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うたことば歳時記

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つらつら椿

2017-02-17 12:27:50 | うたことば歳時記
 椿は日本特産の花木です。そもそも学名をCamellia japonicaというくらいなのですから。椿がヨーロッパに広く知られたのは1712年のこと。江戸にまで来たことのあるドイツ人の学者ケンペルが、その著書『異国物語』で紹介しています。西洋で品種改良されたものが日本に逆輸入されるくらいですから、ヨーロッパ原産と思っている人もいるようです。日本ではオペラ『椿姫』がよく知られているので、そう思われるのかもしれませんが、「椿姫」はツバキの花とは何の関係もありません。日本語に翻訳する時、何かわけあって「椿姫」とされたのですが、そのわけは知りませんるとにかく私達日本人は、椿の花を日本の花としてもっともっと誇りに思ってよいのです。

 ツバキは品種改良をやりやすいこともあって、江戸時代には数百種類の品種が作り出されました。『百椿集』という書物も出版されています。多くの品種がありますが、その原種はヤブツバキと呼ばれている日本固有の野生種です。青森以南の日本全土に分布していますが、本来は暖かい気候を好みます。我が家の周辺の山林にも普通に見られます。高さは十数mに達しますが、生長が遅いので木質が緻密であり、研くと艶が出るので、木工用の素材として利用されています。見かけより樹齢が長く、長寿の木と理解されていました。

 日本原産の樹木ですから、『古事記』『日本書紀』にも記載があり、『万葉集』にも九首詠まれています。
『古事記』の雄略天皇記には、「新嘗屋(にいなへや)に生(お)ひ立てる葉広斎(ゆ)つ真椿其れが葉の広がり坐(いま)し其の花の照(て)り坐(いま)す・・・・」という歌謡が記されていて、広い葉と艶のある花が注目されています。

 『万葉集』にも同じような視点の歌があります。
  ①巨勢山(こせやま)の列々(つらつら)椿つらつらに見つつ偲(しの)ばな巨勢の春野を(万葉集 54)
  ②あしひきの八峰(やつを)の椿つらつらに見(み)とも飽(あ)かめや植ゑてける君 (万葉集 4481)
①は、椿をつくづくと眺めながら巨勢(こせ)の春野を思い出す。②は、椿を植えた恋人をいくら見ても見飽(みあ)きないという意味です。「つらつらに(つくづくと)」を導く序詞(じょことば)と「つらつら椿」という慣用句となっていますが、「つらつら椿」は椿の花がつややかな葉の中に連なって咲いている形容と考えられ、椿は幅広く艶(つや)のある葉が繁り合う中に、紅色の花が連なるように咲いているという理解があったと考えられます。

 ツバキは日当たりの好きな花樹で、その葉は幅広く艶があり、太陽の光を反射して輝いて見えます。そんな照り輝く葉の間から、紅色の花が連なって咲くように見える。そんな姿こそ、古の日本人が愛でた椿の見どころだったのでしょう。そう思って、改めてツバキの花を観賞してみて下さい。品種改良された美しい椿はもちろん素晴らしいものですが、万葉時代以来のヤブツバキも、日本原産の日本固有の花として、改めて見直してみてはいかがですか。

曙と暁(春はあけぼの)

2017-02-02 12:43:50 | うたことば歳時記
 明後日には立春を迎えます。そうすると気になるのは『枕草子』の冒頭の部分です。高校の古典の授業で暗記させられ、いまだに覚えています。かつてハワイ出身の横綱である曙が春場所で優勝すると、どのスポーツ新聞も、「春は曙」と大きな見出しを付けていたものです。誰でもが考えつきそうなのですが、それ以上の名文句はなかったので、他社も同じかもと思いつつ、決まり文句となっていました。

 ところで「曙」とはどのような時間帯なのか気になりました。早朝を指すと思われている「暁」や「東雲」とどのように違うのでしょうか。

 ネット情報を検索すると、もっともらしい解説がたくさんありました。しかしなぜそうなのか、その理由や根拠を示してくれないのです。ネット情報は玉石混淆ですから、どこまで信用できるかどうかわかりません。出典や根拠まで示して解説している場合は信用できることが多いのですが、そうでない場合は、余程気を付けてかからないと、間違った理解をしてしまうかもしれません。そこで素人ながらも、可能な限りの例や根拠に基づいてお話ししてみます。

 まずわかりやすいのは「曙」でしょう。『枕草子』の冒頭には、次のように記されています。「春はあけぼの。やうやう白くなり行く山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」 山際が少し白っぽくなり、わずかに明るくなって紫色の雲がたなびいているのが見えるのですから、夜の暗さはもうありません。また太陽が見えるわけでもありません。山と空の境、つまり山際を視認できる程度の明るさになっている時間帯を指していることがわかります。

 『万葉集』の中から「曙」ということばの使用例を探したのですが、私の手許の資料には、引っ掛かってきません。丁寧に探しても一首もありません。ひょっとしてあったら御免なさい。このあと触れますが、『万葉集』には「暁」を詠んだ例はいくつかみつかりました。ということは、「曙」と「暁」はどちらが早い時間帯かという議論は、万葉時代にはあり得ないということです。

 そういうわけで、『万葉集』より後の歌集から、「曙」を詠んだ歌をいくつか拾ってみましょう。
①花ざかり春の山辺の曙に思ひわするな秋の夕暮(後拾遺和歌集 1103)
ここでは秋の夕暮に対比されるものとして、春の曙が詠まれています。そうすれば曙は朝焼けが見える時間帯と理解するのが自然でしょう。『枕草子』の冒頭が下敷きになっていることはすぐにわかりますね。

②今はとてたのむの雁もうちわびぬ朧月夜の曙の空(新古今集 58)
意味は、今はもう北に帰る時だとして、田の面にいる雁もさすがに辛くて鳴いている、朧月が有明となって残っている曙の空であることだ、ということでしょう。有明月は東の方でなければ、日の出後も暫くは見えます。ですから月があるのでまだ暗いというわけではありません。②からも、曙は東の空がもう明るくなっている時間帯であると推測できます。

 「暁」は古語では「あかとき」と読まれました。『万葉集』には「あかとき」を詠んだ歌はたくさんあるのですが、八代集あたりになるとみな「あかつき」になってしまい、「あかとき」の例がありません。まずは暁の時間帯がわかりそうな歌を、『万葉集』からいくつか拾い出してみましょう。

③「わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立濡れし」(万葉集 105)
この歌は、斎宮として伊勢宮に奉仕する大伯皇女を弟の大津皇子が密かに訪ねて来たのを、大和に又送り返す時の歌です。いろいろ悲しい背景があるのですが、本題から外れるので、ここでは触れないでおきましょう。意味は、私の弟をまた大和に送ろうと、夜もふけ、やがて暁の露に濡れるまで、立つづけたことであった、というようなことでしょう。ここでは暁は夜更けの後の時間帯と理解されています。

④暁と夜烏鳴けどこのもりの木末(こぬれ)が上はいまだ静けし(万葉集 1263)
夜更けの山のことでしょう。暁だと夜烏が鳴いていますが、森の梢はまだ静まりかえっている、というのです。暁の時間帯に夜烏が鳴くというのですから、まだ東の空が明るくなっていないと思われます。

 他にも「暁月夜」(2306)、「今夜(こよひ)の暁」(2269)という表現すらありますから、暁は、夜も更けてもうすぐ東の空が少し白んでくる前の、まだ暗い時間帯と理解されていたわけです。

 それなら『万葉集』より後の歌集から、「あかつき」の歌を探してみましょう。とは言ったものの、あまりに多すぎて、選ぶのにも困りました。

⑤みじか夜の残り少なくふけゆけばかねて物うきあかつきの空 (新古今和歌集 1176)
これは女のもとに通ってきた男が、夜が次第に更けてきて、後朝の別れを思って詠んだ歌です。夏の短い夜が残り少なく更けてゆくので、思いやることさえ心残りの暁の空であることよ、という意味でしょう。まだ後朝の別れには至っていないのですが、夜が更けてきた頃というのです。夜更けといえば、また暗い時間帯と理解することができます。

⑥鳥のねに驚かされて暁の寝覚めしづかに世を思ふかな (新葉和歌集 1138)

「寝覚め」というのですから、本来目覚める時間よりも早く目覚めてしまったと理解できます。それが暁であるというのですから、まだ明るくはなかったと思われます。

 こんな調子で探して行けば、もっと相応しい歌があるのでしょうが、これは軽い随想であって論文ではありませんから、そこまでは追求しません。しかし全体として暁とは、夜が更けた後のまだ暗い時間と結論してもよいのではと思います。

 さてここまでは良いとして、厄介なのは「しののめ」です。一般には「東雲」と書かれますが、『万葉集』には「小竹之眼」の表記があり、本来の意味は「篠の芽」のようです。「東雲」という表記は、もちろん後世の宛字です。

⑦朝柏潤八川辺の小竹の芽の偲ひて寝れば夢に見えけり (万葉集 2754)
「朝柏」は朝の柏の木のことで、潤んだ柏から「潤八川(うるはかは)」にかかる枕詞でしょう。「小竹(しの)の芽の」は「篠の芽の」と同じで、同音を繰り返して「偲(しの)ひて」にかかりますから、特定の時間帯を表しているわけではありません。意味は、朝の柏の木が潤んでいる潤八川辺に生える篠の芽ではありませんが、あの人を偲んで寝たら夢に現れました、ということでしょう。

 ほかに2478番にもう一首ありましたが、上の句が2754と全く同じの「朝柏潤八川辺の小竹の芽の」となっています。要するに『万葉集』の「しののめ」の用例では、曙や暁とは比較検討できないのです。

 ところがネット情報では、言語学者の堀井令以知氏の説を紹介して、「太古の日本家屋には、明り取りの窓に、篠で編んだ條の目を使った。夜が明けると、この條の目から日の光が差しこんでくる。それで條の目が夜明けを指す言葉として使われるようになった。」という情報ばかりが流布しています。しかし本当なのでしょうか。「太古の日本家屋」がいつの時代の物なのかはっきりしません。明かり取り窓に篠竹を編んだ物が使われていたなどということが、文献的にも考古学的にも証明できるのでしょうか。後世の茶室建築にあったとしても、しののめということばが歌に盛んに詠まれる平安時代の根拠でなければ意味がありません。仮にそのような窓があったとしても、その隙間から漏れ来る光が語源であることを客観的に示す根拠があるわけではありません。堀井説は、二重の仮説の上に成り立っています。一つは篠で編んだ窓が古くからあったこと。二つ目は、その窓の隙間から漏れた光が語源であるということです。この二つはいずれも思い付きに近い仮説であって、史料的根拠はありません。高名な学者が説くと、そのまま断定的に情報が独り歩きしているような気がしてなりません。

 平安から室町期の歌には、「しののめに月を残して」「しののめに山の端見えて」「しののめのあけゆく空」「しののめのややあけそむる」などの多くの例があるのですが、まだ暗い「暁」と東の空が明るくなって山際が見える「曙」と、明確に区別できるような歌が見当たりません。ただまだ暗い時間帯であることをはっきりと示す歌がないので、暁よりは後の時間帯であるとは言えると思います。しかし曙との前後関係は不明です。ネット情報では暁より遅く、曙より早い時間帯との説明が多いのですが、そこまで言い切れるか自信はありません。そもそも三者を時間帯を分けて理解すること自体が良いかどうかも検証しなければならないでしょう。

 まあここでは、暁は夜も更けたまだ暗い時間帯、曙は東の空に朝焼けが見える程度に明るくなりかけた時間帯ということにとどめておきましょう。

 それにしても清少納言はなぜ「春は曙」と言ったのでしょうか。現代人はあまり興味がないようですが、古には春が立つ徴(しるし)は春霞と理解されていました。古い和歌集の春の歌の巻頭には、必ず春霞を詠む歌が並んでいます。しかも春は東からやって来ると理解されていましたから、心ある人ならば、つまり風情のわかる人ならば、誰もが立春の朝早く東の空を遠く眺めたのです。現在では、時間に関係なく霞とは春などに遠くがぼやけて見えることと理解されていますが、本来は朝夕の時間帯のそのような景色を指していましたから、日が高く昇ってしまった時間ではなく、朝早く東の空を眺めたものなのです。『枕草子』の冒頭部の記述には、立春の朝とは書かれていませんが、春の始めには早朝の東の空をつくづくと眺めるのが常だったのです。まして季節の変化を繊細な感覚でとらえていた清少納言ですから、「春霞は見えるだろうか」という気持ちで眺めていたに違いありません。

 ついでのことですが、立春になると必ず「まだ寒さが厳しいのに、なぜ立春というのだろうか」旧暦は中国の暦をもとに作られたから、日本の気候とはずれがある」とか言って、全く悲しくなるほど的外れなコメントを耳にします。なぜそのようなコメントが的外れで間違っているのか丁寧に解説してありますので、私のブログ「うたことば歳時記」のなかの「旧暦の基礎知識」を御覧下さい。


友待つ雪

2017-01-22 21:43:07 | うたことば歳時記
 雪の話を書こうと思っていますのに、こちらはさっぱり雪が降りません。降りすぎてお困りの地域の方には、何とも申し訳ないことです。埼玉県では雪が降るのは専ら立春過ぎてからで、私にとっては雪は早春のものなのです。

 さて雪が少し降ると、次の日もしばらく溶けずに残ることがあります。我が家の周辺では、年に一回くらいは一尺くらい積もることがあり、雪かきでもしない限りは数日間残っています。そのように消え残っている雪を、古い歌ことばでは「友待つ雪」といいます。雪には雪の友達がいるというのです。あとから降ってくる雪を待っているかのように消え残っているというのでしょう。我々の祖先たちは自然の動植物を擬人的に理解していましたが、生物でもないものまで擬人的に理解していました。それでも太陽・月・星・風・海・石・木などに神格を与えるのは、何も日本に限らず世界中にあることでしょう。要するに崇拝の対象になり得るものは、擬人化されやすいものです。幼児なら「雪の子供」「雪のペンキ屋さん」などと、こどもの世界で擬人化することはあるでしょう。しかしさすがに大人が雪を擬人化することは珍しいのではないかと思います。

 「友待つ雪」を詠んだ歌をいくつか並べてみましょう。

①白雪の色わきがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる (家持集 284)
②春の日のうららに照らす垣根には友待つ雪ぞ消えがてにする (堀河院百首 残雪 91)
③降り初めて友待つ雪はうば玉のわが黒髪の変はるなりけり (後撰集 冬 472)
④訪はるべき身とも思はぬ山里に友待つ雪の何と降るらむ (新拾遺集 冬 657)

 ①は『万葉集』にはありませんが大伴家持の歌ですから、「友待つ雪」が万葉時代以来の古い表現であることがわかります。白梅が咲いている枝に、白梅と見分けが付かないように、白雪が跡から降るであろう雪を待っているかのように消え残っているのです。

 ②は春の残雪を詠んだもので、「かてに」「がてに」とは「・・・・することができないで」という意味ですから、垣根に降り積もった雪が、消え残っているのは、友を待っているからだと理解しているのです。今度、白梅の咲く枝に白雪が積もり、次の日も残っていたら、そんな気持ちで眺めてみましょう。

 ③には「雪の朝、老を嘆きて」という詞書が添えられています。降りはじめて、後から降って来る雪の友を待って消えずにいる雪は、私の黒髪が白髪に変わるのを待っているのと同じだというのです。先に降った雪が雪の友を待っているように、黒髪が白髪を待っているというのでしょう。友待つ雪とは関係なくても、白髪を白雪や霜に見立てることは、白髪を「頭(かしら)の雪」というように、常套的な理解でした。

 ④は、山里で人恋しくても誰も訪ねてこない寂しさを、「友待つ雪」になぞらえて詠んだものです。私は友を待っても訪ねてくるあてもないのに、雪はどのような気持ちで友を待つといって降っているのだろう、というわけです。古には雪に道を閉ざされてしまうと、訪ねたくても訪ねようがなくなり、人恋しさが募るものでした。ですから、雪を見るだけで友が恋しくなるのです。どんなに雪に閉ざされても、電話一本で話はできる現代人には、そのような心はもうわからないのでしょう。

 ところが友を待つ雪の心を何とも奥ゆかしく採り入れた、「友待つ雪」という和菓子があります。
京都の亀廣脇という店で作られている冬限定の菓子なのですが、見かけは三段重ねで、下から芋餡・黒糖餡・こなし(白漉し餡に小麦粉を混ぜて蒸したもの)が重なっています。下の芋餡は芋の色、中の黒糖餡は黒砂糖の色、上のこなしは真っ白で、消え残っていた芋餡の上に、少し時間をおいて真っ白なこなしの白雪が友を慕って降ってきたように見えるというのでしょう。「雪」と名付けられていますから、季節外れには売れません。しかし冬に風情のわかる友を招いて、共に過ごすときには、打ってつけの銘菓だと思いました。しかしせっかく「おもてなし」しても、その名前の意味するところが解らなくてはせっかくの名前が泣いてしまいます。名前の由来でも語り合いながら、「雪の中わざわざお運びくださりありがとうございます。お越しになるのをお待ちしておりました。このお菓子はかくかくしかじかで・・・・」と会話がはずめば、きっと楽しい時間を過ごすことができるでしょう。それにしても亀廣脇の御主人、お主、なかなかやりますなあ。とてもよい名前ですぞ。


本来の「七草」

2016-12-06 20:29:36 | うたことば歳時記
 以下の文章は、ある人のために日本古来の七草の意味を、わかりやすく解説したものです。七草については既に私のブログに「春の七草」と題して一文を公表してあり、それとほとんど重複しているのですが、特定の目的のために草したものですので、お許し下さい。


 古より正月七日には、いわゆる「七草」の行事が行われてきました。一般には、この日の朝、「七草」を入れた粥を食べて、無病息災を祈るものとされています。中には、御節料理を食べたり御神酒を飲み過ぎて疲れた身体を、胃腸に優しい粥を食べて回復させるためと説明されることもあるようです。しかし本来の七草の行事は、そのようなものではありませんでした。

 七草の行事には、唐伝文化の影響が見られます。しかし『万葉集』の巻頭歌が、若菜を摘む乙女に呼びかける雄略天皇の歌で始まっているように、早春に野辺に出て若菜を摘むことは、日本古来の風習でした。もちろん食用とするためなのですが、長く雪に閉ざされた厳しい冬から解放され、暖かい春を迎えた喜びの表現でもありました。

 古い和歌には、そのような若菜摘の喜びの歌がたくさん残されています。いくつか例を上げてみましょう。

①春日野の飛火(とぶひ)の野守いでて見よ今幾日(いくか)ありて若菜摘みてむ(古今集 春 19)
②今日よりは荻の焼け原かき分けて若菜摘みにと誰を誘はむ(後撰集 春 3)
 
 ①の「春日野」や「飛火」(飛火野)は、古来若菜摘みの名所として知られた所で、あと何日くらい経てば若菜を摘めますかと、春日野の番人に尋ねている歌です。「てむ」は「・・・・できるだろうか」という意味で、強い期待を感じ取ることが出来ます。②は、野焼きのすんだ野原に、誰と一緒に若菜摘に出かけましょうかという意味で、はやる心がはみ出しているような歌です。春を意味する英語のspringと言う言葉には、「跳ねる」という意味があります。春という言葉には心が喜びで満たされているような語感があるように、春の若菜摘は、瑞々しい春の命の力を味わう、心の開放・解放だったのです。

 このように早春の若菜摘は、初めのうちは春を迎える素直な喜びの表現だったことでしょう。しかし次第に色々な意義づけが行われたようです。
③春日野に若菜摘みつつ万代をいわふ心は神ぞ知るらむ (古今集 春 357)
④春の野の若菜ならねど君がため年の数をもつまんとぞ思ふ(拾遺集 賀 285)

 ③はその詞書きによれば、四十歳の長寿の祝いに際して詠まれた歌で、春日野で若菜を摘みながら長寿を祈る心は、神様、あなたは御存知でしょう、という意味です。つまり長寿を祈って若菜を摘んでいたことがわかります。④は、春の野の若菜ではありませんが、あなたのために若菜を摘むように年の端を積もうと思います、という意味です。おそらく、摘んだ若菜に添えて贈った歌なのでしょう。

 それなら若菜を摘むことが、なぜ長寿を祈ることになるのでしょうか。それは「葉を摘む」ことが「年の端を積む」(年の端とは、年齢という意味)ことに音が通じるため、年を積み重ねて長生きをすることをかけているからです。また雪間を分けて生出る若菜には、瑞々しい命が溢れています。それを摘んで食べることによって、その命を摂取することができると信じたからでした。③は四十歳の祝いとして詠まれた歌ですが、試みに「初老」と辞書で検索してみて下さい。四十歳のことと書いてあるでしょう。それほどに人の命が短命だった時代ですから、長寿は神様の祝福以外の何物でもなかったのです。

 若菜摘みの歌と言えば、百人一首に収められた光孝天皇の御製がよく知られています。
⑤きみがため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ (古今集 春 21)
この歌には「・・・親王におましましける時に、人に若菜賜ひける御歌」という詞書が添えられています。このように、大切な人の長寿を寿ぐために若菜を摘み、歌を添えて贈るということが行われていたのです。祝福のために若菜を贈答し合うという習慣は、何と明るく嬉しいものなのでしょう。 

 若菜を摘むのは春も初めの頃ならいつでもできるのですが、特に正月の最初の子(ね)の日、つまり初子(はつね)の日には、「子(ね)の日の遊び」と称して、野外の遊宴行事が行われました。
⑥野辺に出でて子の日の小松引き見れば二葉に千世の数ぞこもれる (堀河院百首 子日 27)

 この日、野辺に出て若菜を摘み、芽生えたばかりの松を根ごと引き抜き、持ち帰って植えるのです。これは正月の門松の起源の一つと見てよいでしょう。そして若菜を食べ、樹齢の長い松にあやかって長寿を祈るのです。これを「小松引」(こまつひき)とも称しました。正月子の日の遊宴の文献上の初見は『続日本紀』の天平十五年(743)ですから、奈良時代には宮中の行事になっていたのです。
    
 それなら、七草の習慣にはどのような唐文化の影響があるのでしょうか。正月七日に行われる七種粥の風習について、『荊楚歳時記』(けいそさいじき、6世紀に成立した、長江中流域一帯の年中行事を記録した中国最初の歳時記)には「正月七日・・・・七種の菜を以て羮(あつもの、熱い吸い物)をつくる」と記されています。このように「七日の七草」については中国に起源があります。このような風習が唐から伝えられ、日本古来の若菜摘みの風習と習合して、平安時代までに次第に整えられていったものと考えられています。

 『枕草子』の「正月一日は」の段には、「七日、雪間の若菜摘み青やかに」と記され、また同じく「七日の若菜を」の段には、前日の六日に人々が大騒ぎをしながら若菜を摘む様子が記されています。ただし粥ではなく、中国に倣って羮にして食べました。

 七草の種類は、今日では一般にせり・なづな・ごぎょう・はこべ・ほとけのざ・すずな(蕪)・すずしろ(大根)といわれていますが、平安時代にはまだ一定していませんでした。鎌倉時代の初期に天台座主(天台宗延暦寺の最高位の僧)であった慈円の『拾玉集』という和歌集には、「今日ぞかしなづなはこべら芹摘みてはや七草の御物まゐらむ」という歌があります。鎌倉時代の『年中行事秘抄』という書物には、現在の七草が揃っています。平安から鎌倉時代にかけて、次第に整ったのでしょう。厄払いとか、胃腸に優しいなどという理由は、後で取って付けられたものなのです。

 さあ、若菜摘みに出かけませんか。新暦の正月七日はまだ立春前で、若菜摘みには少々早すぎますから、本来の旧暦正月七日の方が良いでしょうね。それくらいの時期になれば、七草も摘みやすくなっていると思います。なずな(いわゆるぺんぺん草)くらいなら、都会でも生えているでしょう。河川敷に行けば、芥子菜くらいはあるでしょう。必ずしもいわゆる七草でなくともかまいません。大根と蕪と、それに何か青菜があればよいのです。人参を入れれば、彩りが美しくなるでしょう。そして粥にこしらえて、これまでの導きを神様に感謝し、祝福を互いに祈り合う。そんな日本古来の「七草」を、お家でも続けて下さい。千数百年も続いてきた良き伝統を、この世代で断絶させるわけにはいかないのです。


時雨の山めぐり

2016-11-12 15:26:08 | うたことば歳時記
立冬となって四日目の夜から翌朝にかけて、冷たい雨が降っています。一般に初冬の冷たい雨を時雨(しぐれ)と言いますが、一般に時雨は「しぐる」「過ぐる」からくる言葉と理解されていますから、さっと降ってすぐに止んでしまうのが、本来の時雨です。いわゆる「にわか雨」「通り雨」ですから、昨夜来の雨は厳密には時雨とは言えないのでしょう。

 日本海側で比較的規模の小さい雨雲が次々に発生し、それが山を越えて来る時に、山のこちら側の斜面に一時的に雨を降らせます。雨雲は速く移動してしまうため、雲間から日光が漏れることもあるほどです。降っている時間は短く、降っている範囲も狭いものです。そのため、雨が降った場所にいる人にとっては、パラパラッと降る一時的な通り雨と感じることになり、時雨が移動しているように見えます。また小雨のように弱くはなく、かといって土砂降りでもなく、屋根や木の葉を打つ音が聞こえる程度のやや強い降り方をします。古歌には時雨が板屋根を打つ音を詠んだものが大変に多いのも、その降り方に因るものでしょう。

 話は少々脱線しますが、和菓子に「○○時雨」 という名前が付けられたものがあります。ほっくりと表面に割れ目があって内側が見えていたり、表面がそぼろ状になっていることが特徴です。これはパラパラッと一時的に降り、降るかと思えば雲間から日が射す時雨の独特の降り方を、日本人の繊細な感性でとらえたものです。もし茶席でそのような菓子に出会ったら、その表面の風情やかすかに覗く内側の色の変化を楽しんで召し上がって下さい。

 閑話休題。このように、平安京を囲む山々を雲が越えてきて、山麓や京の町に降らせる雨が本来の時雨なのでしょうが、似たような地形があれば、日本中どこで降ってもおかしくはありません。まあそれでも見わたす限りの平野が続く関東平野では、山越えの雨雲が降らせる一時的な雨というわけにもいきませんから、そのような場所では、「時雨」は初冬に短時間に降る冷たい雨と、広義に理解してよいのでしょう。

 時雨の降る範囲が狭く、移動しているように見えることを、古人はよく観察していて、次のような歌を詠んでいます。

 山に百寺拝み侍りけるに、時雨のしければよめる
①もろともに山めぐりする時雨かなふるにかひなき身とはしらずや(詞花集 149)

 添えられた詞書きによれば、作者の藤原道雅は、何か発願することがあり、比叡山とその周辺一帯の寺を巡拝していたのでしょう。「百寺」というのですから、余程何かの理由があり、時間もかかったはずです。そして山道を歩いている時に、突然に時雨が降ってきました。しかし長続きせず、時雨は他所に移っていったのでしょう。
 
 意味は、叡山の堂宇を巡っている私と一緒に、時雨も巡っていることだ。時雨よ。降るかいがないという「峡」(かひ・かい)ではないが、生きる甲斐のないこの身だということがわからないのだろうか、ということです。「ふる」は「経る」と「降る」を掛けていますね。父の伊周が道長と対立して左遷されたため、出世の望みが絶たれたのですが、生きる甲斐がないと思ったのは、その辺りのことを指しているのでしょう。

 時雨が山めぐりをすることを詠んだ歌をもう二つ御紹介します。

②木の葉散るとばかり聞きてやみなまし漏らで時雨の山めぐりせば (千載集 405)
③晴れやらぬ去年の時雨のうへにまたかきくらさるる山めぐりかな (山家集 788)

 ②の意味は、時雨が屋根から雨漏りすることなく、山めぐりをするように他所へ行ってしまったならば、時雨の音を木の葉が散る音と聞いてすませてしまったことでしょう、ということです。雨漏りがしたので、木の葉が落ちる音ではなく、時雨の音とわかったというのですが、時雨は山めぐりをするものという共通理解があったことがわかります。

 ③は、昨年に片親に後れ、今年またもう一方の親を亡くして悲しんでいる人に贈った歌に対する返歌です。意味は、去年に親を亡くして、時雨のように泣いたばかりですのに、それがまだ乾かないうちに今年もまた親を亡くして、時雨の涙にかきくれ、供養のために山めぐりをします。あたかも時雨が山めぐりをするように、ということです。親が亡くなったのが、ちょうど時雨の時期だったのでしょう。時雨は山をめぐるものという共通理解があったからこそこのような歌が詠まれたわけで、そのことがわかっていないと、理解するのが難しい歌です。

 それならこの「山」とは具体的にどこの山なのでしょうか。当時京の都で「山」と言えば、特に断らなくとも比叡山延暦寺を指していました。延暦寺の僧兵は「山法師」と呼ばれたものです。比叡山に籠って『往生要集』を著した恵心僧都は「山の聖」と呼ばれました。比叡山の山中にはあちらこちらに堂宇があり、それらを巡って参拝することが行われていたのでしょう。もう少し範囲を広げて、比叡山を中心とした東山一帯の諸寺と理解することも可能でしょう。何か発願した人は、それらの諸堂宇を巡ることがあったのでしょう。①の詞書には「百寺」に詣でると記されていますから、三十三観音霊場の札所巡礼のように、100の寺を巡礼する習慣があったようです。時雨が狭い範囲で雨を降らせながら移動してゆくことを、このような山めぐりに譬えたわけです。

 現在、京都で「山めぐり」と言えば、伏見稲荷の山頂まで、一周4㎞の道を歩くことと理解されています。伏見稲荷の山に登って参拝する話は『枕草子』158段「うらやましげなるもの」に面白く記されていて、その頃から行われていたことはわかります。ただそれを「山めぐり」と称したかどうかは、また別の問題です。現在の私には、称していたとも、称していなかったとも、確実な史料を持ち合わせていません。私の勘にすぎませんが、当時は「山めぐり」とは称していなかったのではと思います。それは、当時「山」と言えば比叡山を指すことは共通理解であり、伏見稲荷を「山」と称した例は、私の知る限りでは見たことがないからです。もし私の見落としだったら、是非とも教えてください。

 もし紅葉の時期に東山あたりで時雨に濡れるようなことがあれば、時雨も山を巡拝しているのだと思って、暫く濡れるのも悪くはないのでしょう。