌詞集は長い間行方不明でした。ところが明治四四年(1911)に第一巻の二一首と第二巻の写本が発見されました。それだけでも約五百首もありますから、全て伝えられていたら、量的には『万葉集』に匹敵するものとなっていたことでしょう。
今様は主に民間女性芸能者により歌われ、平安時代中期から鎌倉時代に流行しました。中でも後白河法皇の今様好きは際立っていて、『梁塵秘抄口伝集』には、「十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無し。・・・・昼は終日(ひねもす)に謡(うた)ひ暮し、夜は通夜(よもすがら)謡ひ明(あか)さぬ夜は無かりき。・・・・声を破(わ)る(喉(のど)を潰(つぶ)す)事三ケ度なり。・・・・喉(のど)腫(は)れて湯水通(かよ)ひしも術(すべ)無かりしかど、構えて(何とか工夫して)謡(うた)ひ出しにき。・・・・斯(か)くの如く好みて、六十の春秋(年月)を過(すぐ)しにき」と記されています。また御所に女芸人を呼び寄せては歌を習うのですが、七三歳になる乙前(おとまえ)の今様を正統とし、十余年も習っています。また乙前のために家を建ててやり、八四歳の乙前の容態が悪くなると、連日見舞いに行き、娘にかき起こされている乙前のために、法華経を誦み聞かせたり、乙前に歌をせがまれると、薬師如来の功徳を詠んだ歌を聞かせて慰めています。
ただ後白河法皇には心配事がありました。「習ふ輩(ともがら)有れど、これを継ぎ続(つ)ぐべき弟子の無きこそ遺恨(いこん)(残念)の事にてあれ」と記して、後継者がいないのが残念であるというのです。そこで年来習い覚えてきた今様を、後世に遺し伝えようと、『梁塵秘抄』を編纂したわけです。
当時は浄土信仰が流行(はや)っていて、仏教的な歌が多いのですが、庶民の生活や恋愛まで幅広いことに特徴があります。
①は、仏に出逢いたいと寺に籠り、明け方の夢の中で仄(ほの)かに仏を感得した場面で、夢に阿弥陀仏が現れる話は、『更級日記』にも記述があります。
②は、難波の浜に面した四天王寺の西門が、極楽浄土の東門に面していると信じられていたため、参詣人が絶えなかったことを詠んでいます。西門前には十三世紀末の石鳥居があり、今も「釈迦如来転法輪処(てんぽうりんしよ)」(「釈迦の説法所」)の額が掛けられています。今は海岸線が遠ざかってしまいましたが、四天王寺は、現在でも春秋の彼岸には参詣者で賑わいます。
③は、女性の結婚適齢期と、その後のことを歌っていて、「三十四五にし」の「し」は強調です。酒の席では、男達の笑いを誘ったことでしょう。律令制では、男は十五歳、女は十三歳から結婚が認められていました。ただし満年齢になおすならば、さらに一~二歳減らさなければなりません。
④は、放蕩息子(ほうとうむすこ)をもつ母親の歌で、やくざ稼業に身をやつしている「我が子」を嘆きながらも、出来の悪い子ほど可愛いもので、賭け事に勝たせてほしいと、神頼みをする場面です。
⑤は、子供が蝸牛(かたつむり)と戯れている場面で、触覚や目をゆっくりと動かしているのを、「舞う」と見ているわけです。この歌などは、「華の園で遊ぶ」白拍子が、蝸牛を真似て舞いながら歌ったのでしょう。因みに蝸牛のことを「まいまい」と言いますが、「舞う」と何か関係があるのかもしれません。
⑥は、たわいもない笑いを誘う歌で、説明は不要でしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『梁塵秘抄』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
①仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せ ぬ暁に 仄(ほの)かに夢に見え給ふ
②極楽浄土の東門は 難波(なにわ)の海にぞ対(むか)へたる 転法輪所(てんぼうりんしよ)の 西門(さいもん)に 念仏する人参れとて
③我が子は二十に成りぬらむ 博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ 国々 の博党(ばくとう)に さすがに子なれば憎う無し 負(まか)い給ふな王子の 住吉西の宮
④女の盛りなるは 十四五六歳 廿三四とか 三十四五にし 成りぬれば 紅葉(もみじ)の下葉に異ならず
⑤舞ゑ〳〵蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬(むま)の子や牛の子に蹴(く) ゑさせてむ 踏み破らせてむ 実(まこと)に愛(うつく)しく舞うたらば 華の園まで遊ばせむ
⑥頭(こうべ)に遊ぶは頭虱(かしらじらみ) 項(うなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食(く)ふ 櫛(くし)の歯より
天降(あまくだ)る 麻小笥(おごけ)の蓋(ふた)にて 命(めい)終はる
現代語訳
①極楽浄土の御仏(みほとけ)は 常にいますと言うけれど 見えないゆ えの尊さよ それでも静かな明け方に 微(かす)かに夢に現れる
②極楽浄土の東門は 難波の海の向岸(むこうぎし) 四天王寺の西門に 念仏する人参るべし
③我が子は二十歳になるという 流れ流れて行くうちに 母 を泣かせる博打うち それでも可愛い我が子ゆえ 憎くみ きれない親心 負けてはならじと神頼み
④女盛りは十四五六よ 二十三四はまだよいが 三十四五に もなったなら 散るもみぢ葉のようなもの
⑤舞ってごらんよかたつむり 舞ってくれなきゃ馬の子や 牛の子たちに蹴らせるよ 踏んづけられたら割れちゃうよ 上手にかわいく舞ったなら お花畑で遊ぼうよ
⑥白髪に遊ぶ髪虱(かみしらみ) うなじの窪に食らいつく 櫛(くし)でけずれ ば桶の蓋 落ちては遂に潰(つぶ)される
解説
『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』は、「当世風」を意味する「今様(いまよう)」と呼ばれた流行歌の歌詞集で、平安時代末期の治承年間(1180年前後)、後白河法皇(1127~1192)により編纂されました。「梁塵(りようじん)」とは「梁(はり)の上の塵(ちり)」という意味で、中国の漢代に声の美しい魯(ろ)の虞公(ぐこう)が歌うと、梁(はり)の上の塵までもが呼応して動いたという故事から、美しい歌や音楽を表しています。『梁塵秘抄』は今様を解説した口伝集(くでんしゆう)と、歌詞集の合計二十巻から成っていたのですが、口伝集は一部が『群書類従』に収められ、歌詞集は長い間行方不明でした。ところが明治四四年(1911)に第一巻の二一首と第二巻の写本が発見されました。それだけでも約五百首もありますから、全て伝えられていたら、量的には『万葉集』に匹敵するものとなっていたことでしょう。
今様は主に民間女性芸能者により歌われ、平安時代中期から鎌倉時代に流行しました。中でも後白河法皇の今様好きは際立っていて、『梁塵秘抄口伝集』には、「十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無し。・・・・昼は終日(ひねもす)に謡(うた)ひ暮し、夜は通夜(よもすがら)謡ひ明(あか)さぬ夜は無かりき。・・・・声を破(わ)る(喉(のど)を潰(つぶ)す)事三ケ度なり。・・・・喉(のど)腫(は)れて湯水通(かよ)ひしも術(すべ)無かりしかど、構えて(何とか工夫して)謡(うた)ひ出しにき。・・・・斯(か)くの如く好みて、六十の春秋(年月)を過(すぐ)しにき」と記されています。また御所に女芸人を呼び寄せては歌を習うのですが、七三歳になる乙前(おとまえ)の今様を正統とし、十余年も習っています。また乙前のために家を建ててやり、八四歳の乙前の容態が悪くなると、連日見舞いに行き、娘にかき起こされている乙前のために、法華経を誦み聞かせたり、乙前に歌をせがまれると、薬師如来の功徳を詠んだ歌を聞かせて慰めています。
ただ後白河法皇には心配事がありました。「習ふ輩(ともがら)有れど、これを継ぎ続(つ)ぐべき弟子の無きこそ遺恨(いこん)(残念)の事にてあれ」と記して、後継者がいないのが残念であるというのです。そこで年来習い覚えてきた今様を、後世に遺し伝えようと、『梁塵秘抄』を編纂したわけです。
当時は浄土信仰が流行(はや)っていて、仏教的な歌が多いのですが、庶民の生活や恋愛まで幅広いことに特徴があります。
①は、仏に出逢いたいと寺に籠り、明け方の夢の中で仄(ほの)かに仏を感得した場面で、夢に阿弥陀仏が現れる話は、『更級日記』にも記述があります。
②は、難波の浜に面した四天王寺の西門が、極楽浄土の東門に面していると信じられていたため、参詣人が絶えなかったことを詠んでいます。西門前には十三世紀末の石鳥居があり、今も「釈迦如来転法輪処(てんぽうりんしよ)」(「釈迦の説法所」)の額が掛けられています。今は海岸線が遠ざかってしまいましたが、四天王寺は、現在でも春秋の彼岸には参詣者で賑わいます。
③は、女性の結婚適齢期と、その後のことを歌っていて、「三十四五にし」の「し」は強調です。酒の席では、男達の笑いを誘ったことでしょう。律令制では、男は十五歳、女は十三歳から結婚が認められていました。ただし満年齢になおすならば、さらに一~二歳減らさなければなりません。
④は、放蕩息子(ほうとうむすこ)をもつ母親の歌で、やくざ稼業に身をやつしている「我が子」を嘆きながらも、出来の悪い子ほど可愛いもので、賭け事に勝たせてほしいと、神頼みをする場面です。
⑤は、子供が蝸牛(かたつむり)と戯れている場面で、触覚や目をゆっくりと動かしているのを、「舞う」と見ているわけです。この歌などは、「華の園で遊ぶ」白拍子が、蝸牛を真似て舞いながら歌ったのでしょう。因みに蝸牛のことを「まいまい」と言いますが、「舞う」と何か関係があるのかもしれません。
⑥は、たわいもない笑いを誘う歌で、説明は不要でしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『梁塵秘抄』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
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