日本語には同音異義語が多いので、仮名で書かれると意味がわからないことがあります。日本語を学ぶ外国人にとっては、悩みの種の一つでしょう。しかし和歌にとっては異なる意味があることを活かして、奥深い内容を現すことができますから、なかなか棄てがたいものなのです。
今日ここで採り上げるのは「かれる」という言葉です。古歌や文語では「かる」と言います。さて漢字を当てはめるとどのように書くでしょうか。草木が生気をなくすのは「枯れる」ですが、人や芸が枯れることもあります。水がなくなるのは「涸れる」ですが、資金や才能が涸れることもあります。声が出なくなるのは「嗄れる」ですね。口語で思いつくのはこんなものですが、文語ならば「離る」という言葉があります。これは「遠ざかる」という意味で、間隔が広がるので「離」という漢字を当てているのでしょう。これで「かる」と読むのは、現代語ではもう無理かもしれませんね。古歌にはこの「枯る」と「離る」を掛けた和歌がたくさんあるのです。
①山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば (古今集 冬 315)
②わが待たぬ年は来ぬれど冬草のかれにし人はおとづれもせず (古今集 冬 338)
③萌え出づる木の芽を見ても音をぞ泣くかれにし枝の春を知らねば (後撰集 春 14)
④霜さやぐ野辺の草葉にあらねどもなどか人目のかれまさるらん (新古今 恋 1244)
⑤今来んといふ言の葉もかれゆくによなよな露の何に置くらん (新古今 恋 1344)
①は百人一首にも収められて、大変よく知られています。冬は、草が枯れるだけでなく、人も訪ねて来なくなるので、いよいよ寂しさが募る、という意味ですが、人が訪れてこないことを「人目が離る」と表現しているわけです。②は、詞書きによれば大晦日に詠んだ歌です。待っているわけでもない新しい年がそこまで来てしまいましたが、冬草が枯れ果ててしまうように私から遠ざかった人は、も便りもよこしてくれない、という意味です。「わが待たぬ年」というのは、作者は年配者なのか、年を重ねることが嫌だからなのでしょう。③には「かれにける男のもとに、その住みける方の庭の木の枯れたりける枝を折りてつかはしける」という前書きが添えられています。春に萌え出る木の芽を見るにつけて、私は声に出して泣いています。枯れ枝が春になっても萌え出ないように、あなたが離(か)れて遠くに行ってしまった私には、春は関係ないのです、という意味です。おそらく枯れ枝に歌を結び付けて持たせてやったのでしょう。現代人なら「何だ、こんな枯れ枝をよこして・・・・」と怒り出すところですが、古人ならすぐにわかることだったのです。④は醍醐天皇の御製で、霜がさやさやと鳴る野辺の草葉が枯れるではないが、どうして人目が離れて行くのだろうか、という意味です。この「人」はこの場合は天皇の女御なのでしょう。⑤は和泉式部の歌で、詞書きによれば、期待させた女が返事を寄こさなくなったので、男に成り代わって詠んだという歌です。今参りますという言葉も枯れ葉となってゆくのに、毎晩の涙の露はいったい何の上に置くのでしょうか、という意味です。露は葉の上に置くものですから、その葉が枯れてしまったら、置くものがないではありませんかと、離れてしまった女に訴えているのです。話は別ですが、気の利いた歌が詠めなければ、恋の一つも出来なかったのですね。
①②④は冬の歌で、③は春と言ってもまだ枯野の残る早春でしょう。冬は寒さや雪のために人の接触が少なくなりがちな季節でした。現代と違って通信手段が手紙くらいしかなかった時代ですから、ただでさえ人が疎遠になる季節です。「枯る」に「離る」の意味を重ねて理解したのも自然なことでした。また恋の歌に仕立てることが常套でした。それは男が女を訪ねるのが当時の恋の在り方でしたから、訪ねてこなくなれば、それは即ち遠ざかること、つまり「離る」ことだったからです。
話はとびますが、『庭の千草』という唱歌があります。明治の最初の唱歌(音楽)の教科書に載せられて以来、今も歌い継がれる名曲です。その一番の歌詞に、「庭の千草も虫の音も かれてさびしくなりにけり」と歌われています。この「かれて」も同じことで、「枯れて」と「離れて」を掛けています。一般には初冬に咲き残る白菊の美しさを歌っていると理解されていますが、実は伴侶に先立たれた人が健気に生きる姿を庭に独り咲き残った菊にこと寄せて歌った歌なのです。しかしこのことはほとんど知られていません。この「かれて」は、表面的には文字通り枯れていることを表しますが、実は、若い頃には共に楽しく過ごした仲間たちが、晩年には一人減り、二人減って、ついには自分一人になってしまうこと、つまり愛した仲間たちがみな別の世界の遠くに逝ってしまったことを意味しているのです。
この『庭の千草』についてはもっともっと書きたいことがあるのですが、今回のテーマから外れてしまうので、ここではこれくらいにしておきます。私のブログに「『庭の千草』の秘密」と題する文章がありますので、そちらをご覧下さい。きっと「目から鱗」だと思います。
明日から当分の間、朝から夜遅くまで仕事が続きます。書くペースが今まで以上に遅くなりますが、お許し下さい。少しずつ書いていきます。数日に一度くらいは覗いて下さい。
今日ここで採り上げるのは「かれる」という言葉です。古歌や文語では「かる」と言います。さて漢字を当てはめるとどのように書くでしょうか。草木が生気をなくすのは「枯れる」ですが、人や芸が枯れることもあります。水がなくなるのは「涸れる」ですが、資金や才能が涸れることもあります。声が出なくなるのは「嗄れる」ですね。口語で思いつくのはこんなものですが、文語ならば「離る」という言葉があります。これは「遠ざかる」という意味で、間隔が広がるので「離」という漢字を当てているのでしょう。これで「かる」と読むのは、現代語ではもう無理かもしれませんね。古歌にはこの「枯る」と「離る」を掛けた和歌がたくさんあるのです。
①山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば (古今集 冬 315)
②わが待たぬ年は来ぬれど冬草のかれにし人はおとづれもせず (古今集 冬 338)
③萌え出づる木の芽を見ても音をぞ泣くかれにし枝の春を知らねば (後撰集 春 14)
④霜さやぐ野辺の草葉にあらねどもなどか人目のかれまさるらん (新古今 恋 1244)
⑤今来んといふ言の葉もかれゆくによなよな露の何に置くらん (新古今 恋 1344)
①は百人一首にも収められて、大変よく知られています。冬は、草が枯れるだけでなく、人も訪ねて来なくなるので、いよいよ寂しさが募る、という意味ですが、人が訪れてこないことを「人目が離る」と表現しているわけです。②は、詞書きによれば大晦日に詠んだ歌です。待っているわけでもない新しい年がそこまで来てしまいましたが、冬草が枯れ果ててしまうように私から遠ざかった人は、も便りもよこしてくれない、という意味です。「わが待たぬ年」というのは、作者は年配者なのか、年を重ねることが嫌だからなのでしょう。③には「かれにける男のもとに、その住みける方の庭の木の枯れたりける枝を折りてつかはしける」という前書きが添えられています。春に萌え出る木の芽を見るにつけて、私は声に出して泣いています。枯れ枝が春になっても萌え出ないように、あなたが離(か)れて遠くに行ってしまった私には、春は関係ないのです、という意味です。おそらく枯れ枝に歌を結び付けて持たせてやったのでしょう。現代人なら「何だ、こんな枯れ枝をよこして・・・・」と怒り出すところですが、古人ならすぐにわかることだったのです。④は醍醐天皇の御製で、霜がさやさやと鳴る野辺の草葉が枯れるではないが、どうして人目が離れて行くのだろうか、という意味です。この「人」はこの場合は天皇の女御なのでしょう。⑤は和泉式部の歌で、詞書きによれば、期待させた女が返事を寄こさなくなったので、男に成り代わって詠んだという歌です。今参りますという言葉も枯れ葉となってゆくのに、毎晩の涙の露はいったい何の上に置くのでしょうか、という意味です。露は葉の上に置くものですから、その葉が枯れてしまったら、置くものがないではありませんかと、離れてしまった女に訴えているのです。話は別ですが、気の利いた歌が詠めなければ、恋の一つも出来なかったのですね。
①②④は冬の歌で、③は春と言ってもまだ枯野の残る早春でしょう。冬は寒さや雪のために人の接触が少なくなりがちな季節でした。現代と違って通信手段が手紙くらいしかなかった時代ですから、ただでさえ人が疎遠になる季節です。「枯る」に「離る」の意味を重ねて理解したのも自然なことでした。また恋の歌に仕立てることが常套でした。それは男が女を訪ねるのが当時の恋の在り方でしたから、訪ねてこなくなれば、それは即ち遠ざかること、つまり「離る」ことだったからです。
話はとびますが、『庭の千草』という唱歌があります。明治の最初の唱歌(音楽)の教科書に載せられて以来、今も歌い継がれる名曲です。その一番の歌詞に、「庭の千草も虫の音も かれてさびしくなりにけり」と歌われています。この「かれて」も同じことで、「枯れて」と「離れて」を掛けています。一般には初冬に咲き残る白菊の美しさを歌っていると理解されていますが、実は伴侶に先立たれた人が健気に生きる姿を庭に独り咲き残った菊にこと寄せて歌った歌なのです。しかしこのことはほとんど知られていません。この「かれて」は、表面的には文字通り枯れていることを表しますが、実は、若い頃には共に楽しく過ごした仲間たちが、晩年には一人減り、二人減って、ついには自分一人になってしまうこと、つまり愛した仲間たちがみな別の世界の遠くに逝ってしまったことを意味しているのです。
この『庭の千草』についてはもっともっと書きたいことがあるのですが、今回のテーマから外れてしまうので、ここではこれくらいにしておきます。私のブログに「『庭の千草』の秘密」と題する文章がありますので、そちらをご覧下さい。きっと「目から鱗」だと思います。
明日から当分の間、朝から夜遅くまで仕事が続きます。書くペースが今まで以上に遅くなりますが、お許し下さい。少しずつ書いていきます。数日に一度くらいは覗いて下さい。
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