明六雑誌
原文
曰く、利十ならざれば事を変ぜず、害百ならざれば法を更めずと。今、洋字を以て和語を書す。其(その)利害得失、果して如何(いかん)。曰く、此(この)法行はるれば本邦の語学立つ。其(その)利一なり。童蒙の初学、先づ国語に通じ、既に一般事物の名と理とに通じ、次に各国の語に入るを得(う)。且(かつ)同じ洋字なれば、彼を見る、既に怪むに足らず。語種の別、語音の変等、既に国語に於て之(これ)に通ずれば、他語は唯(ただ)、記性を労する耳(のみ)。是(これ)入学の難易、固(もと)より判然たり。其利二なり。言ふ所書く所と、其法を同うす。以て書くべし、以て言ふべし。即ちレキチュア、トーストより会議のスピーチ、法師の説法、皆書して誦(じゆ)すべく、読んで書すべし。其利三なり。アベセ二十六字を知り、苟(いやしく)も綴字(つづりじ)の法と呼法(こほう)とを学べば、児女も亦男子の書を読み、鄙夫(ひふ)も君子の書を読み、且(かつ)自ら其(その)意見を書くを得べし。其利四なり。方今洋算法行はれ、人往々之(これ)を能(よ)くす。之と共に横行す其便知るべし。而(しかし)て大蔵陸軍等既にブウクキーピンクの法を施行す。之と共に横行字を用ゆ。直(ただち)に彼の法を取るのみ。其利五なり。近日ヘボンの字書、又仏人ロニの日本語会あり。然(しかれ)ども直ちに今の俗用を記し、未だ其肯綮(こうけい)を得ず。今此法一たび立たば、此等亦一致すべし。其利六なり。此法果して立たば、著述翻訳甚便りを得ん。其利七なり。此法果して立たば、印刷の便悉(ことごと)く彼の法に依り、其軽便言ふ斗(ばかり)なかるべし。彼国にてこの術に就(つき)て発明する所あれば、其儘(そのまま)にて之を用ふべし。その便八なり。翻訳中、学術上の語の如きは、今の字音を用ふるが如く、訳せずして用ふべし。また器械名物等に至ては、強(しい)て訳字を下さず、原字にて用ふべし。是其(これその)利九なり。
此法果して立たば、凡そ欧洲の万事、悉(ことごと)く我の有となる。自国行ふ所の文字を廃し、他国の長を取る。是瑣々(ささ)服飾を変ふるの比にあらざれば、我が国人民の性質、善に従ふ流るゝが如きの美を以て世界に誇り、頗(すこぶる)彼の胆を寒(ひや)やすに足らん。是其(これその)利十なり。此十利あり。而(しかし)て之を行ふ、亦何を窮して決行せざる。
現代語訳
「十の利がなければ、従来の事を変えない。百の害がなければ、その方法を改めることはない」と言われている。では洋字(アルファベット)を用いて日本語を書くことについて、その利害得失とは、果たしてどのようなものであろうか。
この方法(洋字による日本語表記)が行われたら、(発音を正確に表記できるので)我が国の国語学が確立する。これが一つめの利である。
子供がものを学ぶには、まずは国語から始めるが、さらに一般の事物の名前や理屈を理解し、次いで各国の言葉を学び始めることができる。この時同じ洋字であるから、外国語を見ても戸惑うことがない。品詞の区別、発音の変化などについては、既に(洋字による)国語学習で理解しているから、他の外国語については、記憶力を働かせることが必要なだけで、学び始める際の難易度の違いは、もとより明白である。これが二つめの利である。
話し言葉と書き言葉が同じであるから、同じように書いたり、話したりできる。つまり講演、乾杯挨拶から会議の演説、師匠の説法に至るまで、全て書くままに声に出して誦(よ)み、誦むままに書くことができる。これが三つめの利である。
(古文や漢文は、誰もが読み書きできるとは限らないが)ABCのアルファベット二六文字を覚え、文字の綴りと発音を学びさえすれば、女性や子供でも男性の書いたものを読み、田舎者でも智者の書いたものを読み、また自分の考えを書き表すことができる。これが四つめの利である。
現在では西洋式の算術が行われ、よくこれを用いている人もいる。それに伴って横書きが行われているから、洋字で書く便利さがわかるだろう。それで既に大蔵省や陸軍では、既に簿記の記帳法が行われ、それに伴って横書きの表記が行われているから、(洋字を用いれば)すぐにでも(簿記の記帳法を)採用できる。これが五つめの利である。
最近ではヘボンが著した辞書(『和英語林集成』)や、フランス人ロニ(フランスで日本語のアルファベット表記を研究)の日本語会話書が出版されたが、それらは今の俗語がそのまま記されていて、(書き言葉の)要からはずれている。今この表記法が確立されれば、これらが一致するであろう(一致して役立つであろう)。これが六つめの利である。
もしこの表記法が確立されれば、著述や翻訳がすこぶる便利になるであろう。これが七つ目の利である。
もしこの表記法が確立されれば、印刷は全て西洋の方法によるので、その手軽で便利なことは言うまでもないであろう。西洋で印刷技術の新たな発明があれば、そのまますぐに採り容れることができる。これが八つめの利である。
翻訳する際に学術語については、現在、(漢字の)音を用いて表しているように、和訳しないで用いることができる。また器械や物の名前などについては、無理に翻訳せず、原語のまま用いることができる。これが九つめの利である。
もしこの表記法が確立されれば、およそヨーロッパの全てのことは、我等の知るところとなる。自国の文字を廃止し、他国の長所を採り容れることは、服飾を洋風化するというような些細なことではない。しかし我が国の国民性が、善いことを摂取すること、水の流れるが如くである美点を世界に誇ることになるから、すこぶる西洋人を驚かせるのに十分であろう。これが十個めの利である。
以上のように十も利があって実行するのだから、いったい何に臆して決断しないのであろうか。(躊躇(ちゆうちよ)する必要などないではないか)
解説
『明六雑誌(めいろくざつし)』は、明治六年(1873)に結成された啓蒙思想家の結社である明六社の機関誌です。発行が始まったのは翌明治七年(1874)で、明治八年(1875)の四三号まで続きました。大きさは日本古来の規格であるB六版で、二十ページ前後、毎号社員の論説が収められています。発行部数は毎号約三千部くらいですが、その影響は大きく、啓蒙思想の普及に大きな役割を果たしました。ただ、社長の森有礼が後に初代文部大臣となり、社員の西周が軍人勅諭を起草し、加藤弘之が勅撰貴族院議員や帝国大学総長になったように、政権寄りの立場の社員が多く、自由民権運動の活発化に伴う言論統制が厳しくなると、自ずとその活動も縮小し消滅しました。
ここに載せたのは、創刊号に載せられた西周の「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論説です。西周は石見国津和野藩士の出身で、若い頃には荻生徂徠の儒学を学びました。後に脱藩して中浜万次郎に英語を学び、幕命により津田真道や榎本武揚らと共にオランダに留学しています。明治初期には主に兵部省に出仕し、明六社結成以後は主に文筆活動で活躍しました。
西周は洋字表記の利点を十も列挙していますが、「害」としては、書道用品店の仕事がなくなること、和紙から洋紙に製法を改める必要があること、漢学者や国学者の反対を上げています。しかし実際に行われれば、その程度の「害」ではおさまりません。同音異義語が極めて多い日本語では、文脈やアクセントである程度は同音異義語を識別できるとはいえ、短い文で切り取られたり、書かれた文を読むだけでは、理解するのに混乱が生じることは必至です。
洋字表記については、明六社の社長である森有礼も「日本語改良」と称して賛同し、さらに簡易化した英語の公用語化・国語化さえも考えていました。彼は決して浅薄な西洋かぶれでそのように考えたわけではありません。当時の日本語には、思考をするのに不可欠な、概念を表現する語彙(ごい)が欠如していて、「国家の法」を表現するには、日本語は貧弱すぎると考えていました。また英国を文明開化の手本と見るだけではなく、いずれは日本が凌駕すべき国とも見ていましたから、言語地政学的視点から、日本人が英語を理解できることの重要性を考えていたのです。
確かに日本語の洋字表記が実現すれば、欧米語学習の障壁は低くなり、今頃は日本人がもっと国際的に活躍していたかもしれません。しかし日本人が日本の古典を読むことが困難になりますから、アイデンティティーにも関わる重大な問題です。かつてユダヤ人がイスラエルを建国した際に、聖書に用いられ、一部の宗教家にしか理解できなかったヘブライ語を、現代の国語として採用したため、イスラエル人は今でも紀元前に書かれた聖書を普通に理解できるということが、考えるヒントになるでしょう。
ただし西周は論説の末尾に、「右、聊(いささ)カ愚考ヲ陳シ(述べ)、諸先生ノ可否ヲ請フ。敢テ採用ヲ望ムニアラズト雖モ、諸先生、幸ニ電覧(でんらん)(拾い読み)ヲ賜ハゞ幸甚(こうじん)(幸いである)」と記されていますから、あくまでも試論であって、本気で採用を主張したわけでなさそうです。事実、西周は多くの欧米の学術用語を和製漢語に翻訳しました。philosophyを「フィロソフィー」と音訳することなく、「哲学」という言葉を創ったことはよく知られています。その造語の範囲は、広く人文・自然・社会科学に及び、三千語以上あるそうです。
その中でも、現在普通に用いられている言葉を、思い付くままに片端から上げてみましょう。主観・客観・演繹・帰納・命題・定義・観念・弁証・理想・反証・断言・再現・義務・意識・観察・転換・衝動・還元・交換・先天・後天・現象・情緒・単元・概括・蓋然・感性・感受性・思考・積極・総合・体験・ 本能・能動・具体・抽象・極端・属性・肯定・否定・理性・実在・感覚・知覚・知識・真理・芸術・科学・取引・消費・習俗・技術・合成・細胞・脂質・焦点・子音・死語・硬質・心理・物理・植物学・動物学・音声学・鉱物学・非金属・法律学・習慣法・急進党・共和党・保守党・想像力・生活力・印刷術、等々きりがありません。森有礼が憂えた社会学的用語の欠如は、同じく洋字の使用を提唱した西周によってかなり改善されたというのは、何とも奇妙な話ではありませんか。「西君、貴殿はかつて『学術語の如きは、翻訳せずして用ふべし』と書いていたではないか」と、からかわれたことでしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『明六雑誌』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
曰く、利十ならざれば事を変ぜず、害百ならざれば法を更めずと。今、洋字を以て和語を書す。其(その)利害得失、果して如何(いかん)。曰く、此(この)法行はるれば本邦の語学立つ。其(その)利一なり。童蒙の初学、先づ国語に通じ、既に一般事物の名と理とに通じ、次に各国の語に入るを得(う)。且(かつ)同じ洋字なれば、彼を見る、既に怪むに足らず。語種の別、語音の変等、既に国語に於て之(これ)に通ずれば、他語は唯(ただ)、記性を労する耳(のみ)。是(これ)入学の難易、固(もと)より判然たり。其利二なり。言ふ所書く所と、其法を同うす。以て書くべし、以て言ふべし。即ちレキチュア、トーストより会議のスピーチ、法師の説法、皆書して誦(じゆ)すべく、読んで書すべし。其利三なり。アベセ二十六字を知り、苟(いやしく)も綴字(つづりじ)の法と呼法(こほう)とを学べば、児女も亦男子の書を読み、鄙夫(ひふ)も君子の書を読み、且(かつ)自ら其(その)意見を書くを得べし。其利四なり。方今洋算法行はれ、人往々之(これ)を能(よ)くす。之と共に横行す其便知るべし。而(しかし)て大蔵陸軍等既にブウクキーピンクの法を施行す。之と共に横行字を用ゆ。直(ただち)に彼の法を取るのみ。其利五なり。近日ヘボンの字書、又仏人ロニの日本語会あり。然(しかれ)ども直ちに今の俗用を記し、未だ其肯綮(こうけい)を得ず。今此法一たび立たば、此等亦一致すべし。其利六なり。此法果して立たば、著述翻訳甚便りを得ん。其利七なり。此法果して立たば、印刷の便悉(ことごと)く彼の法に依り、其軽便言ふ斗(ばかり)なかるべし。彼国にてこの術に就(つき)て発明する所あれば、其儘(そのまま)にて之を用ふべし。その便八なり。翻訳中、学術上の語の如きは、今の字音を用ふるが如く、訳せずして用ふべし。また器械名物等に至ては、強(しい)て訳字を下さず、原字にて用ふべし。是其(これその)利九なり。
此法果して立たば、凡そ欧洲の万事、悉(ことごと)く我の有となる。自国行ふ所の文字を廃し、他国の長を取る。是瑣々(ささ)服飾を変ふるの比にあらざれば、我が国人民の性質、善に従ふ流るゝが如きの美を以て世界に誇り、頗(すこぶる)彼の胆を寒(ひや)やすに足らん。是其(これその)利十なり。此十利あり。而(しかし)て之を行ふ、亦何を窮して決行せざる。
現代語訳
「十の利がなければ、従来の事を変えない。百の害がなければ、その方法を改めることはない」と言われている。では洋字(アルファベット)を用いて日本語を書くことについて、その利害得失とは、果たしてどのようなものであろうか。
この方法(洋字による日本語表記)が行われたら、(発音を正確に表記できるので)我が国の国語学が確立する。これが一つめの利である。
子供がものを学ぶには、まずは国語から始めるが、さらに一般の事物の名前や理屈を理解し、次いで各国の言葉を学び始めることができる。この時同じ洋字であるから、外国語を見ても戸惑うことがない。品詞の区別、発音の変化などについては、既に(洋字による)国語学習で理解しているから、他の外国語については、記憶力を働かせることが必要なだけで、学び始める際の難易度の違いは、もとより明白である。これが二つめの利である。
話し言葉と書き言葉が同じであるから、同じように書いたり、話したりできる。つまり講演、乾杯挨拶から会議の演説、師匠の説法に至るまで、全て書くままに声に出して誦(よ)み、誦むままに書くことができる。これが三つめの利である。
(古文や漢文は、誰もが読み書きできるとは限らないが)ABCのアルファベット二六文字を覚え、文字の綴りと発音を学びさえすれば、女性や子供でも男性の書いたものを読み、田舎者でも智者の書いたものを読み、また自分の考えを書き表すことができる。これが四つめの利である。
現在では西洋式の算術が行われ、よくこれを用いている人もいる。それに伴って横書きが行われているから、洋字で書く便利さがわかるだろう。それで既に大蔵省や陸軍では、既に簿記の記帳法が行われ、それに伴って横書きの表記が行われているから、(洋字を用いれば)すぐにでも(簿記の記帳法を)採用できる。これが五つめの利である。
最近ではヘボンが著した辞書(『和英語林集成』)や、フランス人ロニ(フランスで日本語のアルファベット表記を研究)の日本語会話書が出版されたが、それらは今の俗語がそのまま記されていて、(書き言葉の)要からはずれている。今この表記法が確立されれば、これらが一致するであろう(一致して役立つであろう)。これが六つめの利である。
もしこの表記法が確立されれば、著述や翻訳がすこぶる便利になるであろう。これが七つ目の利である。
もしこの表記法が確立されれば、印刷は全て西洋の方法によるので、その手軽で便利なことは言うまでもないであろう。西洋で印刷技術の新たな発明があれば、そのまますぐに採り容れることができる。これが八つめの利である。
翻訳する際に学術語については、現在、(漢字の)音を用いて表しているように、和訳しないで用いることができる。また器械や物の名前などについては、無理に翻訳せず、原語のまま用いることができる。これが九つめの利である。
もしこの表記法が確立されれば、およそヨーロッパの全てのことは、我等の知るところとなる。自国の文字を廃止し、他国の長所を採り容れることは、服飾を洋風化するというような些細なことではない。しかし我が国の国民性が、善いことを摂取すること、水の流れるが如くである美点を世界に誇ることになるから、すこぶる西洋人を驚かせるのに十分であろう。これが十個めの利である。
以上のように十も利があって実行するのだから、いったい何に臆して決断しないのであろうか。(躊躇(ちゆうちよ)する必要などないではないか)
解説
『明六雑誌(めいろくざつし)』は、明治六年(1873)に結成された啓蒙思想家の結社である明六社の機関誌です。発行が始まったのは翌明治七年(1874)で、明治八年(1875)の四三号まで続きました。大きさは日本古来の規格であるB六版で、二十ページ前後、毎号社員の論説が収められています。発行部数は毎号約三千部くらいですが、その影響は大きく、啓蒙思想の普及に大きな役割を果たしました。ただ、社長の森有礼が後に初代文部大臣となり、社員の西周が軍人勅諭を起草し、加藤弘之が勅撰貴族院議員や帝国大学総長になったように、政権寄りの立場の社員が多く、自由民権運動の活発化に伴う言論統制が厳しくなると、自ずとその活動も縮小し消滅しました。
ここに載せたのは、創刊号に載せられた西周の「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論説です。西周は石見国津和野藩士の出身で、若い頃には荻生徂徠の儒学を学びました。後に脱藩して中浜万次郎に英語を学び、幕命により津田真道や榎本武揚らと共にオランダに留学しています。明治初期には主に兵部省に出仕し、明六社結成以後は主に文筆活動で活躍しました。
西周は洋字表記の利点を十も列挙していますが、「害」としては、書道用品店の仕事がなくなること、和紙から洋紙に製法を改める必要があること、漢学者や国学者の反対を上げています。しかし実際に行われれば、その程度の「害」ではおさまりません。同音異義語が極めて多い日本語では、文脈やアクセントである程度は同音異義語を識別できるとはいえ、短い文で切り取られたり、書かれた文を読むだけでは、理解するのに混乱が生じることは必至です。
洋字表記については、明六社の社長である森有礼も「日本語改良」と称して賛同し、さらに簡易化した英語の公用語化・国語化さえも考えていました。彼は決して浅薄な西洋かぶれでそのように考えたわけではありません。当時の日本語には、思考をするのに不可欠な、概念を表現する語彙(ごい)が欠如していて、「国家の法」を表現するには、日本語は貧弱すぎると考えていました。また英国を文明開化の手本と見るだけではなく、いずれは日本が凌駕すべき国とも見ていましたから、言語地政学的視点から、日本人が英語を理解できることの重要性を考えていたのです。
確かに日本語の洋字表記が実現すれば、欧米語学習の障壁は低くなり、今頃は日本人がもっと国際的に活躍していたかもしれません。しかし日本人が日本の古典を読むことが困難になりますから、アイデンティティーにも関わる重大な問題です。かつてユダヤ人がイスラエルを建国した際に、聖書に用いられ、一部の宗教家にしか理解できなかったヘブライ語を、現代の国語として採用したため、イスラエル人は今でも紀元前に書かれた聖書を普通に理解できるということが、考えるヒントになるでしょう。
ただし西周は論説の末尾に、「右、聊(いささ)カ愚考ヲ陳シ(述べ)、諸先生ノ可否ヲ請フ。敢テ採用ヲ望ムニアラズト雖モ、諸先生、幸ニ電覧(でんらん)(拾い読み)ヲ賜ハゞ幸甚(こうじん)(幸いである)」と記されていますから、あくまでも試論であって、本気で採用を主張したわけでなさそうです。事実、西周は多くの欧米の学術用語を和製漢語に翻訳しました。philosophyを「フィロソフィー」と音訳することなく、「哲学」という言葉を創ったことはよく知られています。その造語の範囲は、広く人文・自然・社会科学に及び、三千語以上あるそうです。
その中でも、現在普通に用いられている言葉を、思い付くままに片端から上げてみましょう。主観・客観・演繹・帰納・命題・定義・観念・弁証・理想・反証・断言・再現・義務・意識・観察・転換・衝動・還元・交換・先天・後天・現象・情緒・単元・概括・蓋然・感性・感受性・思考・積極・総合・体験・ 本能・能動・具体・抽象・極端・属性・肯定・否定・理性・実在・感覚・知覚・知識・真理・芸術・科学・取引・消費・習俗・技術・合成・細胞・脂質・焦点・子音・死語・硬質・心理・物理・植物学・動物学・音声学・鉱物学・非金属・法律学・習慣法・急進党・共和党・保守党・想像力・生活力・印刷術、等々きりがありません。森有礼が憂えた社会学的用語の欠如は、同じく洋字の使用を提唱した西周によってかなり改善されたというのは、何とも奇妙な話ではありませんか。「西君、貴殿はかつて『学術語の如きは、翻訳せずして用ふべし』と書いていたではないか」と、からかわれたことでしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『明六雑誌』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
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