マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

2006年12月03日 | ア行
 1、悪の問題にはいろいろな側面があります。まず第1に、悪とは何か、つまり悪の定義の問題があります。これはもちろん同時に善の定義と結びついており、善悪の区別の問題にもなります。

 そしてこれを考える時に出てくるのが、善悪と高低と好悪の関係(異同)の問題です。これが第2の問題です。

 これらがハッキリしたとして、第3の問題は性善説と性悪説のどちらが正しいか、あるいはどちらが人間観として高いかあるいは深いかの問題です。

 最後の問題は、善悪の判断つまり価値判断の客観性の問題です。今では「価値判断は個人によって異なる主観的なものだから客観性はない」という考えが無反省に「公理」のように罷り通っていますが、それほど簡単な問題ではありません。

 2、第1の問題については、ヘーゲルは「或る事物ないし事柄が自分の概念と一致するか否か」の問題と捉えなおしました。つまり(客観的な定義における)真理の問題と同一としたのです。

 参考に掲げた2の言葉にそれが出ています。この場合は das Gute (善)とは das Wahre (真)と同じであり、 das Boese(悪)は das Schlechte(悪)と同じです(『ヘーゲル事典』弘文堂では座小田豊氏は両者は違うとしています)。

  das Falsche(偽)とは「真理の主観的理解」のレベルでの問題です。

 3、善悪と高低と好悪の異同の問題を意識的に提出して一応の答えを出している人は牧野しかいないと思います。日本人(だけではないかもしれない)は、「悪い」と思う事柄について「嫌いだ」と言うことが多いと思います。

 それはこの異同のはっきりしていない事を利用して、そして「価値判断は主観的だ」という偏見を利用して、「嫌いなものは嫌いだよ」と言って「なぜ悪いのか」という質問を封じて自分の考えを押し通そうとする非科学的な態度です。

 これらが混同されるのは、「悪」という語が「好悪」にも使われていることにも一因があります。

 「好悪」の「悪」は「にくむ」(すごく嫌いだ)という意味であって、「悪い」という意味ではありません。

 4、これらの異同の根本は次の通りです。悪は正さなければならない、あるいは賠償しなければなりません。

 低いことは例えばスポーツや学業の成績のような場合を考えれば分かるように、本人が高めたいと思うか否かです。もちろんこれにも程度があって、現に学業成績では及第点以上なら進級できるが、及第点に達しないと「悪」と同じで、進級できない(罰せられる)。

 しかしその場合でもその「罰」は「悪」の場合の「刑罰」のようなものとは違います。

 好悪は趣味の問題です。
 牧野「善悪と高低」(『ヘーゲルの修業』に所収)を参照。

 5、性善説と性悪説については、ヘーゲルはキリスト教の性悪説の方が仏教などの性善説より「高い」と言っています。

 キリスト教の性悪説は旧約聖書のアダムとイヴの神話に譬え話として語られているのですが、それの現実的な意味についてはキリスト教世界でも必ずしも深められていないようです。

 ヘーゲルの理解については牧野「子供は正直」(『生活のなかの哲学』に所収)に説明があります。

 この問題はあまり注目されていませんが、マルクス系の社会主義思想と運動の理論上の根本的な欠陥はこの問題の無自覚にあり、性善説に立つフランス社会主義と性悪説に立つドイツ古典哲学とをただちに無媒介に統一できると思い込み、そうしたつもりになっていたことにあると思います。

 6、価値判断は客観的か主観的かの議論は又、存在と価値、あるいは存在と当為、 Sei n と Sollen の問題として捉えられることが多いです。

 これは哲学の歴史と共に古いようだが、その歴史については『哲学のすすめ』(筑摩書房)のなかの「存在と価値」(橋本峰雄氏執筆)などがよくまとめているのではなかろうか。

 特に言いたいことは、マルクスの唯物史観は価値判断の客観性の立場を社会観の場面へと拡げて完成させたものだということでする。
 牧野「価値判断は主観的か」(『生活のなかの哲学』に所収)を参照。

   参考

 (1) 一般的に言うと悪の起源は神秘の中にある。即ち、自由の思弁的性格の中に、意志がその自然状態から抜け出てその自然状態に対して内的になる必然性の思弁的性格の中にある。
 (ヘ-ゲル『法の哲学』第139 節への注釈)

 (2) 「悪い」及び「真実でない」とは、事物の本性あるいは事物の概念と事物の存在とが矛盾していることである。
 (ヘ-ゲル『哲学の百科事典』第24節への付録)

 (3) 他者、否定的なもの、矛盾、分裂は、精神の本性に属する。この分裂の中には苦痛の可能性が含まれている。(略)悪(現実的・自覚的に存在する無限な精神〔人間〕における否定的なもの)もまた、苦痛と同様に、外から精神に加えられるものではない。そうではなく、悪とは自己の個別性の先端に立っている精神以外の何物でもない。
 (ヘ-ゲル『哲学の百科事典』第 382節への付録)

 (4) ヘ-ゲルにあっては、悪とは、歴史的発展をつき動かす力が現れる形式である。しかも、そこには次のような二つの意味がある。即ち、第1に、新しい進歩はどれも必然的に、神聖なものに対する犯罪として、死滅しつつある古い状態ではあるが習慣によって神聖なものとされている状態に対する反逆として登場する。

 第2に、階級対立が現れてからは、歴史的発展の梃子になったものはまさに利欲や支配欲といった人間の悪しき情熱であって、封建主義やフルジョアジ-の歴史がその絶え間無い優れた例である。
 (エンゲルス『フォイエルバッハ論』第3章)
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