風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
もうすぐ秋の彼岸というのに、季節外れの歌ですみません。百人一首に収められているので、よく知られた歌です。詞書きによれば、藤原道家の娘が後堀河天皇の中宮として入内する際の屏風に貼られていた色紙に書かれた歌ということです。
この歌は6月晦日の夏越の祓えを詠んだものです。奈良時代以前から6月と12月の晦日には、禊をして半年間の罪穢れを祓い清める大祓の神事が行われていました。6月末の祓えは夏の最後の日のことですから、「夏越の祓え」と呼ばれました。
「ならの小川」というのは上賀茂神社の境内を真っ直ぐに南北に流れる御手洗川のことで、私が若い頃は水量もわずかしかありませんでした。しかし江戸時代の絵図には川幅も広く膝まで濡れるほどに、とうとうと清流が流れていたようです。最近は水を汲み上げているのでしょうか。水流が復活しているようです。また「なら」は川の名前であるだけでなく、両岸に繁る楢の木をも懸けています。
川が流れる森は「糺の森」と呼ばれ、神域となっています。そこには楢の木が繁っていたのでしょう。楢はの葉は幅が広く、涼しい木蔭となっていたようです。楢は柏と共に冬になっても落葉しないことから、葉守の神が宿る神聖な木という理解があり、そのことを詠んだ歌が伝えられています。現代人にとっては楢の葉はただ単に楢の葉というだけのことですが、往事の人にとっては、楢は神聖な木であり、禊の川に相応しい樹木だったのです。現代の注釈書はあまりそこまでは踏み込んでいないのですが、そこまで理解するからこそ禊の神聖さがさらに増幅されるのだと思います。
暑さの厳しい夏でも、夕暮は涼しいものです。それで夕暮が選ばれているのでしょうが、夕暮は秋の到来を実感させる時間帯でもあります。それは日本人に共通している感覚なのでしょうか。『枕草子』にも「秋は夕暮」と記されています。そして翌日は秋7月となるのですから、なおさら秋の到来を予感したことでしょう。当時は風に秋の到来を感じるものと共通理解されていましたから、肌に感じるところはすでに秋だったのでしょう。しかし夏の最後の日の夏越の禊をするのですから、理屈上はまだ夏なのです。それで肌で秋を予感しても、夏越の祓えをしているのが見えるので、まだ夏であるというわけです。
現代人は季節は徐々に移ろうものと思っていますが、古人はある日を境にして、はっきり定規で線を引くように、季節は交代するものと思っていました。7月になれば、たとえ猛暑であっても秋は秋。季節の感じ方は現代人とは異なっていたのです。
室町時代の有職故実書である『公事根源』や室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』には、この日に茅の輪潜りをしたことが記されています。その際には麻の葉を持ちながら、「水無月の 夏越のはらへ する人は 千歳の命 延ぶといふなり」(『拾遺和歌集』292)という歌と、「思ふこと みな尽きねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓へつるかな」(『後拾遺和歌集』1204)という和泉式部の歌を唱えながら、八の字のように茅の輪を潜るものとされていました。これは夏越の祓えの変化したものでしょう。
私自身の経験としては、國學院大學の学生の頃、神社の神主の人手が足りないときに手伝いに行き、人の形に紙を切り抜いた形代(かたしろ)と呼ばれるものを持って、氏子を一軒一軒訪ね、半年の罪穢れを書き込んでもらい、100円といっしょに受け取って神社に持ち帰りました。そしてお祓いをしたあと、その形代を川に流す神事をしたことがあります。そのころは言われるままに深い考えもありませんでしたが、今思い起こせば貴重な体験だったと思います。このような神事が、まだ行われている神社もきっとあることでしょう。同じ6月晦日の祓えですが、この方が茅の輪潜りより、この歌の禊に近い形を遺しています。
もうすぐ秋の彼岸というのに、季節外れの歌ですみません。百人一首に収められているので、よく知られた歌です。詞書きによれば、藤原道家の娘が後堀河天皇の中宮として入内する際の屏風に貼られていた色紙に書かれた歌ということです。
この歌は6月晦日の夏越の祓えを詠んだものです。奈良時代以前から6月と12月の晦日には、禊をして半年間の罪穢れを祓い清める大祓の神事が行われていました。6月末の祓えは夏の最後の日のことですから、「夏越の祓え」と呼ばれました。
「ならの小川」というのは上賀茂神社の境内を真っ直ぐに南北に流れる御手洗川のことで、私が若い頃は水量もわずかしかありませんでした。しかし江戸時代の絵図には川幅も広く膝まで濡れるほどに、とうとうと清流が流れていたようです。最近は水を汲み上げているのでしょうか。水流が復活しているようです。また「なら」は川の名前であるだけでなく、両岸に繁る楢の木をも懸けています。
川が流れる森は「糺の森」と呼ばれ、神域となっています。そこには楢の木が繁っていたのでしょう。楢はの葉は幅が広く、涼しい木蔭となっていたようです。楢は柏と共に冬になっても落葉しないことから、葉守の神が宿る神聖な木という理解があり、そのことを詠んだ歌が伝えられています。現代人にとっては楢の葉はただ単に楢の葉というだけのことですが、往事の人にとっては、楢は神聖な木であり、禊の川に相応しい樹木だったのです。現代の注釈書はあまりそこまでは踏み込んでいないのですが、そこまで理解するからこそ禊の神聖さがさらに増幅されるのだと思います。
暑さの厳しい夏でも、夕暮は涼しいものです。それで夕暮が選ばれているのでしょうが、夕暮は秋の到来を実感させる時間帯でもあります。それは日本人に共通している感覚なのでしょうか。『枕草子』にも「秋は夕暮」と記されています。そして翌日は秋7月となるのですから、なおさら秋の到来を予感したことでしょう。当時は風に秋の到来を感じるものと共通理解されていましたから、肌に感じるところはすでに秋だったのでしょう。しかし夏の最後の日の夏越の禊をするのですから、理屈上はまだ夏なのです。それで肌で秋を予感しても、夏越の祓えをしているのが見えるので、まだ夏であるというわけです。
現代人は季節は徐々に移ろうものと思っていますが、古人はある日を境にして、はっきり定規で線を引くように、季節は交代するものと思っていました。7月になれば、たとえ猛暑であっても秋は秋。季節の感じ方は現代人とは異なっていたのです。
室町時代の有職故実書である『公事根源』や室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』には、この日に茅の輪潜りをしたことが記されています。その際には麻の葉を持ちながら、「水無月の 夏越のはらへ する人は 千歳の命 延ぶといふなり」(『拾遺和歌集』292)という歌と、「思ふこと みな尽きねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓へつるかな」(『後拾遺和歌集』1204)という和泉式部の歌を唱えながら、八の字のように茅の輪を潜るものとされていました。これは夏越の祓えの変化したものでしょう。
私自身の経験としては、國學院大學の学生の頃、神社の神主の人手が足りないときに手伝いに行き、人の形に紙を切り抜いた形代(かたしろ)と呼ばれるものを持って、氏子を一軒一軒訪ね、半年の罪穢れを書き込んでもらい、100円といっしょに受け取って神社に持ち帰りました。そしてお祓いをしたあと、その形代を川に流す神事をしたことがあります。そのころは言われるままに深い考えもありませんでしたが、今思い起こせば貴重な体験だったと思います。このような神事が、まだ行われている神社もきっとあることでしょう。同じ6月晦日の祓えですが、この方が茅の輪潜りより、この歌の禊に近い形を遺しています。