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山吹雑感

2016-03-13 19:05:17 | 植物
まだ3月中旬というのに、我が家の周辺では、桜より早く野生の山吹が咲き始めました。桜は日本の国花ですから、日本情緒に溢れているのはもちろんですが、山吹も日本ならではの花で、私の大好きな花の一つです。学名は Kerria japonica f. plena。Kerriaは山吹を世界に紹介した英国の植物学者Kerrに拠るもの。英語辞典では Japanese rose(日本の薔薇)と記されているくらいですから、日本特産なのでしょう。そう思ってみると、いよいよ日本の花として心が惹かれます。
 庭にも植えられるようですが、我が家の周辺では野生に咲くのを楽しむものであって、庭に植えるという発想そのものがありません。植えるとしたら八重山吹でしょうか。華奢な枝が風にゆれる姿が美しく、『万葉集』では「山振」とも表記されています。庭に植えてあるとしたら、あまり刈り込まないで、枝が風に揺れる程にしておいたらいいでしょうね。
 さて山吹というと、すぐに太田道灌の故事が連想されます。戦国武将の逸話を集めた湯浅常山の『常山紀談』という書物の巻一に、「太田持資歌道に志す事」として記されているのですが、話の内容は今さらここに書く程のこともないでしょう。この逸話については、ネット上にも溢れているのですが、決まって、娘が「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」という『後拾遺和歌集』の歌によって山吹の枝を差し出したと説明されています。しかし『後拾遺和歌集』の1154に載せられている歌は「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」であって、「なきぞかなしき」ではありません。(この場合の「あやし」とは現代の「怪しい」「妖しい」とは意味がことなり、「理解に苦しむ」とか「道理に外れる」というような意味)。『常山紀談』には「なきぞかなしき」となっています。もし『後拾遺和歌集』を出典として「なきぞかなしき」と解説しているとすれば、その文を載せた人は、原典を確認せずに、ネット情報を安易に切り貼りしているかもしれません。こう言う私もネットは大いに活用していますが、玉石混淆ですから、可能な限り原典に当たる努力をしなければならないと思います。情報の善し悪しを見極め<ることが必要でしょう。

 『後拾遺和歌集』の1154には、次のような前書きが添えられています。
「小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける」。
歌の作者である中務卿兼明親王が小倉の家に住んでいた頃、雨の降る日に来客があったのでしょう。帰りがけ蓑を借りたいと言われたので、山吹の枝を折って持たせました。その人はその意味が理解できずに帰って行きましたが、何日か経って、山吹の意味がわからなかったと言って寄越したので、その返事に歌を届けました、という意味です。ですから山吹の枝を差し出したのは例の娘のとっさの機転ではありません。しかし教養を期待できないはずの田舎娘が、その歌を知っていたこと、またそれを思い出して真似とはいえ咄嗟に同じ行動をしたことは、賞賛に値すると思います。田舎と言って馬鹿にするわけではありませんが、手書きの書物しかない頃に、東国の田舎の娘が『後拾遺和歌集』を諳んじていたということは、驚くべきことなのです。
 
 現代人には花の一枝を差し出されても何のことかいなということになるのでしょうが、自然の物にことよせて心を表現することは、当時は心ある人の間ではよく行われていたことでした。例えば枯れ枝を恋人に贈るのは、「枯る」は「離る」(かる)と同音であることによって、あなたとの心の距離が離れてしまったと嘆くことを意味しました。また紅葉の枝を贈ることは、木の葉ならぬ言の葉が色変わりして、好意が変化してなくなってしまうことや、「秋」ならぬ「飽き」がきたことを意味します。またすすきの穂を贈れば、穂が本心を意味する「本意」(ほい)に通じることから、本心を露わにするすることを意味していました。枝を贈られた方は、何を意味するか見抜けなければなりませんし、それがわからないような野暮なことでは、恋愛すらできなかったのです。私はある時高名な歌人にお手紙を差し上げたのですが、長い間御返事がありませんでした。それである時、松の葉を便箋に貼り付けて、お送りしたところ、早速御返事を頂いたことがあります。少し悪戯心もあったのですが、その方は古歌の研究もなさっていらっしゃるので、必ずわかっていただけると思っていましたが、さすがに理解して下さったようです。

 さてこの太田道灌の故事ゆかりの地が「山吹の里」と呼ばれ、あちこちにあるそうです。埼玉県の越生(おごせ)や都電荒川線面影橋駅のそばにもあるそうです。またネット情報では岩槻には「山吹の里」という高齢者施設があるそうです。いずれも太田道灌ゆかりの地であることは間違いないのですが、「こここそ山吹の里」と断定されますと、白けてしまいます。銅像を立てるのは自由ですが確実な資料的根拠もないのに、街興し的発想で史実を創作してしまうことには賛成できません。せめて「・・・・かもしれません」くらいに留めておいて欲しいものです。太田道灌は江戸城・川越城・岩槻城(最近は否定する説も出ているそうです)を建てたとされていて、西関東一帯で活動していますから、どこに「山吹の里」があってもおかしくはありません。ただ面影橋の側には1686年(貞享3)に建てられた「山吹の里」と刻まれた石碑があり、見る限りは偽物ではなさそうです。ただ現在の地に最初からあったわけではなさそうなので、面影橋の辺が山吹の里の原点と断定することはできません。しかし『常山紀談』は18世紀半ばの書物ですから、それ以前に「山吹の里」という言葉があったことは注目して良いでしょう。


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