goo blog サービス終了のお知らせ 

うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

落ち葉

2016-11-10 13:37:13 | うたことば歳時記
温帯に属して、広葉落葉樹の多い日本では、晩秋から初冬にかけて、色づいては散りゆく木々の姿は自然な風景で、日本人はそこにもののあわれや無常を感じ取ります。あれ程春の花が人を魅了した桜も、夏に木蔭をなして涼ませてくれた楢も、山裾を彩ったもみぢも、多少の早い遅いはあるものの、最後にはみな散り果ててしまいます。日本人はそれに人の一生や一年の恋を重ね合わせ、人生や生死の理を観るのです。それだからこそ落葉しない松や橘が常盤木として神聖視されるのでしょうが、日本の樹木が全て常緑樹であったとしたら、日本人の自然観も異なっていたことでしょうね。そんなことを考えながら、この頃の落ち葉を眺めているところです。

 「落ち葉」ということばは大和言葉なのでしょうが、不思議なことに「落ち葉」という言葉を『国歌大観』などで検索しても、あまり引っ掛かってこないのです。古い和歌の秋から冬の歌を片っ端から見てみると、「落ち葉」というかわりに、「木の葉落つ」「木の葉散る」「木の葉降る」「木の葉に埋む」「木の葉も風にさそはれ」「木の葉乱れて」「木の葉波寄る」「窓うつ木の葉」「木の葉吹く」「木の葉時雨(しぐ)る」「紅葉葉雨と降る」「木の葉よどむ」などのように、同じ落ち葉でも様々に表現されているのです。実に繊細で豊かな表現ですね。

 『万葉集』や『古今和歌集』に落ち葉を詠んだ歌が少なく、『千載和歌集』以降に急増するのですが、このことをどのように理解したらよいのでしょうか。落ち葉に無常や「もののあはれ」を感じ取って歌心を刺激されるのは、平安中期以降に流行し始める浄土信仰と関連があるのかもしれないと思っています。あるいは中世の侘びやさびに連なる新しい美意識の先取りかもしれません。まあとにかく、『古今和歌集』以前は、日本人は落ち葉に深い情趣をあまり感じなかったことは確かなようです。

 『万葉集』や『古今和歌集』に見える落ち葉を詠んだ歌をあげてみましょう。

①鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心わが思はなくに (万葉集 711)
②十月(かむなづき)時雨の常か我が背子が宿の黄葉(もみちば)散りぬべく見ゆ (万葉集 4259)
③立ち止まり見てをわたらむもみぢ葉は雨と降るとも水はまさらじ (古今集 秋 305)

 ①の意味は、鴨鳥が遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮かぶような、浮わついた気持ちで恋しているわけではありませんよ、という意味です。真剣な恋であることを相手に訴えているのです。歌としては大胆な比喩が優れていると思います。

 ②は大伴家持の歌で、左注によれば、梨が色付いたので詠んだ歌とのことです。神無月に降る時雨の常なのか、あなたのお宅の黄葉が散りそうです、という意味でしょう。あっさりした歌ですが、時雨が木の葉を散らすと言う理解が、早くも万葉時代に「常」として共有されていたことが注目されます。

 ③は、屏風絵を見て詠んだ歌なのですが、立ち止まって、ゆっくり見てから川を渡ろう。紅葉の葉が雨のように降っても、水かさは増さないだろうから、という意味です。とても絵画的で、いかにも「古今集」という雰囲気の歌です。これらのどの歌も晩秋から初冬の寂寥感や無常感は稀薄ですね。別にそのことが悪いわけではありませんが、現代人が晩秋から初冬に感じ取る落ち葉の情趣とは、少々異なっているように思います。

 さて『古今和歌集』より時代の下った歌も見てみましょう。

④木の葉散る宿は聞き分くことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も(後拾遺集 冬 382)
⑤山里は往き来の道の見えぬまで秋の木の葉にうづもれにけり(詞花集 秋 133)
⑥散りつもる木の葉も風にさそはれて庭にも秋の暮れにけるかな(千載集 秋 337)
⑦まばらなる真木の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらん (千載集 秋 404)
➇散りはててのちの風さへ厭ふかなもみぢをふけるみやまべの里 (千載集 冬 418)
⑨山里の風すさまじき夕暮に木の葉みだれて物ぞかなしき(新古今 冬 564)
⑩時雨かときけば木の葉のふるものをそれにも濡るるわがたもとかな (新古今 冬 567)

 まだまだあるのですが、取り敢えずはこのくらいにしておきましょう。

 ④は、『無名抄』や『今鏡』によれば、源頼実が歌を掌る神とされる住吉神社に、「わが身と引き換えに一首の秀歌をたまわらん」と祈って得たとされています。木の葉が降る家では、その音と時雨が降る音ととを区別して聞き分けることが出来ない、という意味です。夜は音に敏感になるのか、木の葉の音を詠む歌は、多くが夜に詠まれているのです。

 ⑤は、落ち葉で我が家の前の道が埋もれてしまい、誰も訪ねてこなくなる寂しさを詠んでいます。この趣向に似て、雪が道を閉ざしてしまうため、人が訪ねてこないという歌もよく詠まれます。通信手段の限られる時代だからこそ、積もる落ち葉や雪を見ると、人恋しさが募ってくるのです。電話でいつでも声を聞ける現代人にはない情趣ですね。

 ⑥は庭に降り積もった木の葉に、秋の終わりを感じ取っている歌です。現代人でも素直に共感できる季節理解だと思います。

 ⑦は、寝覚めの床で板屋根に落ちる木の葉の音を聞き、時雨のようだと感じています。本物の時雨なら雨漏りするのですが、木の葉の時雨なので漏ることはないというのです。少々理屈っぽいのですが、「木の葉時雨」「落ち葉時雨」という言葉は、このような歌から生まれたのでしょう。

 ➇は目の付け所の面白い歌です。屋根にもみぢの落ち葉が降り積もっているのを、もみぢ葺きの屋根とみているのです。風が吹くとそのもみぢが飛ばされてしまうので、これ以上は風よ吹くなというのです。「ふく」には「吹く」と「葺く」が掛けられているとみてよいのでしょう。

 ⑨は、初冬の夕暮の木枯らしの寂寥感を詠んでいます。「すさまじ」は、現代では「(程度が)著しい」という意味でよく使われる言葉ですが、本来の意味は、「寒々としている」とか「恐ろしくてぞっとする」というような意味です。ですからただ侘しいだけではなく、荒涼とした雰囲気を感じ取ることが出来ます。

 ⑩は、木の葉が降る音を時雨の音と聞いたけれど、時雨ではなく、涙で私の袂が濡れることだ、という意味です。⑦と同じ趣向ですが、涙で濡れるという分だけ手がこんでいます。
 
 しかし実際に木の葉が降る音が聞こえるのでしょうか。現代のマンションのような建物ではまず聞こえません。瓦葺きでも難しい。古くても茅葺きでは音はしないでしょう。トタン葺きの我が家では、かろうじて聞こえるような聞こえないような。それでも窓際に寝ていると、ベランダに木の葉が降る音は本当に微かですが聞こえました。当時の板葺きの家には天井などありませんから、屋根に落ちる音が直接聞こえたのでしょう。また空気が乾いている時ならば、木の葉の葉擦れの音は屋根の材質に関係なく聞こえることでしょう。落ち葉ではありませんが、団栗の落ちる音はよく響きます。燈火、書に親しみながら、しみじみと聞いています。

 降り積もった落ち葉は、これを掻き集めて燃やしたりするのでしょうが、「落ち葉をかき集める」ことが「筆跡をかき集める」ことを意味することがあります。

⑪木の下に書き集めたる言の葉を別れし秋の形見とぞ見る (千載集 雑 1105)
⑫木の下は書く言の葉を見るたびに頼みし蔭のなきぞかなしき (千載集 雑 1106)

 ⑪は、詞書きによれば、姉が弟に亡き父の筆跡を綴った歌集を返すときに、添えておくった歌で、⑫はその返歌です。「木の下」は「このもと」と読み、「木」は「子」を掛けています。子供であるあなたの許でかき集めたこの歌集を、父上に別れた秋の形見として見ることです、という意味です。「頼みし蔭」は父の庇護を意味しています。父が死んだのが落ち葉の季節であり、「木の葉」が「言の葉」の比喩でもあることから、このような手の込んだ歌に仕立てたわけです。

 このように、落ち葉をかき集めることは、故人の遺文を集めて読むことを暗示しますから、親しい故人の遺文集などを編むことがあれば、是非思い出したい歌だと思います。木の葉を言の葉の比喩と理解すれば、落ち葉を見ても歌心が広がってくることとでしょう。

残菊

2016-10-24 13:51:48 | うたことば歳時記
狭い我が家の庭には、野菊の花が満開です。キク科のシオン属であることは確かなのですが、名前はわかりません。それでも「しおん」(紫苑)の仲間ですから、私は大切にして楽しんでいます。なぜなら、紫苑は親の恩を忘れない花という理解が平安時代から共有されていたからです。先日、父が亡くなったばかりでもあり、名前のわからないシオン属の野菊を眺めながら、父を思い出しています。平安時代以来の紫苑の理解については、私のブログ「うたことば歳時記」に「紫苑(しおん)」と題して既に公開してありますから、御存知ない方は是非御覧下さい。「うたことば歳時記 紫苑」と検索するとすぐに見つかるはずです。

 辞書や歳時記で「残菊」と検索すると、九月九日の重陽の節句(菊の節句)より後の菊のことであるという説明が多いのです。私はこのことに予てから疑問を持っていました。いわゆる野菊は早くも8月末から咲いていますが、旧暦の九月九日は新暦ならば今年は10月9日でしたから、菊はまだまだ咲いていませんでした。それなのに、それ以後の菊を残菊というと解説されているのには、どうしても納得できなかったのです。

 辞書には晩秋から初冬にかけて咲き残っている菊という説明もありました。これなら多くの日本人が納得できるものだと思います。我が家の庭の菊の花は、今日(10月24日)の時点ではまだ咲いていません。散歩道の途中では咲き始めているものも見かけますから、品種によって多少前後があるのでしょうが、10月10日以後は「残菊」というというのでは、あまりにも早すぎます。

 九月九日に菊を愛でることは中国伝来の風習で、唐代の漢詩を漁ってみると、九月九日の菊を詠んだ詩がたくさんあります。ですから、中国では咲いていたのかもしれません。あるいは観念的にそう決めて掛かっていたのかもしれません。もっとも日本より広大な国土ですから、あくまでも長安周辺でのことなのでしょう。そして九月十日過ぎにの菊を「残菊」と詠む漢詩もこれまたいくつもあるのです。どうも九月九日よりも後の菊という理解は、日本人的発想ではなさそうです。

 たった1日の違いで片方は長寿の花として愛でられ、翌日には「残菊」と呼ばれてしまう。花の美しさ自体は全く同じなのですから、残菊の「残」はあくまでも観念的なことであり、日本人が思い描くような庭に咲き残る菊とは全く異なります。「六日の菖蒲、十日の菊」という諺は、時宜に合わずに役に立たないものの喩えですが、漢詩における「残菊」は、この諺のようにあまりよい印象を持たれていないように感じてしまうのです。

 ところが同じ残菊の漢詩でも、菅原道真が詠んだ詩を調べてみると、九月九日にこだわらず、九月末から初冬にかけて詠まれた漢詩がいくつもあり、九月九日にあまりこだわってはいません。道真は唐文化に特別に造詣の深い学者でしたが、その美的感覚は日本的であることを示しています。

 また宮中で行われた菊の宴や菊合わせが行われた日付を確認してみると、ほとんどが十月となっています。つまり日本で行われた菊の宴は、九月九日という日にこだわるのではなく、実際に菊の花を飾りながら行われていることがわかります。それもそのはず、菊合わせは菊の花を互いに見せ合って優劣を競うのですから、菊の盛りに行われるものです。

 また古歌の中にも、霜に当たって薄紫に色変わりした菊が多く詠まれています。しかもそれを風情あるものとして詠んでいて、九月九日にこだわっていません。このあたりに、古代中国と日本とでは、残菊の理解の相違があったと考えられるのです。

 ただ勅撰和歌集に収められた菊の歌は、ほとんどが秋の歌となっています。霜と共に詠まれていて初冬の歌と思われる場合は、秋の部ではなく雑の部に入れられているものもあります。そうすると、唐の菊の理解に引きずられて、菊は秋の花という観念的理解が先行していため、どうしても秋の歌に入れられない歌は、冬ではなく、雑の部に入れざるを得なかったのかもしれません。実際には立冬後に詠まれていても、編集の過程で、菊の歌であるからと秋の部に入れられたのではないかと思っています。

 残菊は「ざんぎく」と読みます。菊には訓読みはなく、「きく」は音読みです。中国渡来の花ですから、音読みしかなかったわけです。しかし私としては「ざん」という音がどうにも耳障りで、できることなら「のこんのきく」と読みたいのです。

 周囲の花が枯れてしまっても庭に残る白菊、つまり残んの白菊を歌った『庭の千草』という唱歌があります。ネット情報で検索すると、秋の歌となっていることが多いものです。菊は秋と決めてかかっているのでしょう。しかし11月上旬には立冬になるのですから、内容からして初冬の歌であると思います。

 唐代の残菊の美意識なら、このような菊に情趣を感じ取ることはなかったかもしれません。独り咲き残る白菊に「あはれ」を感じ取るのは、極めて日本的な感覚なのでしょう。

 唱歌『庭の千草』については、私のブログに「『庭の千草』の秘密」と題して、拙文をネット上に公表済みです。数ある拙文の中でもずば抜けて閲覧数が多く、もしまだ御覧になっていなければ、是非とも御覧下さい。きっと「目から鱗」の驚きを体験できることと思います。

 長々と書いてしまい、とりとめもない内容になってしまいました。文章を推敲する元気はとてもありません。最後に、残んの菊の歌を一つ御紹介します。
○おく霜にうつろはんとや朝な朝な色かはり行くしら菊の花(新続古今集 563)

 なおこの拙文については、高兵兵氏の「菅原道真の詩文における『残菊』をめぐって」という論文に拠るところが多く、あらためて感謝いたします。コピペをしたくないので、可能な限り原典に当たって確認しましたが、どうしても閲覧できなかった史料や論文があったことについては、高氏にお詫びいたします。


秋の夕暮

2016-10-08 14:58:57 | うたことば歳時記
 秋の夕暮の早いことを、「秋の日の釣瓶落とし」と言います。このことについては、先日、私のブログ「うたことば歳時記」に「秋の日の釣瓶落とし」と題して公表しておきましたから、そちらを御覧ください。

 『枕草子』の冒頭部には、「秋は夕暮。夕日はなやかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ二つなど飛び行くさへあはれなり。・・・・・」と記されていることはよく知られています。高校の古典の教科書にも必ずと言ってよいほどに収録されていますから、日本人ならきっと「秋の夕暮れ」をそれと意識して、しみじみと眺めたことがあると思います。

秋には夕暮れが注目されたわけは、もちろんその美しい情趣に因るのでしょうが、秋の朝も昼も夜も、みなそれぞれに情趣がありますから、それだけでは秋に特に夕暮れが注目された理由にはなりません。秋の夕暮れが注目されたわけは、まずは7世紀に唐から伝来した四神思想の影響ではないかと思っています。

 四神とは、蛇と亀が合体した玄武、青龍、朱雀、白虎などの霊獣のことなのですが、この四神は四季と四方に配されます。つまり青龍は東と春を司り、朱雀は南と夏を、白虎は西と秋を、玄武は北と冬を司るものとされました。そういうわけで、秋には自然と西の方角に思いを馳せることになるのです。

 このような理解を発展させると、これを人生に当てはめて、春は青年期、夏は壮年期、秋は熟年期、冬は老齢期ということになるでしょう。また一日の時間に当てはめれば、太陽の動きに合わせて、朝は日の出の東の方、昼は太陽が南中する南の方、夕は入日の西の方に思いを馳せるのが自然です。すると秋には西が意識され、西と言えば夕日を連想しますから、西を意識する秋には、自然と夕方が注目されることになるのです。

 またもう一つの理由としては、浄土信仰の流行が考えられます。当時の人々は誰もが西方極楽浄土に往生したいと願っていました。まして人生の黄昏時とも言える秋の熟年期ともなれば、その願いも切実なものでした。西に沈む太陽や三日月を見て、この世の無常を嘆き、西方にある極楽浄土に思いを馳せなかった人は皆無だったはずです。以上のように、様々な要因が複合して、古人は秋と言えばすぐに西や夕方を連想したのだと思います。
 
 平安末期から鎌倉初期、浄土信仰が大いに流行していた頃、『方丈記』の著者として知られる鴨長明は、その歌論書である『無名抄』で、次のように述べています。 「秋の夕暮の空の景色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなる趣あるべしとも思えねど、すずろに涙のこぼるるがごとし。」と。秋の夕暮れには、美しく鮮やかなものはないけれども、なぜか思わず涙がこぼれるようだというのです。

 ここに室町時代以後の美意識である「幽玄」や「わび・さび」を先取りしたような、枯淡の美しさを感じ取る感性が育っていることを見て取ることができます。これは『古今和歌集』にはあまり見られなかった美意識です。清少納言もそれなりに秋の夕暮れの情趣を感じ取っていますが、この『無名抄』に記されたような情趣とは少し異なっていたのでしょう。平安時代の末から鎌倉時代にかけて、日本人は新しい「美」を発見したと言うことができるのです。現代人は、たとえ歌を詠まない人でも、「秋の夕暮」の感傷的な美しさを知っています。松尾芭蕉の「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」という句の情趣を、私たちは何の説明がなくとも十分に理解できることでしょう。

 古人が秋の夕暮れに特に思いを馳せていたことは、古歌によく表れています。末尾が「秋の夕暮」終わる歌は『古今和歌集』には見当たらないのですが、『後拾遺和歌集』以後にはたくさんあり、特に『新古今和歌集』の次の「三夕の歌」がよく知られています。

 ①寂しさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮(新古今 秋 361)
 ②心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(新古今 秋 362)
 ③見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 (新古今 秋 363)

 ①の「真木」とは、堂々と真直ぐに聳え立つ姿の立派な樹木のことで、実際には杉や檜を指しているとされています。意味は、「何とも言えないこの寂しさは、特にどの色からということはないのだがなあ。杉や檜の茂る秋の夕暮れは。」とでも訳しておきましょう。おそらく黒々とした印象が勝り、『古今和歌集』以来の秋の定番の美しさであるもみぢは見えなかったのでしょう。

 ②の「心なき」とは、「情趣を理解しない」という意味で、「もののあわれをも理解しないような私でも、鴫の飛び立つ沢辺の夕暮れの情趣はよくわかることだ」「という意味です。謙遜していますが、実はそのような情趣をよくわかる人なのです。なぜなら、この歌の作者は西行なのですから。

 ③は藤原定家の歌で、大変にわかりやすい歌ですね。夕暮れ時の海辺には粗末な苫屋が並んでいるのですが、色鮮やかな花ももみぢも見えません。しかしそこに得も言われぬ情趣を感じ取っているのです。

 『新古今集』には「三夕の歌」が三つ並んでいるのですが、ほかにも「秋の夕暮れ」で終わる歌が13首もあり、常套句であったことがわかります。最後にその中からいくつか拾ってみましょう。

④村雨の露もまた干ぬ真木の葉に霧たちのぼる秋の夕暮 (新古今 秋 491)
⑤別れ路はいつも歎きの絶えせぬにいとどかなしき秋の夕暮 (新古今 離別 874)
⑥ながめても哀れと思へおほかたの空だにかなし秋の夕暮 (新古今 恋 1318)

 ④は①と同じような場面です。⑤別れはいつでも寂しいものですのに、秋の夕暮の寂寥感がそれを増幅しているのでしょう。⑥は恋の歌ですが、何と作者は鴨長明です。若い時の歌なのか、誰かに代わって詠んだものなのかはわかりません。おそらく恋の哀しみを相手に訴えて、もの悲しい空を眺めて私に同情してほしいというのです。

 私も四捨五入で70歳となり、先日、父が亡くなったばかりです。しみじみとした寂寥感をもって、ちょうど今ごろの夕日を眺めています。そこで私も一首詠んでみました。

   椎の実を拾ひつつ有馬皇子を偲びて
○椎の葉に飯盛る人の哀しみを拾ひ集むる秋の夕暮  

藤袴

2016-10-04 18:22:45 | うたことば歳時記
  庭の藤袴が見頃です。万葉の時代には秋の七草に数えられていたというのですから、野生の藤袴は珍しくなかったのでしょうが、今は園芸品種しか見たことがありません。ですから私が見ている藤袴が古代のものと同じであるかどうかもわかりません。同じ仲間のヒヨドリバナなら我が家の周辺にもたくさん咲いています。

 『万葉集』には藤袴を詠んだ歌はたった一首しかありませんが、女郎花と並ぶ代表的な秋草で、『古今和歌集』以後にはたくさん詠まれました。
①なに人か来て脱ぎかけし藤袴来る秋ごとに野辺を匂はす (古今集 秋 239)
②宿りせし人の形見か藤袴忘られがたき香に匂ひつつ  (古今集 秋 240)
③主知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎかけし藤袴ぞも (古今集 秋 241)
①は、香り高い藤袴を誰かが脱ぎ掛けた袴に見立て、②は、宿に泊まった人の残り香に見立てています。③も①と同じ趣向です。①~③はいずれも香を焚きしめた袴に見立てていて、これが藤袴の歌の常套的表現となっていきます。そういう点では、このような藤袴の歌は、歌としてはあまり面白くはありません。香で異性の気をひこうとした平安時代ならではの理解なのでしょう。

 藤袴の花は、「野辺を匂はす」と詠まれるのですが、花そのものはほとんど匂いません。実は匂うのは花ではなく草全体であって、葉を揉んでみると手に香りが移ります。特に刈り取って暫く置いた生乾きの時によく香るので、私は線香の代わりに束にして部屋に下げたり、入浴剤代わりにして楽しんでいます。教室に持って行って生徒に匂いを嗅がせたのですが、臭いと嫌われてしまいました。香水のような匂いをよい香りと感じる嗅覚ならば、そう思うのも無理がないのかもしれません。梅や橘の香りとは異質の、奥床しい香ですね。この香を心地よいものと感じられるようになるには、白檀や沈香の香がわかるような、ある程度年齢を重ねなければならないのかと思います。

 藤袴の花は僅かに藤色をしているのでその名があるのですが、花が咲くと糸状の蕊や花弁が長く延びて、まるで布が綻んでいるように見えるのです。もともと花が咲くことを「綻ぶ」と言いますが、藤袴の場合は、まさに「綻ぶ」という形容がぴったりなのです。まずは花の綻んだ姿をとくと観察してみて下さい。

 そこで次のような歌が詠まれるのです。
④秋風にほころびぬらし藤袴つづりさせてふきりぎりす鳴く (古今集 雑体 1020)
「袴」が縁語となって「綻ぶ」という言葉が意図して選ばれています。花が綻ぶのを、袴が綻ぶことに見立てているわけですが、そのような理解をするのは、花の咲く様子からの連想も手伝っているのではないでしょうか。さらに④では、きりぎりす(現代のコオロギ)が「つづりさせ」と鳴くと詠まれています。「つづりさせ」とは「綻びを綴って直せ」という意味で、これも「綻ぶ」や「袴」の縁語です。コオロギの仲間に、ツヅレサセコオロギという種類がいます。その鳴き声が「肩させ裾させ綴れさせ」と聞き做されるためにその名があるのですが、その聞き做しが『古今和歌集』にまで遡るとは驚きました。このコオロギはごく普通に身近にいますから、秋には注意深く聞いてみて下さい。 

 とにかく、フジバカマを手に入れることがあれば、葉や茎を採って来て、生乾きになったくらいの頃に手で揉んで、その香りを楽しんで見てください。



万葉集のすすき(薄)

2016-09-28 19:02:29 | うたことば歳時記
 そろそろすすきの花が満開です。花が咲くの?穂と言われそうですが、古来、すすきは「尾花」と呼ばれていました。秋の七草の一つですが、カラフルな花ではなく、繊細なその姿は、いかにも日本人好みと思います。花瓶に活けられたすすきの穂を見て、感動する外国人は多くはないでしょうね。

 ところでススキ(薄)によく似たオギ(荻)という植物がありますが、正しく区別できる人は少ないのではと思います。実際、オギをススキと勘違いしている人がほとんどでしょう。私は100m離れた所から見ても、両者を正確に区別できます。驚かれそうですが、誰でもできるんですよ。その相違点について、見分けるこつをブログに書いておきましたので、「うたことば歳時記」の「薄(すすき)と荻(おぎ)」を御覧下さい。

 『万葉集』では、すすきは「尾花」のほかに「はた薄」とか「はだ薄」と詠まれる場合があります。「はた」や「はだ」は旗のことであるとされていますが、私にはそれを論評する力はありませんので、その説をそのままいただきます。

①我が宿の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが(万葉集 1572)
②はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに(万葉集 1637)
③はだすすき穂にはな出でそ思ひたる心は知らゆ我れも寄りなむ(万葉集 3800)

 ①は、私の庭の尾花に付いている白露を、消さないで玉のように貫(ぬ)き通せたらよいのになあ、という意味です。すすきの穂の糸に白露が連なるようにすがっている様子を、白玉に見立てているのですが、唱歌『故郷の空』にも「玉なす露はすすきに満つ」と歌われているように、今も昔も誰もが思いつく比喩というわけです。

 ②は元正太上天皇の御製で、すすきの尾花を逆さに葺き、皮の付いたままの黒木で作った家はいつまでも栄えるように、という意味です。これは長屋王の新築の館を寿いだ歌なのですが、すすきが屋根を葺くのに用いられていたことがわかります。よく「茅葺」と言われますが、「萱」とはすすきや荻や葦などの植物の総称でして、「萱」という固有の植物があるわけではありません。すすきで葺いても、茅葺ということです。

 ③は、竹取翁(たけとりのおきな)の歌への返歌なのですが、ここでは歌の背景には触れないでおきましょう。意味は、薄の穂が出るように、心を表に出さないで。心に思っていることはもうわかっているのだから。私もおじいさん(竹取翁)の言うことに従いましょう、という意味です。これは少々説明が必要ですね。すすきの穂が出ることを、心に秘めていた本意が表に出ることの比喩と理解されていたのです。「穂」とは一般には稻や麦などの実の付いている部分を指しますが、本来は、物の人目に付く部分を指す言葉でした。それで「穂に出づ」とは、隠れていたことが表面にはっきりと出るという意味なので、すすきの穂が出て来ることを、本心が表れることの比喩と理解されていました。このような理解は、平安時代以降にも受け継がれていきます。

 ④篠すすきしのびもあへぬ心にて今日は穂に出づる秋と知らなん (後拾遺 恋 619)
これには「八月ばかり女のもとに、すすきの穂に挿してつかはしける」という詞書きが添えられています。「しのびもあへぬ心」、つまり黙っていることができない心を、すすきの穂が出るように表に出したということを知って欲しい、というのですから、愛を告白する男の歌なのです。この場合はまだ歌が添えられているからわかりますが、すすきの穂だけが届けられることもあったでしょう。現代人なら、薔薇の花束のほうがいいのに、何で萎れたすすきの穂なのだろうかと、それこそ本意を図りかねてしまうでしょうね。