和菓子の金鍔を食べていて、ふと「鍔なのになぜ四角なのか」と疑問に思いました。いつも幕末に記述された『守貞謾稿』を読んでいて、江戸時代以来の菓子であることは知っていましたから、「つば」が「鍔」であることはわかっていました。鍔ならば円か楕円でよさそうなのにと思ったわけです。
『誹風柳多留』の112編に「さすが武士の子金鍔を喰ひたがり」という川柳がありますから、「つば」が「鍔」であることは間違いありません。
その『守貞謾稿』には「麦粉に餡を入れて焼くなり」と記されていますから、現代の金鍔とほぼ同じでしょう。
ネット情報で検索すると、大坂が発祥地で、「銀鍔」と呼ばれていたが、江戸に伝えられて「金鍔」と江戸っ子好みに呼ばれるようになったと記されていました。確かに大坂は銀貨が流通し、江戸は金貨が流通していましたから、なる程と思わせる説明です。
しかし幕末期の『波華百事談』(日本随筆大成 第三期 第二巻)という大坂の地誌や風俗などを叙述した
という書物には、「金鍔といふもの・・・・小豆の粒の交じりたる餡を、木の円く穴をほりし物に詰めてぬき、それに小麦粉を水にてときし物をつけて、裏表をやき鍋におきて焼しものにて、横より見れば固詰あん見ゆる物なり」と記されています。
これからわかることは、円形であり、ある程度の厚さがあり、餡は粒餡であり、大坂でも金鍔と呼ばれていたことです。
また江戸後期の『嬉遊笑覧』という百科事典的随筆には、「鍋にて焼たるその形をもて銀鍔とも言ふと有り。今のどら焼は又金鍔やきともいふ。これ麩の焼と銀鍔と取まぜ作りたるものなり。どらとは形金鼓に似たる故、鉦と名づけしは形大きなるをいひしが、今は形小さくなりて金鍔と呼ぶなり」と記されています。
これからわかることは、金鍔も銀鍔も同時に行われていますが、どうも銀鍔という呼称の方が古そうです。そしてどら焼は銅鑼や鉦の形に似ていることによる呼称で、かつては大きかった物が小さくなり、金鍔と呼ばれていたこと。どら焼は銀鍔と麩の焼(小麦粉をこねて薄く伸ばし、餡を入れて焼いた菓子)の折衷であることがわかります。要するにどら焼も金鍔もよく似ていたものらしいのです。
以上のことを総合すると、大坂の金鍔は、型抜きした円い粒餡の固まりに水溶き小麦粉を付けて焼いていますから、現代の金鍔に似ています。『嬉遊笑覧』は江戸の考証学者の著書ですから、江戸の風俗が記されているとすれば、江戸では銀鍔と呼ばれていますが、どら焼風に変化した物は金鍔と呼ばれていたことになります。
書いていて自分でもわけがわからなくなってきましたが、大坂で銀鍔と呼ばれたものが江戸に伝えられて金鍔になったという流布説は事実ではなさそうです。
広い日本の何処かには。きっと円い金鍔があることでしょう。もしあれば、それが原形に近い物と言うことができそうです。
食物事典の類の編者や著者は、確かな根拠に基づいて書いていないことは明かです。それを確かめもせずに摘まみ食いするネット情報はますます信用できません。
『誹風柳多留』の112編に「さすが武士の子金鍔を喰ひたがり」という川柳がありますから、「つば」が「鍔」であることは間違いありません。
その『守貞謾稿』には「麦粉に餡を入れて焼くなり」と記されていますから、現代の金鍔とほぼ同じでしょう。
ネット情報で検索すると、大坂が発祥地で、「銀鍔」と呼ばれていたが、江戸に伝えられて「金鍔」と江戸っ子好みに呼ばれるようになったと記されていました。確かに大坂は銀貨が流通し、江戸は金貨が流通していましたから、なる程と思わせる説明です。
しかし幕末期の『波華百事談』(日本随筆大成 第三期 第二巻)という大坂の地誌や風俗などを叙述した
という書物には、「金鍔といふもの・・・・小豆の粒の交じりたる餡を、木の円く穴をほりし物に詰めてぬき、それに小麦粉を水にてときし物をつけて、裏表をやき鍋におきて焼しものにて、横より見れば固詰あん見ゆる物なり」と記されています。
これからわかることは、円形であり、ある程度の厚さがあり、餡は粒餡であり、大坂でも金鍔と呼ばれていたことです。
また江戸後期の『嬉遊笑覧』という百科事典的随筆には、「鍋にて焼たるその形をもて銀鍔とも言ふと有り。今のどら焼は又金鍔やきともいふ。これ麩の焼と銀鍔と取まぜ作りたるものなり。どらとは形金鼓に似たる故、鉦と名づけしは形大きなるをいひしが、今は形小さくなりて金鍔と呼ぶなり」と記されています。
これからわかることは、金鍔も銀鍔も同時に行われていますが、どうも銀鍔という呼称の方が古そうです。そしてどら焼は銅鑼や鉦の形に似ていることによる呼称で、かつては大きかった物が小さくなり、金鍔と呼ばれていたこと。どら焼は銀鍔と麩の焼(小麦粉をこねて薄く伸ばし、餡を入れて焼いた菓子)の折衷であることがわかります。要するにどら焼も金鍔もよく似ていたものらしいのです。
以上のことを総合すると、大坂の金鍔は、型抜きした円い粒餡の固まりに水溶き小麦粉を付けて焼いていますから、現代の金鍔に似ています。『嬉遊笑覧』は江戸の考証学者の著書ですから、江戸の風俗が記されているとすれば、江戸では銀鍔と呼ばれていますが、どら焼風に変化した物は金鍔と呼ばれていたことになります。
書いていて自分でもわけがわからなくなってきましたが、大坂で銀鍔と呼ばれたものが江戸に伝えられて金鍔になったという流布説は事実ではなさそうです。
広い日本の何処かには。きっと円い金鍔があることでしょう。もしあれば、それが原形に近い物と言うことができそうです。
食物事典の類の編者や著者は、確かな根拠に基づいて書いていないことは明かです。それを確かめもせずに摘まみ食いするネット情報はますます信用できません。