私は埼玉県の高校で長年地歴課の教職にありましたが、すでに数年前に定年退職しています。しかしまだ若い先生とは交流があり、最近はアクティブラーニングでなければ夜も日も明けぬとばかりに、一斉講義式の授業の批判を耳にします。しかしそんなにいい加減な授業をしたとは思っていませんから、その批判は素直には受け入れられないのです。
先日、近所の小学校で、小学校6年生に話をする機会がありました。「読み聞かせ」と称して、学校近隣のボランティアが学期に数回、朝の20分程の時間に、生徒を対象として楽しいお話しをするのですが、私も参加しています。対象が小学生ですから、内容的に深いことはできないことはご了解下さい。その経験を通して、アクティブラーニングについてあらためて問題点を感じました。
まずはその時の話を再現してみましょう。「 」内は、生徒や担任など、私以外の発言です。
皆さんおはようございます。「おはようございます。宜しくお願いします」。みんな元気そうですね。今日はあまり見慣れないものを持ってきましたよ。何だかわかりますか。「石臼だ」。よく知っていましたね。びっくりしたなあ。石臼って、これで何するのかな。臼とは言ってもお餅を搗くわけではなさそうだし・・・・。「そば粉を作る」。えっ、そばの実を粉にするの。これまたよく知ってるね。見たことあるの。「テレビで見たことある」。あのね、そばの実は堅いから、こんなに小さな臼ではできないんだよ。そばや米を粉にする時は、もっともっと大きくて重い臼を使うんだよ。今、豆を粉にするって小さな声で聞こえたんだけど、言ったのだあれ。「はい、僕です」。大豆を粉にすると何になるか知ってるの。「うん、きな粉」。えっ、すごいね。よく知ってましたね。大人でも知らない人いると思いますよ。ひょっとしたら若い先生は知らないかもしれない。「前に、家庭科の授業で習ったから」。へえ、そうなんだ。いやいや、とっても驚きました。
今日はね、お茶の話をしましょう。さっき校門のそばにお茶の花が咲いていたので、一枝持ってきました。ほら真っ白くてきれいな花でしょ。お茶の花はこれから冬にかけて咲くんですよ。花と一緒に、もうお茶の実も成っていたので、採って来ました。ほら、面白い形をしているでしょ。外側の殻を割ってみると、ほうら、中にまん丸い種が三つ入っています。みんなはもう地図記号は習ったのかな。「簡単なのはもう習っています」(担任)。そうですか。学校やお寺や神社や果樹園や田んぼくらいはわかりますね。この辺にはあまり見かけないけど、茶畑の地図記号も、今日覚えましょう。小さな点を三角に並べるんだけど、どうしてこの形が茶畑になるのか、考えたこともなかったと思うけど、お茶の実を見れば納得できるでしょ。小さな三つの点が三角に並んでいるのは、お茶の実の形を表しているんですよ。
ところでお茶は何色かな。「緑」。うん、確かに緑色だけど、でもね、お茶の色は茶色じゃないのかな。茶の色だから茶色って言うか・・・・。でも、お茶は茶色じゃないね。なんだか変だよね。先生、もう6年生は英語を習っているんですか。「はい、少しはやっています」(担任)。それじゃあ英語で茶色は何て言うのかな。「ブラウン」。うん、そうだね、よくできました。実はね、昔のお茶は葉っぱをフライパンみたいなお鍋で炒って、飲む時には鍋で煮ていたので、茶色の飲み物だったんです。だから本当に茶色だった。お茶で白い布を染めると茶色になった。それとは別に乾燥させたお茶の葉を臼で粉にして、お湯を注いで飲むことも行われて、それが茶道のお抹茶になっていきました。現在私たちが普通に飲んでいる緑のお茶が作られるようになったのは、江戸時代のことです。摘んできたお茶の葉を蒸かして、それを弱火で炒りながら手で揉んで作ります。お茶にもいろいろな作り方があるんですよ。
今日は埼玉県で生産されたお茶を持ってきました。みんなはお茶の生産が多い県はどこだか知っていますか。「静岡県」。そうですね。静岡のお茶は有名ですね。でもね、最近は鹿児島県のお茶が多くなっています。お茶は暖かい気候と雨が大好きな植物で、そういう気候の地方で栽培されていますね。取れ高は多くはないけれど、埼玉県もお茶が生産されているんですよ。どこか知ってるかなあ。「入間」。いやいや、これまたよく知ってるねえ。狭山という辺りでよく栽培されているので、狭山茶って呼ばれているんだけど、同じ埼玉県だから覚えておきましょうね。
このお茶で抹茶を作ってみましょう。ところで抹茶の抹って、どういう意味かな。「粉」。そうですね。粉でいいんだけど、ただの粉よりももっともっと細かい粉のことかな。ではさつそくこの臼で作ってみましょう。さあ、みんな、よく見えるように、もっと近くに集まって。お茶を粉にする臼を茶臼と言います。まずは臼がどんな構造になっているかよくよく見てごらん。上半分をひっくり返してみると、石と石が接する面には、溝が刻まれているでしょう。この溝にお茶の葉がひっかかって、こすりあわされて、石の重みで細かくなるんです。ほら、こうやってお茶の葉を上の穴から落としてやります。そしてこうやって取っ手を時計と反対周りに回します。さあ誰かやってみませんか。「ほら、お前やれよ」。そう、全員にやってもらおうかな。何でも経験しておくことは大切なんですよ。悪いことでないなら、どんなことでもやっておく。きっと役に立ちますよ。「ねえ、先生にもやらせてよ」「先生、大人気ないねえ」。先生、生徒に言われちゃってますねえ。ここでちょっと、どうなっているか臼の上半分を持ち上げてみましょう。「わお、お抹茶になってる」。うん、実際には何回か繰り返さないと本当のお抹茶くらいにはならないんだけど、一回だけでもかなり細かくなっているでしょ。なめてもいいよ。「本当にお茶の香りがする」。「うまいよ、お前もなめてごらん」。そう、なんでも経験が大切だから、みんなやつてごらん。ほら恥ずかしがらずに。・・・・さあみんな臼を回してみたかな。こうやって臼を回して粉にすることを、臼をひくと言います。だから臼で何かを粉にすることを粉にひくという表現をします。覚えておいてね。
ああ、もう時間がなくなっちゃいましたね。今日はいろいろ珍しい体験をしました。幅広く経験をして、幅広く疑問をもつて、いろんな知識を身に着けて下さい。それがきっと役に立つことがありますよ。それじゃあ今日はこの辺で終わりましょう。
私に与えられた時間は正味15分くらいですから、この程度しか話せませんでした。しかし子供たちは興奮するようにして臼をひいたり粉をなめていました。また私自身がよい経験をしたと思います。
そこでいつも思うことは、一斉講義式授業とアクティブラーニングの授業のことです。一斉講義式の授業は一方的に知識を詰め込むだけの遅れた授業法で、これからの授業は生徒が主役となり、主体的に互いに学びあうものでなければならないというのです。先生は主にプリントや映像で資料を提供し、それをもとに生徒同士で考え学びあうというのですが、私には一斉講義式の授業が遅れた授業とは思えません。
今日のように「茶」というテーマで学習するとしましょう。アクティブラーニング式でやるとどのような授業ができるのかわかりませんが、班ごとに茶臼や茶の花を用意するのは難しいでしょう。用意できても、使い方の説明は一斉にせざるを得ません。茶の花を見たこともなく、茶臼を触ったこともない生徒が、与えられた資料だけをあれこれこね回しても、私の茶の経験に及ぶはずがありません。まさに「群盲、象を撫でる」に等しい。たった15分の学びでしたが、その間、生徒たちはワクワクしながら話を聞き、体験し、学んでいました。班別に分け、プリント資料を与えられて、茶のことをよくは知らない者同士が学びあう学習よりも、はるかに中身の濃い学習ができたと思っています。「子供たちは経験を通してアクティブに学習していたのですから、すでにアクティブラーニングになっていたのでは」と言われるかもしれません。実際そうだと思います。しかし私は班にも分けず、一方的に私が子供にわかる言葉で「講義」をしていました。言葉のやり取りはありますが、あくまで主導権は私にあり、生徒を引きずっていったのです。私の気持ちとしては、一斉講義式の形でした。
一斉講義式は「知識の詰め込み」だと非難されますが、それは授業者がそのような授業しかしてこなかったからだと思います。一斉講義式の形をとりながらでも、生徒をアクティブにすることは、工夫次第で出来るからです。
アクティブラーニングの問題点は、文化史の授業に顕著に表れます。生徒はほとんど仏像にせよ絵画にせよ見たことはない。まして文献史料など読んだこともない。与えられた資料をもとに、よく知らない生徒が知らないものについてあれこれ考え教え合っても、どれ程実感をもって理解できるか大いに疑問です。例えば正倉院の螺鈿紫檀五絃琵琶について理解させようとしても、螺鈿を言葉でどのように説明するのですか。サザエやアワビの貝殻を持ち込んで、生徒が見ている前でハンマーで砕き、貝の内側の真珠層を見せた方が、余程によく理解させられます。破片を粘土に埋め込んで見せ、螺鈿装飾の原理を示すこともできます。
また漆器や蒔絵について理解させようとする時、漆器を言葉でどう説明するのですか。もちろん一通りの説明はできるでしょう。しかし実際に漆器を触らせながら解説することの方がはるかに説得力があります。ウルシはかぶれることもありますから、実物を持ってくることはできません。しかしウルシとよく似たカシュー塗料を持ち込み、生徒の目の前で木製品に塗装することはできます。カシュー塗料はカシューナッツの木の実の殻から抽出した塗料で、漆とそっくりです。価格もそれ程でもないので、教材として大いに利用できます。黒い板の上にカシュウ塗料で何かの形を描き、その上に微細な粉末を蒔き散らし、息を吹きかけて余分な粉を吹き払えば、塗料を縫った部分にだけ粉が載るので、描いた模様が浮き出ます。蒔絵というものの原理はこれで理解させられます。漆器や蒔絵は歴史的に日本の重要な輸出品であり、英語ではjapanという国名でつうようするのですから、何としても実感をもって理解させたい。(普通名詞なので、頭文字は小文字)。私の授業ではこのようにして理解させますが、これと同じレベルの理解を、アクティブラーニングでできますか。漆器が何であるか全くわからない、まして蒔絵など見当も付かない生徒が、いくら教えあっても実物を見せ、また触らせながら理解させる一斉講義式の授業にかなうはずはありません。
もちろん一斉講義式の授業でも、やり方によっては限りなく退屈な授業になりかねません。一斉講義式だからよいと言いたいわけではありません。理解させるための工夫をしないならば、また授業者の経験や理解が貧弱であるならば、一斉講義式ではただ眠くなるばかりで、余程アクティブラーニングの方がましなことになります。生徒が動いている分、眠くはならないでしょう。一斉講義式が批判されるようになったのは、授業者が理解させるための工夫もせず、自分自身の研修も深めず、十年一日としてただ言葉だけを弄んでいたからなのです。
もちろんアクティブラーニングを全て否定するわけではありません。時にはそのような授業があっても、変化があって面白いでしょう。しかしどんな時代になっても、授業の基本は、授業者の深い理解と、豊富な経験と、弛まぬ工夫と、研鑽を積んだ上手な語り掛けによって成り立つものなのです。
もし反論があるなら、アクティブラーニングの手法で、漆器の話をしていただきたいものです。私はいつでも受けて立つつもりです。
先日、近所の小学校で、小学校6年生に話をする機会がありました。「読み聞かせ」と称して、学校近隣のボランティアが学期に数回、朝の20分程の時間に、生徒を対象として楽しいお話しをするのですが、私も参加しています。対象が小学生ですから、内容的に深いことはできないことはご了解下さい。その経験を通して、アクティブラーニングについてあらためて問題点を感じました。
まずはその時の話を再現してみましょう。「 」内は、生徒や担任など、私以外の発言です。
皆さんおはようございます。「おはようございます。宜しくお願いします」。みんな元気そうですね。今日はあまり見慣れないものを持ってきましたよ。何だかわかりますか。「石臼だ」。よく知っていましたね。びっくりしたなあ。石臼って、これで何するのかな。臼とは言ってもお餅を搗くわけではなさそうだし・・・・。「そば粉を作る」。えっ、そばの実を粉にするの。これまたよく知ってるね。見たことあるの。「テレビで見たことある」。あのね、そばの実は堅いから、こんなに小さな臼ではできないんだよ。そばや米を粉にする時は、もっともっと大きくて重い臼を使うんだよ。今、豆を粉にするって小さな声で聞こえたんだけど、言ったのだあれ。「はい、僕です」。大豆を粉にすると何になるか知ってるの。「うん、きな粉」。えっ、すごいね。よく知ってましたね。大人でも知らない人いると思いますよ。ひょっとしたら若い先生は知らないかもしれない。「前に、家庭科の授業で習ったから」。へえ、そうなんだ。いやいや、とっても驚きました。
今日はね、お茶の話をしましょう。さっき校門のそばにお茶の花が咲いていたので、一枝持ってきました。ほら真っ白くてきれいな花でしょ。お茶の花はこれから冬にかけて咲くんですよ。花と一緒に、もうお茶の実も成っていたので、採って来ました。ほら、面白い形をしているでしょ。外側の殻を割ってみると、ほうら、中にまん丸い種が三つ入っています。みんなはもう地図記号は習ったのかな。「簡単なのはもう習っています」(担任)。そうですか。学校やお寺や神社や果樹園や田んぼくらいはわかりますね。この辺にはあまり見かけないけど、茶畑の地図記号も、今日覚えましょう。小さな点を三角に並べるんだけど、どうしてこの形が茶畑になるのか、考えたこともなかったと思うけど、お茶の実を見れば納得できるでしょ。小さな三つの点が三角に並んでいるのは、お茶の実の形を表しているんですよ。
ところでお茶は何色かな。「緑」。うん、確かに緑色だけど、でもね、お茶の色は茶色じゃないのかな。茶の色だから茶色って言うか・・・・。でも、お茶は茶色じゃないね。なんだか変だよね。先生、もう6年生は英語を習っているんですか。「はい、少しはやっています」(担任)。それじゃあ英語で茶色は何て言うのかな。「ブラウン」。うん、そうだね、よくできました。実はね、昔のお茶は葉っぱをフライパンみたいなお鍋で炒って、飲む時には鍋で煮ていたので、茶色の飲み物だったんです。だから本当に茶色だった。お茶で白い布を染めると茶色になった。それとは別に乾燥させたお茶の葉を臼で粉にして、お湯を注いで飲むことも行われて、それが茶道のお抹茶になっていきました。現在私たちが普通に飲んでいる緑のお茶が作られるようになったのは、江戸時代のことです。摘んできたお茶の葉を蒸かして、それを弱火で炒りながら手で揉んで作ります。お茶にもいろいろな作り方があるんですよ。
今日は埼玉県で生産されたお茶を持ってきました。みんなはお茶の生産が多い県はどこだか知っていますか。「静岡県」。そうですね。静岡のお茶は有名ですね。でもね、最近は鹿児島県のお茶が多くなっています。お茶は暖かい気候と雨が大好きな植物で、そういう気候の地方で栽培されていますね。取れ高は多くはないけれど、埼玉県もお茶が生産されているんですよ。どこか知ってるかなあ。「入間」。いやいや、これまたよく知ってるねえ。狭山という辺りでよく栽培されているので、狭山茶って呼ばれているんだけど、同じ埼玉県だから覚えておきましょうね。
このお茶で抹茶を作ってみましょう。ところで抹茶の抹って、どういう意味かな。「粉」。そうですね。粉でいいんだけど、ただの粉よりももっともっと細かい粉のことかな。ではさつそくこの臼で作ってみましょう。さあ、みんな、よく見えるように、もっと近くに集まって。お茶を粉にする臼を茶臼と言います。まずは臼がどんな構造になっているかよくよく見てごらん。上半分をひっくり返してみると、石と石が接する面には、溝が刻まれているでしょう。この溝にお茶の葉がひっかかって、こすりあわされて、石の重みで細かくなるんです。ほら、こうやってお茶の葉を上の穴から落としてやります。そしてこうやって取っ手を時計と反対周りに回します。さあ誰かやってみませんか。「ほら、お前やれよ」。そう、全員にやってもらおうかな。何でも経験しておくことは大切なんですよ。悪いことでないなら、どんなことでもやっておく。きっと役に立ちますよ。「ねえ、先生にもやらせてよ」「先生、大人気ないねえ」。先生、生徒に言われちゃってますねえ。ここでちょっと、どうなっているか臼の上半分を持ち上げてみましょう。「わお、お抹茶になってる」。うん、実際には何回か繰り返さないと本当のお抹茶くらいにはならないんだけど、一回だけでもかなり細かくなっているでしょ。なめてもいいよ。「本当にお茶の香りがする」。「うまいよ、お前もなめてごらん」。そう、なんでも経験が大切だから、みんなやつてごらん。ほら恥ずかしがらずに。・・・・さあみんな臼を回してみたかな。こうやって臼を回して粉にすることを、臼をひくと言います。だから臼で何かを粉にすることを粉にひくという表現をします。覚えておいてね。
ああ、もう時間がなくなっちゃいましたね。今日はいろいろ珍しい体験をしました。幅広く経験をして、幅広く疑問をもつて、いろんな知識を身に着けて下さい。それがきっと役に立つことがありますよ。それじゃあ今日はこの辺で終わりましょう。
私に与えられた時間は正味15分くらいですから、この程度しか話せませんでした。しかし子供たちは興奮するようにして臼をひいたり粉をなめていました。また私自身がよい経験をしたと思います。
そこでいつも思うことは、一斉講義式授業とアクティブラーニングの授業のことです。一斉講義式の授業は一方的に知識を詰め込むだけの遅れた授業法で、これからの授業は生徒が主役となり、主体的に互いに学びあうものでなければならないというのです。先生は主にプリントや映像で資料を提供し、それをもとに生徒同士で考え学びあうというのですが、私には一斉講義式の授業が遅れた授業とは思えません。
今日のように「茶」というテーマで学習するとしましょう。アクティブラーニング式でやるとどのような授業ができるのかわかりませんが、班ごとに茶臼や茶の花を用意するのは難しいでしょう。用意できても、使い方の説明は一斉にせざるを得ません。茶の花を見たこともなく、茶臼を触ったこともない生徒が、与えられた資料だけをあれこれこね回しても、私の茶の経験に及ぶはずがありません。まさに「群盲、象を撫でる」に等しい。たった15分の学びでしたが、その間、生徒たちはワクワクしながら話を聞き、体験し、学んでいました。班別に分け、プリント資料を与えられて、茶のことをよくは知らない者同士が学びあう学習よりも、はるかに中身の濃い学習ができたと思っています。「子供たちは経験を通してアクティブに学習していたのですから、すでにアクティブラーニングになっていたのでは」と言われるかもしれません。実際そうだと思います。しかし私は班にも分けず、一方的に私が子供にわかる言葉で「講義」をしていました。言葉のやり取りはありますが、あくまで主導権は私にあり、生徒を引きずっていったのです。私の気持ちとしては、一斉講義式の形でした。
一斉講義式は「知識の詰め込み」だと非難されますが、それは授業者がそのような授業しかしてこなかったからだと思います。一斉講義式の形をとりながらでも、生徒をアクティブにすることは、工夫次第で出来るからです。
アクティブラーニングの問題点は、文化史の授業に顕著に表れます。生徒はほとんど仏像にせよ絵画にせよ見たことはない。まして文献史料など読んだこともない。与えられた資料をもとに、よく知らない生徒が知らないものについてあれこれ考え教え合っても、どれ程実感をもって理解できるか大いに疑問です。例えば正倉院の螺鈿紫檀五絃琵琶について理解させようとしても、螺鈿を言葉でどのように説明するのですか。サザエやアワビの貝殻を持ち込んで、生徒が見ている前でハンマーで砕き、貝の内側の真珠層を見せた方が、余程によく理解させられます。破片を粘土に埋め込んで見せ、螺鈿装飾の原理を示すこともできます。
また漆器や蒔絵について理解させようとする時、漆器を言葉でどう説明するのですか。もちろん一通りの説明はできるでしょう。しかし実際に漆器を触らせながら解説することの方がはるかに説得力があります。ウルシはかぶれることもありますから、実物を持ってくることはできません。しかしウルシとよく似たカシュー塗料を持ち込み、生徒の目の前で木製品に塗装することはできます。カシュー塗料はカシューナッツの木の実の殻から抽出した塗料で、漆とそっくりです。価格もそれ程でもないので、教材として大いに利用できます。黒い板の上にカシュウ塗料で何かの形を描き、その上に微細な粉末を蒔き散らし、息を吹きかけて余分な粉を吹き払えば、塗料を縫った部分にだけ粉が載るので、描いた模様が浮き出ます。蒔絵というものの原理はこれで理解させられます。漆器や蒔絵は歴史的に日本の重要な輸出品であり、英語ではjapanという国名でつうようするのですから、何としても実感をもって理解させたい。(普通名詞なので、頭文字は小文字)。私の授業ではこのようにして理解させますが、これと同じレベルの理解を、アクティブラーニングでできますか。漆器が何であるか全くわからない、まして蒔絵など見当も付かない生徒が、いくら教えあっても実物を見せ、また触らせながら理解させる一斉講義式の授業にかなうはずはありません。
もちろん一斉講義式の授業でも、やり方によっては限りなく退屈な授業になりかねません。一斉講義式だからよいと言いたいわけではありません。理解させるための工夫をしないならば、また授業者の経験や理解が貧弱であるならば、一斉講義式ではただ眠くなるばかりで、余程アクティブラーニングの方がましなことになります。生徒が動いている分、眠くはならないでしょう。一斉講義式が批判されるようになったのは、授業者が理解させるための工夫もせず、自分自身の研修も深めず、十年一日としてただ言葉だけを弄んでいたからなのです。
もちろんアクティブラーニングを全て否定するわけではありません。時にはそのような授業があっても、変化があって面白いでしょう。しかしどんな時代になっても、授業の基本は、授業者の深い理解と、豊富な経験と、弛まぬ工夫と、研鑽を積んだ上手な語り掛けによって成り立つものなのです。
もし反論があるなら、アクティブラーニングの手法で、漆器の話をしていただきたいものです。私はいつでも受けて立つつもりです。
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