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うたことば歳時記

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2017-12-01 16:22:03 | うたことば歳時記
早朝の散歩で、落ち葉に置かれた霜が美しい時期になりました。そもそも霜とは、地上やそれに近い所にある物の表面温度が0度以下になると、それに接する空気も冷やされて、空気中の水蒸気が微細な氷の結晶になって成長したもののことです。気体が液体になる間もなく固体になることを、昇華と言いますが、冷却された大気中の水蒸気が昇華して氷となった物とも言えるでしょう。

 その年の秋から冬にかけて見られる最初の霜を初霜と言いますが、地域の条件によって相当の幅があるようです。同じ緯度でも、冷却の早い内陸では早く、海の影響を受ける沿岸では遅くなります。北海道では10月、東北地方や北関東では11月、それ以南では概ね12月なのですが、地球の温暖化によって初霜の時期は相当に遅れているそうですから、古歌に詠まれた霜の歌の時期については、現代の感覚をそのまま当てはめられません。今年の京都における初霜は11月22日で、平年より4日遅いそうです。王朝和歌全盛の時代なら、もう立冬の頃には初霜が見られることもあったのかもしれません。しかし旧暦11月を「霜月」と呼ぶように、霜の本格的季節は、現在の暦では12月になるのでしょう。

 地上の物に霜が付くことを、一般には「霜が降りる」とか「霜が降る」と言いますが、これは「降霜」(こうそう)という漢語を日本語に和らげたものですから、初期の大和言葉ではありません。もちろん後にはよく詠まれるようになります。霜を詠んだ古歌には「置く」という動詞を導くことが圧倒的に多く、「結ぶ」も見られ、ますが、これは鎌倉期以降に増えてきます。「降る」は見当たりません。またいつの間にか解けてなくなることを「消ゆ」と言います。霜は音もなく現れ、朝にはいつの間にか消え、ひっそりと冬の夜を演出するのです。「霜が降る」という表現もなかなか風情がありますが、「置く」という言葉も使ってみてはいかがでしょう。

 霜は条件さえ合えば、何にでも置くのでしょうが、古歌では霜と相性のよい物が決まっていました。どんな物に霜が置くのか、いくつか読んでみましょう。

①心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花  (古今集 秋 277)
②我が宿の菊の垣根に置く霜の消えかへりてぞ恋しかりける (古今集 恋 564)
③朝まだき八重咲く菊の九重に見ゆるは霜の置けばなりけり (後拾遺 秋 351)
④紫にうつろひにしを置く霜のなほ白菊と見するなりけり  (後拾遺 秋 358) 

 まずは菊に置く霜を並べてみました。①は百人一首にも収められていて、よく知られています。霜が置いたので白菊と見間違うというのですが、現代人なら大げさすぎると思うでしょう。しかしわざとその様に詠むのが当時の詠み方なのです。当時は菊といえば九分九厘白菊ですから、白い霜が花に置いてもはっきりと見えるわけではありません。しかし中国には、菊は霜に当たっても負けることなく凛として咲くという理解があり、しばしば漢詩に詠まれています。そしてそのような理解は早くから日本にも伝えられていました。ですから白菊に霜が置くという詠み方は、多分に観念的なものと見るべきなのでしょう。霜と菊の取り合わせは、唱歌『庭の千草』には「霜に傲るや菊の花」、童謡『野菊』「霜がおりても負けないで」と歌われています。

 ②は、菊に置いた霜が朝には消えてしまうように、恋しさの余りに心が消えてしまいそうだ、というのでしょう。③は八重の白菊に霜が置くので、九重に見えるというのですが、詞書きによれば、宮中の庭の白菊を詠んだものです。宮中を「九重」と呼ぶことを踏まえて、九重の庭だから九重の菊が咲くと洒落たものなのです。④は、白菊は霜が置く頃には赤紫に色付くのですが、それを霜が置くのでまだ白菊に見えると詠んでいます。いずれにしても白菊に置く霜を、観念的に詠んでいることが共通していますね。実際に観察したと言うより、その様なものと決めて掛かっているわけです。

 観念的な霜と言えば、他にも水鳥の羽に置く霜というものがあります。歌ことばではこのような霜を「上毛(うわげ)の霜」と言います。そのような歌をいくつか並べてみましょう。

⑤夜を寒み寝覚めて聞けば鴛(おし)ぞ鳴く払ひもあへず霜や置くらん (後撰集 冬 478)
⑥霜置かぬ袖だにさゆる冬の夜に鴨の上毛を思ひこそやれ (拾遺集 冬 230)
⑦おきながら明かしつるかな共寢せぬ鴨の上毛の霜ならなくに (後拾遺 恋 681)

 ⑤の「夜を寒み」とは「夜が寒いので」という意味です。あまりの寒さで、夜中に目が覚めたのでしょう。ちょうどそこへ鴛の声が聞こえたのですが、「鴛鴦」ではなく「鴛」と表記されています。つがいで揃っていれば「鴛鴦」と書くわけですから、雄の鴛一羽なのです。雌とつがいになれない雄鳥が、背中の羽に置く霜を払いのけることが出来ずに鳴いているのだろう、というわけです。つがいであれば、互いに上毛の霜を払い合うことができるであろうが、一羽ではそれもできないという理解があったわけです。作者自身も冬の夜の寂しい独り寝をしているので、雄の鴛にその寂しさを投影しているのです。⑥は、夜の衣の袖も寒々しいので、霜の置く鴨の上毛もさぞかし寒いことだろう、という意味です。独り寝かどうかこれだけではわかりませんが、とくにことわらなくとも、そのような設定なのだと思います。⑦は和泉式部の恋の歌です。恋人の来訪を明け方まで待っていたのに、ついに来なかったのでしょう。明け方まで起きたままであったというのです。この「おきながら」は「霜を置いたままで」という意味を懸けています。夜が明けるまで置かれたままの鴨の上毛の霜ではありませんが、来ぬひとを待ちながら、夜が明けてしまったことです、という意味です。このように鴨の上毛の霜は、恋に絡めて詠まれるのが普通でした。

 しかしそれにしても鴨の羽に本当に霜が置くのでしょうか。鴨は夜は水辺の岸に上がって寝ていることが多いのですが、鳥の体温は人より高いはずですから、朝まで霜が残っているとも思えません。そもそも霜があるか見ようと近寄れば逃げてしまいますし、双眼鏡でも夜は見えません。要するに「鴨の上毛の霜」も観念的な霜なのです。

 鴨の上毛だけでなく、人間にも同じように観念的な霜が置きます。えっ、人に置く霜なんてあっただろうかと、一瞬考えるかもしれませんね。「頭の霜」がそれです。「頭の雪」と言う場合もありますが、共に白髪のことで、「老」の比喩として理解されています。

 ⑧年ふれば我がいただきに置く霜を草の上とも思ひけるかな (金葉集 雑 569)
年をとって霜のような白髪となったが、霜は草の上に置くものとばかり思っていた、という意味です。

 その他に人に関わる霜としては、「霜の上着」という表現があります。
 ⑨下冴ゆる草の枕のひとり寝に霜の上着をたれか重ねん   (堀河院百首 霜 918)
 ⑩笹の葉に置くよりもひとり寝るわが衣手ぞさえまさりける (古今集 恋 563)

 ⑨は、冬の旅の独寝の侘びしさを表現しているのですが、他にも「霜の衣」「霜の枕」などと詠まれることもあります。⑩の「衣手」とは袖のことで、袖に霜が置くと詠まれているわけではありませんが、霜の置く笹の葉よりも寒々と冴えるというのですから、袖にも霜が置くという理解があったことになります。もちろん実際に衣に霜が置くわけではないのですから、これも観念的な霜なのです。このように霜その物を詠むのではなく、寒く侘しい心を象徴的に表す言葉として、霜が選ばれていると言うことが出来るでしょう。

 それなら客観的に霜その物を詠んだ歌はあるのでしょうか。

⑪落ちつもる庭の木の葉を夜のほどに払ひてけりと見する朝霜  (後拾遺 冬 398)
⑫初霜もおきにけらしな今朝見れば野辺の浅茅も色づきにけり  (詞花集 秋 138)
⑬冬きては一夜ふた夜をたま笹の葉分けの霜のところせきかな  (千載集 冬 400)
⑭もみぢ葉はおのが染めたる色ぞかしよそげにおける今朝の霜かな (新古今 冬 602)

⑪は、落ち葉を敷き詰めた庭の早朝の様子を詠んだものです。落ち葉の上に一面に霜が置いているのを、一夜のうちに霜が落ち葉を払って覆い隠してしまったと見ているのです。⑫はわかりやすい歌ですね。浅茅が一面に生える野辺、つまり浅茅が原が赤く色付いているのを、霜が染めたと理解しています。浅茅、つまりチガヤが一面に生えている浅茅が原が赤く色付いているのを、霜が染めたと見ているわけです。赤く色付くのは楓ばかりではありません。野辺の草も紅葉し、「草もみぢ」と呼んだりします。⑬は、冬となってまだ一日二日しかたっていないのに、笹の葉の一枚一枚に霜がびっしりと隙間なく置いていることだ、という意味です。⑭は霜に呼びかけている歌で、木の葉が色付いているのは、霜よ、お前が染めたのだよ。まるで、よそ事のように素知らぬ顔で置いている霜であることよ、という意味です。霜が草木の葉を染めるという理解は、⑫にも共通しています。

 霜が置くことを詠まれる植物としては笹や菊が多く、落ち葉がこれに次いでいるように思います。⑩にも笹の葉の霜が詠まれていました。ちょうど今の時期には、早朝にはまだ霜が消えていないでしょうから、意図して道端の笹の葉を御覧になって下さい。他に笹の葉にすがる露や、積もる雪もよく詠まれました。現代人は笹に特に見るべき季節を感じないかもしれませんが、古人にとっては笹は秋から冬にかけて風情があるものと理解されていたのでしょう。

 話が前後してしまいますが、白髪の他にも霜に譬えられるものがあります。それは月の光、特に冬の月影がよく霜に見立てられるのです。

⑮白妙の衣の袖を霜かとて払へば月の光なりけり (後拾遺 秋 260)
⑯冬枯れのもりの朽葉の霜の上におちたる月の影の寒けさ  (新古今 冬 607)

 ⑮はあまり上手な歌とは思いませんが、月の光、つまり月影をストレートに霜に見立てています。実際の景色としては、夜の白い衣を月の光が窓越しに照らしているのでしょう。袖に霜が置くという観念的な理解を背景として、月影にほのかに白く浮かび上がる衣の袖を、霜に見立てているのです。「月影の霜」とでも言いましょうか。月の光の色を白と表現することは、古歌にはしばしば見られるところ。現代人は「白」というと乳白色を思い浮かべますが、古歌の世界の白は、透明感のある白なのです。夜の電灯の明るさを知ってしまった現代人は、月の明るさに驚くという感性を失いつつあります。月の煌々と照らす夜、豆球もすっかり消して真っ暗くしてみると、あらためてきっと驚くことと思います。

 ⑯は、朽葉の霜を照らして冴え渡る冬の月を詠んだものです。月影が霜であるとまでは詠んでいませんが、霜が月の光で輝いて見えたのでしょう。霜と月の光は相性のよいものと理解されていたのです。

 月の光と霜の取り合わせといえば、漢文の教科書にしばしば登場する唐代の李白の「静夜思」の漢詩を覚えている人も多いことでしょう。

牀前 月光を看る、疑うらくは是 地上の霜かと、頭を挙げて 山月を望み、頭を低れて 故鄕を思う

 意味は、静かな夜、ふと寝台の前に降る月の光を見ると、まるで地上に置いた霜ではないのかと思ったほどである。それであらためて、頭を挙げて山の上にある月をしみじみと眺めているうちに、故郷恋しさに頭を垂れてい感慨にふけるのである、といったところでしょうか。

 ただし王朝時代に、日本でもてはやされた唐の詩人は専ら白居易(白楽天)で、唐代の大詩人である李白や杜甫はほとんど知られていませんでした。当時の日本人の漢詩の基礎的テキストであった『和漢朗詠集』(藤原公任撰)には、白居易の詩で占められています。ですから李白のこの詩が直接に影響を与えたことはないでしょう。漢学者ならばもっと詳細な考証が出来るのでしょうが、浅学の私には手に負えません。

 霜に関する歌を見渡してみると、霜は和歌の主題その物になることは少なく、何か他の物に結び付いて、冷涼な景色や心理を表す詠み方が主流になっていると結論しておきましょう。




櫟・橡

2017-10-22 13:56:10 | うたことば歳時記
朝の散歩道に、櫟(くぬぎ)の実がたくさん落ちています。子供の頃にはよく拾ってきて、独楽(こま)を作って遊んだものです。我が家の愛犬は団栗が大好きで、櫟の実を見つけると、夢中になってかじりつき、食べてしまいます。トタン屋根に落ちる実の音は、夜にはよく聞こえるので、寝床の中でしみじみと深まる秋を実感させてくれます。

 建築用材には向かないため、同じく大木になるのに役に立たない木として、樗(楝・おうち)と共に、役に立たない人を意味したり、自分を謙遜していう「樗櫟」(ちょれき)という言葉にもなっています。確かに堅くて加工が難しそうだし、炭に加工するくらいですかね。椎茸栽培に使ってみましたが、樹皮が厚すぎて、使いにくいものでした。それでも落ち葉は堆肥にできますから、全く役に立たないとまでは言えないと思うのですが。

 高さは十数mに及び、姿も堂々としていて、雑木林の中でも一際目立つ存在です。そのためか、古くは信仰の対象になったこともあったようです。『日本書紀』の景行天皇紀十八年には、そのことを推測させる逸話が記されています。ある時筑後国の御木(みけ)というところに、長い大木が倒れていた。天皇が木の名前を問うと、一人の老人が「これは歴木(くぬぎ)で、朝夕に光が当たると、東西の山の姿を隠してしまう程の立派な木であった」と答えた。すると天皇は「この木は不思議な木である。それ故にこの国を『御木(みけ)の国』と呼べ」と命じた、というのです。なお、『筑後国風土記』逸文には、同じ話が記されているのですが、くぬぎではなく「楝」(樗・おうち)ときされています。ただし櫟のそのような理解は姿を消してしまうようです。 
 現代ではあまり用途のない「雑木」かもしれませんが、『万葉集』では橡(つるばみ)とも呼ばれ、黒色の染料として用いられていたようです。そんな歌を上げてみましょう。

①橡(つるはみ)の衣(きぬ)は人皆事無しと言ひし時より着欲(ほ)しく思ほゆ (1311)
②橡の解き洗ひ衣の怪しくもことに着欲しきこの夕かも (1314)
③紅(くれない)はうつろふものぞ橡のなれにし衣になほ及(し)かめやも (4109)
 
①は、橡でめた衣は誰もが着やすいと言うのを聞いてから、着てみたいと思います、という意味です。橡で染めた布は、『養老令』では「家人橡黒衣」と規定されていて、専用の衣の色でした。また『日本書紀』持統天皇七年正月の詔には、「天下の百姓には黄色の衣、奴には皁(くろ)を服(き)しむ」と記されていますから、早くから橡染めの黒い衣は、身分の賤しいものの衣という共通理解がありました。それにもかかわらずそれをわざわざ着てみたいと言うには、何かわけがありそうです。一般には、橡染めの衣はそのような身分の低い女性の比喩と理解されますので、「事なし」という言葉は、「難しいことがない」とか「気が置けない」とか「気楽な」などのように理解できます。ですから全体としては、単に橡染めの(地味な)衣は、楽に着られるという表面的な意味だけではなく、そのような女性を妻にしたいという気持ちを表していることになるのです。

 ②はも①と同じ発想の歌です。橡染めの衣を解いて洗っていると、不思議なことに、格別にもまた着たくなる夕べであることです、という意味です。表面的な意味はすぐにわかりますね。しかし「着古して解いた衣をま着たい」ということは、一度は別れた馴染みの女性とまたよりを戻したいという意味にも理解できます。『万葉集』では、「結ぶ」とか「解く」という言葉は、しばしば男女の関係を表すものとして詠まれているからです。

③は、紅花で染めた衣は美しいけれどもすぐに色が褪せるものです。ですから橡染めの着古した衣にはとうてい及びません、という意味です。そうするとこれにも裏があって、美しく若い女性より、気心の知れた古女房の方がよい、ということになりますね。

 少々男の身勝手のような感じもしますが、千数百年前のことですから、大目に見て上げましょう。とにかく橡染めの衣を長年連れ添った妻に見立てることは、当時の共通理解であったようです。私は結婚以来40年近くなりますが、もちろん紅染めの衣の方がよいと思うことはありません。何と言っても以心伝心、気心の知れた方が良いに決まっています。

 ネットで橡染めを検索すると、黒以外の色もあるようですが、触媒をかえれば黒以外にもなりますから、橡染めといっても、現代ではもっと幅広い色になっているようです。

 清少納言は『枕草子』の中で、「恐ろしげなるもの。橡の梂(ツルバミノカサ)。焼けたる野老(トコロ)。水茨(ミズフブキ)。菱。髪多かる男の、洗ひて乾すほど。」と述べています。「焼けたるところ」は「焼けたる所」かもしれません。水茨は鬼蓮とされていますが、不勉強で詳しくは知りません。菱は忍者の使う播き菱ではなく、植物としての菱の実でしょうか。菱の実の形が、木の実としては異様なのでしょう。髪の多い男が髪を洗って干す場面のどこが恐ろしげなのか、さっぱりわかりません。櫟のかさが異様な形をしていることは納得できますね。

平安時代の歌集では、櫟を詠んだ歌は少ないのですが、団栗類の総称である「柞」(ははそ)はたくさん詠まれています。その中に櫟が含まれていることも十分考えられます。

 『扶木和歌抄』に
④たかせさす佐保の河原のくぬぎ原色付く見れば秋の来るかも
⑤春来てもは山がすそのくぬぎ原まだ冬枯れの色ぞのこれる
という歌があります。「ははそ原」という表現はしばしば見られるものであり、同じように「くぬぎ原」ともよまれますから、櫟は柞とおなじように理解されていたのでしょう。④では、櫟の葉がかすかに色付いていることに秋を感じているのですが、時期的には少し遅すぎると思いますね。秋の到来よりも、秋の深まりならよく理解できます。⑤は櫟の枯れ葉がいつまでも枝に残っていることを言うのでしょうが、ナラやコナラならかなり長い期間枝に枯れ葉が付いたまま、春を迎えることがあります。観察していると、クヌギはナラほど遅くまでは残らないのですが、葉がいつまでも残ることは、葉を守るという「葉守りの神」が宿るとして、古人の関心を集めていたわけです。

 散歩道でクヌギの実一つを見つけても、いろいろ古典文学の世界に遊ぶことができます。






母の日のカッコウ

2017-06-01 11:59:24 | うたことば歳時記
私の家は比企丘陵の里山にあるので、ウグイスがたくさん生息していて、もう6月になるというのに、いまだによく鳴いています。毎年8月中旬までは確実に鳴いています。ホトトギスはウグイスの巣に卵を生むので、ホトトギスはウグイスのいる所にしかやってこないため、ホトトギスの鳴き声も毎日聞いて楽しんでいます。

 ホトトギスとそっくりなカッコウは、葦原に生息するヨシキリの巣に産卵するため、里山ではなく、葦原のある水辺に近い所にやって来ます。しかし少しは木がないと棲めないようで、見わたす限りの葦原が続くような所ではなく、葦原と樹林が程々に混在する所に来るようです。先日の母の日に、荒川の河川敷でカッコウの声を聞いたのですが、なる程、ヨシキリのいそうな所でした。

 その母の日にカッコウの鳴き声を聞いたことは、私にとっては特に感慨深く、しみじみと聞いたことです。『古今和歌集』の理解について、室町時代に「古今伝授」という解釈についての秘伝が行われていました。それは『古今集』の難解な語句の解釈について、師から弟子へ秘伝という形で後世に伝えたものです。その中に「三鳥」と呼ばれる三種類の鳥がいます。「よぶこどり・ももちどり・いなおほせどり」のことなのですが、それが実際には何という鳥であるか、現代ではわかっていません。

 その中の「よぶこどり」は漢字で表記すれば「呼子鳥」「喚子鳥」となるのでしょうが、これがカッコウではないかという説があります。よぶこどりについては、『徒然草』にも「喚子鳥は春の物なりとばかりいひて、いかなる鳥とも定かに記せる書なし。」と記されているように、早い段階から何の鳥か不明となっていました。『万葉集』や『古今和歌集』でよぶこどりが詠まれている歌に当たってみると、春の鳥と考えられていた可能性があります。しかし「カッコー」という鳴き声を「吾子」(アッコー)と聞きなしして、「わが子をよぶ鳥」と理解し、カッコウを指しているのではという説も捨てがたいものがあります。ただし、もしカッコウだとすれば、春の鳥ではないことになります。とにかく諸説があるのですが、議論はもう出尽くしていて、将来的にも鳥の名前を特定することはもうできないのでしょう。

 それならそうと、私としては呼子鳥はカッコウであると理解して、カッコウの鳴き声を我が子を呼んでいる母の声になぞらえて聞いたわけです。私にとっての今年の初声を聞いたのがちょうど母の日だったため、特に印象に残りました。93歳になる母は、そのカッコウの声を聞いた所の近くにある施設にいるのですが、私が訪ねていっても、もう誰だかわかってくれません。ただ自分の息子の名前は覚えていて、時々どうしているかと心配することはできるようです。

 それで一首詠んでみたわけです。
○撫子のたより聞かせね呼子鳥ははの日になく声のかなしき

「撫子」は表向きはナデシコの花なのですが、古歌の世界では「慈しんで育てた可愛い我が子」を意味しています。「聞かせね」は「聞く」の使役である「聞かす」に願望を表す終助詞「ね」を続け、聞かせてほしいということを意味しています。「なく」は「鳴く」と「泣く」を掛けるために、敢えて平仮名としました。「かなし」は現代人は「悲しい」と理解してしまいますが、古語では「涙が出るくらい切ないこと」を意味しています。現代短歌なら感情をストレートに表す言葉を意図して避けるのでしょうが、古歌には「・・・・かなしき」という歌はいくらでも例があり、問題視する程のことはないでしょう。
 
 もしどこかでカッコウの声を聞くことがあれば、我が子を呼んでないていると思いながら聞いてみて下さい。現代人は自然をそれ以上でもなくそれ以下でもなく、ただ「カッコーが鳴いているな」で終わってしまうのですが、古の人は自然に感情を移入して、豊かな心で理解していたのです。

花筏・水面の花

2017-03-27 21:22:37 | うたことば歳時記
 そろそろ桜開花の知らせを聞くようになりました。桜について何か書きたいと思っていたところ、たまたま花筏(はないかだ)という美しい言葉に出会いました。中世までの和歌にはない言葉なので、私の脳裏にはあまり浮かんでこない言葉でした。それでネットで確認したところ、とんでもない解説を見つけました。まずはそのまま引用します。

 「その花筏という言葉の由来はというとなんとも驚きなのです。それは、川に流された骨壺(こつつぼ)のさまから来ているのです。その昔、言い伝えがあって、川に浮かべていた筏(いかだ)に、骨壺を紐で結んで流していたのですが、その筏に結んでいた紐が早くとれて、骨壺が川に流されていくと、早くあの世の極楽浄土にいくことができるということだったんです。その時に、骨壺といっしょに花も添えられており、その筏から紐で結ばれていた骨壺が川に流れていく様子から、花筏(はないかだ)という言葉が生まれました。
花筏(はないかだ)とは、散った桜の花びらが水面に浮き、それらが連なって流れていく様子のことです。」

 驚きました。こんな話は初めて聞きました。私にはとうてい信じられません。骨壺を川に流すという葬法は、全国隈無く調べれば、特定の地域にあるのかも知れません。しかし仮にあったとしても、現在の習俗では、起原として説明する根拠にはなり得ません。川に流す骨壺が語源であると断言するならば、文献上は室町時代の『閑吟集』という歌謡集に花筏という言葉が見られますから、それ以前の史料に骨壺を起原とすることを示す史料がある程度の数で存在しなければならないのです。

 私の記憶では『閑吟集』より古い史料は思い浮かびません。ひょっとしたらあるかも知れませんが、少なくとも中世までの主な和歌集には見当たりません。しかし私の見落としでもしあったとしても、普遍的なものではありません。私は日本史の高校教諭として、それなりに一生懸命幅広く日本の歴史的文化を学んできたつもりですが、いまだかつて聞いたことがありません。

 そもそも確かな根拠や史料や出典を明示しないネット情報は、まず疑ってかかった方がよいと思います。特に「・・・・と伝えられている」というように、伝承・伝聞を根拠としている情報は、まず怪しいと思って読んでいます。大学の史学科で徹底して史料批判の重要性を学んできましたから、このことについては常に気をつけています。

 ただ現在、筏と川の流れと桜の花をあしらった漆器の小さな納骨容器が、花筏と称して販売されていることは事実です。ひょっとしたら上記のネット情報にヒントを得たのかも知れません。まあ作る人の自由であり、なかなか美しいものなので、それはそれでよいと思います。しかしそのうち既成事実化してしまうことを恐れるばかりです。

 「花筏」を詠んだ古歌は見当たりませんが、水面に浮かぶ桜の花を詠んだ歌なら、探し出すことはできます。

①枝よりもあたに散りしく花なれば落ちても水の泡とこそなれ (古今集 春 81)
②吹く風を谷の水としなかりせばみ山がくれの花を見ましや (古今集 春 118)
③花さそふ嵐や峰をわたるらん桜なみよる谷川の水 (金葉集 春 57)
④水上に花や散るらん山川のゐぐひにいとどかかる白波 (金葉集 春 62)
⑤水の面に散りつむ花を見る時ぞはじめて風はうれしかりける (金葉集 春 63)
⑥桜さく木の下水は浅けれど散りしく花の淵とこそなれ (詞花集 春 39)
⑦散る花にせきとめらるる山川の深くも春のなりにけるかな (詞花集 春 44)
➇池水にみぎはの桜散りしきて波の花こそさかりなりけれ (千載集 春 78)
⑨桜散る水のおもにはせきとむる花のしがらみかくべかりける (千載集 春 99)
⑩山風に散りつむ花し流れずはいかで知らまし谷の下水 (千載集 春 100)
⑪花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎゆく舟の跡見ゆるまで (新古今 春 128)

 探せばもっとあるでしょうが、取り敢えずはこのくらいにしておきましょう。

 ①は詞書きによれば、東宮御所周囲を流れる御溝水(みかわみず)という幅の狭い流れに散った花びらを詠んだものです。はかなく散ってしまつた花なので、落ちて水に浮いてもはかない泡となることだ、という意味です。花の命は短くて、すぐにはかなく散ってしまう。そのはかない花だからこそ、水に浮いてもはかなく消えてしまう泡のようだ、というのです。水に流れる花の美しさよりも、花の儚さを惜しむ趣向になっています。

 ②は、もし風と谷川の水がなかったならば、奥山に人知れず咲いている花を見ることができようか、という意味です。目の前に桜の花が咲いているわけではありません。花びらが流れてくるので、上流には咲いていることがわかるというのです。こんな場面は、今でも身近にありそうですね。流れてくる花を見て、見えない桜の木を思い浮かべるなんて、なかなか風流なものです。

 ③は、強い風が峰を越えて吹いているのだろう。水面に浮かぶ桜の花びらが、波のように寄っている谷川の水であることよ、という意味です。まず、花が風に散るのは風が誘っているからというのです。「風誘ふ」 という表現は大変に好まれたようで、慣用句のようになっています。⑩にも同じ表現があります。そう言えば江戸時代の歌ですが、赤穂事件で切腹した浅野内匠頭長矩の辞世にも詠まれていますね。「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」。「桜なみよる」もなかなか美しい表現です。風に草花が靡く様子を表すのに応用できそうです。パクリにならない程度に使って見たいと思います。公園の池の岸に桜が咲いていて、池の岸に花びらが寄せられてくる場面は、これも身近にありそうです。そんな場面を見ることがあれば、「桜なみよる」という句を思い出して下さい。

 ④は、上流で桜の花が散っているのだろうか。堰杭(いぐい)に堰き止められた花びらが一層白波のように見えることだ、という意味です。堰杭とは、川を堰き止めるために打ち込まれた杭のことでしょう。白い物を白波に見立てるのは常套で、他にはよく卯の花が白波に見立てられます。これも②と同じで、目の前に桜の花は見えません。川を流れ下る花というなら、②や④はまさに花筏ですね。

 ⑤は、水面に降り積むほどに花びらが浮かんでいる美しさを詠んでいます。「月に叢雲 花に風」という諺があるように、普通は花に吹く風は嫌われるものです。「風よ、花を散らすな」という歌は、枚挙に暇がありません。ただし梅に吹く風は香を運ぶのでそうでもないのですが。普通は厭われる花に吹く風を、逆転の発想で詠んでいるところが新鮮です。

 ⑥は、桜の花が咲いている木の下の流れは浅いけれど、花びらが積もって淵のようになっている、というのです。作者の狙いは「浅い」と「深い淵」の対比にあるのでしょうが、少々言葉の遊びになってしまっています。まあそれはそれとして、川の流れを覆うほどに花びらが覆っているのでしょう。

 ⑦は、散る花びらに堰き止められて、山の川が淵のように深くなるように、春も深くなってしまったことだ、という意味です。花びらが堰き止められるという発想は、④にもありましたね。季節が深まるという表現は、現代では秋によく見られることで、他の季節についてはあまり使われていません。しかし古には普通に見られる表現でした。「○○が深いように季節が深まる」という表現は常套的で、「夏草が深くなるように夏が深まる」という言い方をします。これも現代人にとっては言葉の遊びなのでしょうが、同音異義語を上手く活かして詠むことは、しばしば見られる技法でした。現代短歌を詠む人は、っと嫌がるでしょうね。現代短歌では「何を詠むか」が問われますが、古歌では「如何に詠むか」ということが重要だということなのでしょう。

 ➇はわかりやすい歌ですね。池の辺の桜が水面に散りしいて、水面は花盛りであることよ、という意味です。これは花を波に見立てるのではなく、水が見えないほどに花が覆っているので、「花の波」そのものなのでしょう。

 ⑨は注釈書では、花が水面に散り敷かぬように、落花を堰き止める柵(しがらみ)を空につくるべきだなあ、と訳していました。池の表の花びらを堰き止めるのでは、平凡になってしまうからというのです。うーん、そういう読み方もあるのかと思いましたが、私は少々無理かなと思います。平凡でも、ここは水面の花を堰き止められるように、柵をつくるべきである、という理解でよいのではと思います。確かに平凡ですが。

 ⑩は、山風に散らされた花が谷川の水を覆っているのでしょうが、花が流れるので、表面には見えない谷川の水が流れているのがわかる、というのでしょう。桜の花が散って流れるほどに、春が去って行く。春を惜しむ心も読み取ることができます。

 ⑪はよく知られた歌ですね。「比良の山」とは、琵琶湖の南寄りの西岸にある高い山々で、そこから琵琶湖に吹き下ろす風は、「比良の山風」と慣用的な歌言葉となっています。比良の山から吹き下ろす強い風が、桜の花を散らして、琵琶湖の水面が花に覆われているのでしょう。そこに花をかき分けるように小舟が一艘漕いで行くのですが、舟の航跡の部分だけに水面が見えるのです。このような場面は、「澪(みお)をひいて舟がゆく」と言いましょうか。舟が通ったあとにできる水の筋を澪と言います。舟でなくとも、水鳥が泳いで澪を-場面でもよいでしょう。大和絵のような美しい場面ですね。公園の池の辺に桜が咲いていて、ボートが浮かぶ花びらをかき分けてゆくという場面に出会うならば、ぜひ思い出して欲しい歌です。

 全体を通して感じることですが、花の散るのを惜しみつつも、水面の花の美しさを肯定的に見ていますね。陰鬱さはほとんど感じ取れません。流れる花びらに上流の花を思うとか、浮かぶ花びらを柵(しがらみ)と見るとか、岸に寄せ来る花びらを花の波・波の花と見るなどと言う理解が共有されていたようです。ただ「花筏」という言葉は見つかりませんでした。

 室町時代の流行歌の歌詞を集めた『閑吟集』という書物には、「吉野川の花筏 浮かれてこがれ候(そろ)よの 浮かれてこがれ候よの」という歌が見えます。
歌謡を集めたものに、次の歌があります。いわゆる流行歌ですから、それ程高尚なものではなく、庶民的な恋の歌と理解できます。「わたしゃあ吉野の花筏、心浮かれて、焦がれるばかり」という意味でしょう。「こがれる」は「焦がれる」と「漕がれる」を掛けています。女性が花で、竿を執る筏師が男で、その男に恋い焦がれ、川に浮き身を任せて恋に流されてゆくというのでしょう。

 閑吟集は1518年の成立ですが、既に歌謡として流布していたものを集めたのですから、「花筏」という雅語は、それよりもかなり早い時期には生まれていたものと思われます。鎌倉時代末から室町時代初期の和歌集を丁寧に探せば見つかるかも知れませんが、少なくとも新古今集までの八代集では見つかりませんでした。もし私の見落としでしたら教えて下さい。

 他にハナイカダという名前の木があるのですが、あいにく私はよくは知りません。知らないのにわかったように書くのは嫌なので、名前の紹介にとどめておきます。ネットで画像を見られますから、興味のある方は御覧下さい。

 今回は、ただ水面の桜の歌を並べただけで終わってしまって、申し訳ありません。非力を痛感しています。それより、これからお花見もあるでしょうから、是非とも水面の花も楽しんで下さい。

桜狩り

2017-03-05 21:25:46 | うたことば歳時記
まだ少し早いですが、桜のお話しを一つ。

 今はあまり使われなくなりましたが、桜の花を愛でるために少々遠出をすることを「桜狩り」と言います。そう言えば同じようにもみぢを愛でるた「紅葉狩り」もあります。そこで古語辞典を検索してみると、「桜の花を尋ねて山野を歩き回ること」とあり、「狩る」で検索してみると、「山野に入って花木を探し求めること」と記されています。ネット情報では、「狩りをするわけでもないのに『狩り』というのは、草花や自然をめでることを意味していたから」というような、ピント外れの解説がいくつかありました。

 「狩る」ことは草花を愛でることと言われると、私は一寸首をひねってしまいます。「○○狩り」と言う言葉は他にもいくつかあります。潮干狩り・蛍狩り・茸狩り・鷹狩りなどが思い当たりますが、いずれも獲物を狙って山野を歩き回ることが共通しています。

 現代人のモラルからすれば、桜やもみぢを眺めに行って、枝を折って持ち帰ることは許されないことです。また古くから「桜きる馬鹿、梅きらぬ馬鹿」と言うように、桜の枝を剪定すると、切り口から腐りやすくなり、また桜のつぼみは枝の先端に多くつくので、花が咲かなくなるため、(梅は樹形を整えるためには剪定が欠かせず、梅は剪定してもすぐに回復して花のつく枝が伸びてくる)桜の枝を折り取ることを戒めたものでした。

 ところが花見の古歌を探してみると、枝を折る歌が沢山あるのです。それに対して梅の枝を折る歌はあまり見かけません。そもそも「桜狩り」はあっても「梅狩り」という言葉はありません。

 ①いしばしる滝なくもがな桜花手折りてもこん見ぬひとのため (古今集 春 54)
 ②見てのみや人に語らむ桜花手ごとに折りて家づとにせん (古今集 春 55)
 ③山守はいはばいはなむ高砂の尾上の桜折りてかざさむ (後撰集 春 50)
 ④桜花今夜かざしにさしながらかくて千歳の春をこそ経め (拾遺集 春 286)
 ⑤折らば惜し折らではいかが山桜けふをすぐさず君に見すべき (後拾遺 春 84)
 ⑥みやこ人いかがと問はば見せもせむこの山桜一枝もがな (後拾遺 春 100)
 ⑦咲かざらば桜を人の折らましや桜のあたは桜なりけり (後拾遺 雑 1200)
 ⑧よそにては惜しみに来つる花なれど折らではえこそ帰るまじけれ (金葉集 春 54)
 ⑨万代とさしてもいはじ桜花かざさむ春し限りなければ (金葉集 賀 309)
 ⑩桜花手ごとに折りて帰るをば春のゆくとや人は見るらん (詞花集 春 31)
 ⑪一枝は折りて帰らむ山桜風にのみやは散らしはつべき (千載集 春 94)
 ⑫仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば (千載集 雑 1067)

 ①は、桜を見に来られない人のために、桜の枝を折りたいのだが、滝があって折ることができないという。②は、見てきたよという言葉だけでは桜の美しさを伝えられないから、家への土産(家づと)に枝を折って持ち帰ろう、というのです。③は、山の管理人はとやかく言うなら言ってもよいから、桜を折って髪に挿そう、というのです。花の一枝を折って髪や冠に挿すことを「かざし」と言います。意味は「髪挿し」で、後に「かんざし」と変化することは察しがつくことでしょう。本来は長寿を祈る呪術でしたが、次第に装飾となっていきます。④も同じくかざしを詠んでいます。桜のかざしを挿すので、千年も長生きできるというのです。⑤は、折るのは惜しいが、折らないと今日という日を過ぎずにその美しさをあなたに見せることができるだろうか、というのです。⑥は、都人が、山の桜はどうでした尋ねたらね見せもしたいので、一枝ほしい、というのです。⑦は、桜の枝が折られてしまうのは、桜が美しく咲くからで、咲かなければ折られることもないと理屈を言っています。⑧は、遠くで見ていた時には花が惜しいと思っていたのに、いざ来てみたら、惜しむどころか、枝を折って持ち帰らずにはおれない、というのです。⑨もかざしを詠んでいます。万代と限っては言いますまい。桜をかざしに挿して過ごす春は、果てしなく続くのだから、というわけです。かざしが長寿のまじないであることがわかりますね。⑩は、皆が手に手に桜の枝を以て帰ってゆくのを見て、人は春が去ってゆくと思うだろうか、というのです。花見の帰りに、皆が桜の枝を持っていたことがわかりますね。桜が散れば春が終わるという理解が前提になっているわけです。⑪は、いずれ風が散らしてしまうのだから、一枝くらいは持って帰ろう、という。⑫は西行のよく知られた歌で、自分が死んだら、大好きな桜の花を供えてほしい、というのです。どこにも枝を折るとは詠まれていませんがね供える以上は折るということなのでしょう。

 いかがですか。あまりに多いので一部しか載せませんでしたが、結構大胆に折って持ち帰っている様子がわかるでしょう。現代人の感覚では顰蹙をかいそうですが、当時の倫理観ではそのようなことはなく、土産に持ち帰るのが当たり前だったようです。

 もう一つ確認しておきたいのは、桜は山に自生していたので、桜を愛でるには遠出をする必要があったということです。梅は唐伝来の花木ですから、野生の梅はありませんでした。それで庭に植えて観賞するものでしたから、「軒端の梅」という言葉ができるのです。しかし桜はもともと野生でしたから、庭に植えられることは多くはありませんでした。もちろん庭の桜を詠んだ歌はありますが、梅ほど多くはなく、「軒端の桜」とは詠まれないのです。ですから桜の美しさを伝えるためには、どうしても一枝折って持ち帰りたくなるのです。

 桜狩りとはただ桜を観賞することではなく、桜を求めて山や野に分け入り、十分に桜を堪能するだけでなく、ついでに枝を折り取って持ち帰ることだったと言うことができるでしょう。辞書には「狩る」とは「花や木を探して観賞すること」と説明されていますが、私ならもっと強く、「花や木を探し求めて山野に分け入り、それを採って愛でること」と説明したいところです。ただ眺めて愛でるのではなく、動物を狩るように手に採って愛でるからこそ、「桜狩り」と呼ばれたのでしょう。