マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ご意見への回答

2019年01月07日 | 読者へ
     ご意見への回答

 最近いただいたコメントに回答します。

1,尾野豊さんのコメント、世論(よろん)か世論(せろん)か

先日は『小論理学』お送りいただきありがとうございました。
 時間がとれないので(と言うと、牧野さんに「やる気がない」「能力がないんだ」と言われそうですが)なかなか進みませんが、とりあえず全文コンピュータに取り入れ、今は索引を手がかりに『ヘーゲル哲学辞典(仮)』めいたものを作っているところです(まだ『え』の段階ですが・・・) いつか勉強の報告でもできればいいですね。

 さて、高校時代(昭和四〇年後半)に『世論』を「せろん」と読むと、皆おかしがるんですね。「よろん」には『輿論』という字があるではないか!といっても、誰も聞き入れちゃあくれませんでした。テレビでニュースを聴いてても「よろん」という言葉は出てきても「せろん」は出てきません。もう死に絶えたのか、と思っていました。
 「市場(しじょう)か市場(いちば)か」を見て、ちょっと辞書でも引いてみようかと思ったら、まだちゃんと載っていました。

せろん(世論)
 世間一般の論。せいろん。→輿論(よろん)。(広辞苑第6版)
 ある社会の問題について世間の人々の持っている意見。よろん。せいろん。「―を反映させる」「―の動向」。「輿論(よろん)」の書き換えとして用いられ、「よろん」とも読まれる。→輿論(大辞泉第2版)
 世間の多くの人の意見。よろん。(新明解第7版)

よろん(輿論・世論)
 世間一般の人が唱える論。社会大衆に共通な意見。中江兆民、平民の目さまし「輿論とは輿人の論と云ふ事にて大勢の人の考と云ふも同じ事なり」。「―に訴える」。「世論」は「輿論」の代りに用いる表記。(広辞苑第6版)
 世間一般の人の考え。ある社会的問題について、多数の人々の議論による意見。せろん。「―を喚起する」「―に訴える」→せろん(世論)。当用漢字制定以前は「よろん」は「輿論」と書いた。「世論」は「せろん・せいろん」と読んだ。「輿論」は人々の議論または議論に基づいた意見、「世論(せろん)」は世間一般の感情または国民の感情から出た意見という意味合いの違いがある。(大辞泉第2版)
 〔「輿」は、衆の意〕それぞれの問題についての世間の人の考え。「輿論が高まる(落ち着く・割れる・沸騰する)」。当用漢字制定以後は、この意味で「世論」と書き、「せろん」と言うことが多い。(新明解第7版)

 岩波書店のホーム・ページで検索すると、
  「せろん」→岩本裕著『世論調査とは何だろうか』
  「よろん」→リップマン著『世論』が出てきました。

 大地震を「だいじしん」と読むようになったのは、チャールトン・ヘストンの1974年の映画『大地震』からではないでしょうか。(宣がすごかった)

 ★ 牧野の考え

 「世論・輿論」については、『明鏡』にこう書いてあります。
── 世間一般の人々の考えや意見。Public opinionの訳語。「輿」は「もろもろ」「みんな」の意。
〈表記〉「世論」は「輿論」の言い換え語として採用された「世論(せろん)」が「世論(よろん)」と誤読され、一般化したもの。「世論」の場合は「よろん」を避けて、「せろん」と読む人も多い。(引用終わり)

 この説明で好いと思いますが。
 私は、「与論」は多数者の考えで、「世論」は客観的に皆の意見という意味だと「も」思っていました。だから「与論調査」とは言わない。更に、ここでは「与論」は「輿論」の代わりとして、「輿論」より多く使われる(と、思います)という説明があっても好かったかな。
 全体として、『明鏡』は説明があって、役立つと思います。が、「募金」の説明の中で、「寄付金などを集める事。また、その金」という解説に続いて、「俗」として、「金を寄付すること。また、その金」と解説した後に、「難民救済のために募金した」という例文を掲げて、「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」と説明しているのは賛成できません。
 先ず第1に、「拠金」と言うべきところで「募金」という正反対の語を使っている」と書くべきでしょう。「拠金」という語を出すべきだと思うのです。
 また、根拠の怪しい「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」などという「弁護論」を持ち出すに至っては最低です。
 これは日本人の言語感覚が鈍ってきていることを示す典型的な例だと思います。はっきりと「『拠金』と言わなければなりません」と書くべきでした。世間に迎合するのは学者ではないと思います。
 逆に、「拠金」の項には、「『拠金』の意味で『募金』と言う人が増えています」という事実の指摘がなく、「これは困った現象です」という批評もありません。
 本当に、まともな辞書がなくて困ります。

2、弁証法的発想について、山下 肇

 ブロガーの問題意識は貴重で、重要とは思いますが、その根底の言語観に誤りがある点が一番の問題です。

 ソシュール、カント的な不可知論に基づく言語道具観に依拠し、いまだにパヴロフ反射理論で言語を捉えようとするのは非科学的というしかありません。

 あれかこれかという非弁証法的な発想を開陳されており、本来はあれもこれもの弁証法的発想によるべきものです。

 デジタル大辞泉の解説

いち‐ば【市場/市▽庭】

1 一定の商品を大量に卸売りする所。「魚―」「青物―」
2 小売店が集まって常設の設備の中で、食料品や日用品を売る所。マーケット。「公設―」

し‐じょう〔‐ヂヤウ〕【市場】

 1 売り手と買い手とが特定の商品や証券などを取引する場所。中央卸売市場・証券取引所(金融商品取引所)・商品取引所など。マーケット。
 2 財貨・サービスが売買される場についての抽象的な概念。国内市場・労働市場・金融市場など。マーケット。
 3 商品の販路。マーケット。「市場開発」

 のように使い分けられており、話者がどのように認識するかで使い分けられているもので、対象と直結し、あれかこれかと排他的な発想になるところにその言語観の限界、誤りが露呈しています。

 一方/他方も、話者がこれに対し一方と捉えるか、一方/他方と捉えるかの認識のあり方の問題です。これを、話者の認識の移行を無視し表現と規範を直結しあれかこれかという二者択一の形式主義的発想を開陳しています。

 これでは、地下のヘーゲルも顔をしかめるしかありません。

 ★ 牧野の考え

 私が言語に関する記事を書くと、時枝・三浦つとむ系統の言語論に心酔しているらしい人から必ず「批判」が来ます。
 第1には、かつては匿名での批判でしたので、「こちらは実名で発言しているのだから、批判するなら自分も実名を出せ」と言った(らしい)と記憶しています。そのため今回のように、実名を装って仮名で批判するようになりました。
 山下肇という人は東大のドイツ語の教授だった人が一人いますが(この人は少し知っています)、それ以外にはアマゾンを見ても、ヤフーで検索しても、何も出てきません。たとえこれが実名だったとしても、本の1冊も出していない人に私を批判する資格はないと思います。
 日本は民主主義国家ですから、発言の「自由」=権利はありますが、社会的な発言では、「権利」のほかに「資格」が必要です。私の文法論を批判するならば、『関口ドイツ文法』
と同等かそれ以上の文法書を公刊していなければなりません。しかるにそういう人はいません。
 山下さんはカントだとかソシュールだとか弁証法だとか、言葉だけを使っていますが、ヘーゲルは原典で研究した形跡はなく、エンゲルスの言葉を表面的に繰り返しています。このような批判が本当に私に通ずるとでも思っているのでしょうか。親の顔が見たいです。「もうそういう歳ではない」と言うならば、一度精神科の医者に相談してみるのが適当だと思います。
 時枝・三浦の信奉者は、他者を批判する前に、先ず「包括的な日本語文法の本」を出しなさい。それまでは、私はこれらの人を相手にしませんので、ご承知おき下さい。 


3、「先生を選べ」に学ぶ。いんきょやの10ちゃん(桜沢 彰)

 牧野先生、私のような者に目を止めてくださりありがとうございます。以下の文は私のブログに載せているものです。できますれば、先生の批評をいただきたく、お願い申し上げます。以下、敬称略。

 牧野は、勉強とは何かと問い始める。普通は学問だろう。勉強と研究を分けたところが重要な点だと思う。その同一性と差異を挙げてゆき、勉強とは創造的継承であると結論する。
 そして勉強と研究の同一性である創造的性格から「自分の問題意識を大切にせよ」と言う最重要な当為を導き出す。
 問題意識とは何かが問題であると思う。出発点は「~が面白そうだ」と言う程度の漠然とした直接的なものではないかと思う。それを追求してゆけば、そこに客観性が現れて、「自分の追求している問題に関する過去の最高の成果を学ぶ」という点に到達する。
 そこで先生について学ぶことになるのだが、牧野はここで真理と先生と生徒からなる三項関係の図を提示する。この図は実に的確でここに牧野の研究姿勢が凝縮されていると思う。生徒から見ると先生を介して真理と関係するのと、直接関係するのと二つの線がある。これによって生徒は、「私は自分の真理に到達するために、自ら先生を選び、勉強するのだ」と考えることができる。自分が自分に与えた規定態の中で自由であるということだと思う。
 またこの生徒は、真の友人や真の芸術のように実在と概念が一致しているという意味でそれ自体が真理なのではないか。
  私はまず生徒の概念に到達し、労苦を払わねばならない。私の問題意識は何かと反省してみると、もやもやしてすぐには出てこない。では、「生活の中の哲学」に感銘を受けたのはなぜか。単にわかりやすいからではない。哲学の訓練を積んだ知性が、日常的ななじみ深い意識にむかい、明晰に解き明かすのを見るからだ。しかしそのような人はたぶん、他にもいると思う。牧野だけにあるのは、純粋に哲学知を追求してゆけば必然的にそこに至るという道筋だと思う。そこが、「頭の良い人たちのおしゃべり」と生活の中の哲学の違いだと思う。やはり、まずやらなければならぬのは本を読み勉強し、哲学知を自家薬籠中の物にすることだと思う。

 ★ 牧野の考え

 もう少し自己紹介をして下さらなくては、返事が出来ません。ご自分のブログを持っているようですので、その名称を教えて下さい。「桜沢 彰」で検索しても、「いんきょやの10ちゃん」で検索しても分かりませんでした。
 私の考えを理解しようとして下さるのはありがたいことですが、あまり賛成できません。桜沢さんは何らかの意味で「先生」みたいな仕事をしてきたのではないでしょうか。そこで経験した問題を出して下さい。応用問題こそが本当の問題だと思います。
 『天タマ』を読んで下されば、例えば「先生と生徒は対等か」という問題で、二十歳の看護学生がどれだけ自分の経験に引きつけて考えているか、分かるだろうと思います。このように考えてみて下さいませんか。
 あるいは、お子さんが、「国語の授業で、先生の解釈に反対したが、先生は聞いてくれなかった」とか、家で訴えたとかでもいいです。こういう問題は中学などでは大抵起きているはずですが、これを認識論的に正しく処理するにはどうしたら好いか、などは立派な哲学的問題です。誰も答えていないし、問題にしてさえいませんが。

 最近、伊坂青司とかいう神奈川大学の教授がヘーゲルの「歴史哲学」を最新編集版に基づいて訳して、出しました。『世界史の哲学講義』(講談社学術文庫)です。この原書には先ず、例によって、長ったらしい「序論」があります。「例によって」と書きましたが、皆さんはこれがヘーゲルのやり方だと言うことに気付いているでしょうか。ではなぜヘーゲルはこういう長い「序論」をほとんど必ず前に置くのでしょうか。その理由を考えたことがありますか。これが哲学的な問題なのです。
 しかるに、この本の訳者の伊坂さんはこれを問題にしていません。気付いていません。ですから、当然、その内容が、「論理学以外の学問は論理学の応用であり、応用論理学だ」というヘーゲルの考え(『小論理学』第二四節への付録2)を実行した物であること(「理論と実践の統一」)に気付いておらず、従ってその「応用」では元の理論がどのように具体化されて適用されているかを検討していません。
 そこで問題になっていることは、認識には三段階があるということで、それは経験的認識、反省的認識、理性的認識の三つであるということです(同、第二四節への付録3)。歴史の研究でもこの三段階があると言って、それを説明しているのです。もちろん、個別的対象に適用する場合の微調整にも言及しています。
 それなのに、これに気付いていない伊坂さんは、こういう問題に当然、言及していません。そして、一番悪い事は、認識にこの三段階があるとするならば、翻訳にもこの三段階があるのだろうか、それぞれはどいう翻訳に当たるのだろうか、自分の翻訳はどの段階の翻訳だろうか、という自己反省が全然ないのです。自己反省のためではないとしたら、何のために哲学書を読んだのでしょうか。
 伊坂さんだけではありません。同じく最近出ました熊野純彦訳『精神現象学』(ちくま学芸文庫)でも同じです。ここでは当然考えるべき「なぜあれ程長い『序言』と、そのほかに更に、こちらは大して長くはありませんが、『序論』を書いたのか」という問題が考えられていません。
 熊野さんもやはり翻訳における経験的翻訳と反省的翻訳と理性的翻訳とは、それぞれ、どういう翻訳だろうか、自分の翻訳はどれに当たるのだろうか、という自己反省をしていません。何の理由の説明もなく「フランス語訳を一番参考にした」と言っているだけです。学者たる者、何かを言うなら理由を付けて言わなければならない、ということすら知らないようです。
 これでは哲学教授の非哲学的翻訳と言わざるをえません。私見を言っておきますと、熊野訳は、内容的には「経験的認識段階の翻訳」です。与えられたドイツ語をそのまま訳しただけですから。まあ、誤訳だらけの樫山訳や長谷川訳よりはいいかな、という程度でしょう。
 金子訳は文体が古いので、敬遠されていますが、内容的には「反省的認識段階の翻訳」です。与えられた原文の歴史的背景へと反省しているからです。学ぶ点があります。

 最近思っていることを正直に書きました。
 現在、『フォイエルバッハ論』の訳と評注を、相変わらず書き続けています。牛歩ですから、もう少し時間がかかるでしょう。
 衰えたとはいえ、まだ気持ちは若く持っていたいと思っています。音痴の私ではありますが、好きな音楽はあります。それはモーツアルトの「ディヴェルティメント第136番」です。この曲はNHKの「名曲アルバム」の解説によりますと、初めてイタリアへ旅行して、そこで大歓迎されて、優秀な先生の指導も受けて、前途洋々で、未来への希望に満ち満ちたモーツアルトが作曲したのだそうです。本当に明るくて楽しさ満杯の曲ですから、朝、これを聞くと、私も歳を忘れて、青春の「やる気」に満たされます(笑)。
 以上、活動報告に替えます。

PS
 これを書いて推敲している間にお二人の方から計3個の充実したコメントを頂きました。ありがとうございます。後ほど、お返事するつもりです。私はなにしろ返事が遅いのです。済みません。

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1 コメント

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ありがとうございました。 (いんきょやの10ちゃん)
2019-01-08 08:16:59
牧野先生、私の投稿にていねいな批評をくださり大変ありがとうございます。感激しております。私のブログを探してくださったとのこと、ありがとうございます。ブログは最近始めたばかりで、各社の検索エンジンにはかからないようです。YAHOO japanのホームページから、左側の「主なサービス」欄の下から三番目の「ブログ」の項をクリックしていただくと、ヤフーブログの検索画面になります。検索欄に ha729ri と入れていただくと私のブログに到達いたします。
自己紹介がないというのは、たしかにそのとおりで、なぜ牧野先生の哲学に興味を持つようになったのかは私にとって、大事な問題ですので、よく反省して、記事にまとめようと思っております。
また、自分の体験に引き寄せて「先生を選べ」について考えてくれ、というのもその通りだと思います。こちらの方は、思い当たるところがありますので、文章にまとめて再度投稿させていただきたいと存じます。ではまた。
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