マキペディア(発行人・牧野紀之)

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エンゲルスの「サルの人間化」論文の意義

2016年11月25日 | ア行

 この「サルの人間化における労働の役割」論文についてはこれまでにもいくつかの論文で触れてきました。主たるものは、『ヘーゲルの目的論』所収の翻訳「サルの人間化における労働の役割」及び同「伊藤嘉昭氏の『原典解説』を使ってみて」、第3に、『労働と社会』(特に85~8頁)です。

 最近またこのエンゲルス論文の意義を考え直しましたので、論じてみます。

 核心は、人間と動物の違いについてのまとめだと思います。それが、いくつかの段階を踏んで、急所へと絞られてゆくのです。第1段階は、「動物の自然への働きかけは無意識的で人間のそれは意識的である」ということです。これを第1命題としましょう。

 しかし、これは植物ならともかく、動物となると「計画的・意識的」行動が出てくると認めて、撤回して第2の命題が出てきます。それが即ち、有名な次の文です。まずドイツ語の原文を掲げます。

 独原文・Kurz, das Tier benutzt die äussere Natur bloss und bringt Aenderungen in ihr einfach durch seine Anwesenheit zustande; der Mensch macht sie durch seine Aenderungen seinen Zwecken dienstbar, beherrscht sie. (要するに、動物は外的自然を利用するだけである、自然界に変化をもたらすと言ってもそれは「そこに居ることで」に過ぎない。人間は〔動物と違って〕先ず自分自身を変えてから自然に立ち向かうことで、自然をして人間の役に立つように作り変える、つまり自然を支配するのである。牧野訳)

 この文は少しは知られていますが、その重要性に比しては知られておらず、ましてほとんど研究されていません。現に『原典解説・サルが人間になるにあたっての労働の役割』(青木書店、1967年)を書いた伊藤嘉昭氏ですら、この命題の説明を「利用」と「支配」という言葉の対置で捉えて事足れりとしているほどです。この命題の意味を知るには、更に一歩つっこんで、利用と支配とはどう違うのかと問い、その違いをもたらすものは何かと考えてみることです。すると、それは durch seine Anwesenheit と durch seine Aenderungen であることに想到します。すると、このAnwenheitとはどういうことか、人間の Aenderungen とはどういうことかと考えることになり、従来の訳では何の役にも立たないことが分かるのです。

 これまでの訳を見ると、durch seine Anwenheit の方は、どれも、「その存在によって」といったような直訳をしていますから、別に検討しません。問題はdurch seine Aenderungen です。入手した訳を検討した結果を報告します。

A・誤訳

訳例1・要するに、動物は外部の自然を単に利用し、そして単純に自分の存在することによって自然の中に諸変化を起こさせたまでである。人間は自分のもたらす諸変化によって自然を自分の諸目的に役立つようになし、自然を支配する。(田辺振太郎訳、岩波文庫『自然の弁証法』上巻、1956年、254頁)

訳例2・要するに、動物は外的自然を利用するだけであり、もっぱらその存在によってのみ外的自然に変化をもたらすのであるが、人間はみずから変化をもたらすことによって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配するのである。(国民文庫版『猿が人間になるについての労働の役割』1965年、20頁)

感想・訳例2は困って訳例1を見て訳したのではないでしょうか。「変化をもたらす」と言いますが「どこに」その変化をもたらすのでしょうか。これが分かっていないので、曖昧な訳になるのです。
と言うより、場面は、労働で対象に直接かかわって労働する「前」の事を言っているのだというのが分かっていないようです。ですから、「諸変化をもたらす」などと、労働そのもの及びその結果と取れる表現を使うのです。durchというのは「そこを通って」ということです。「そこを通って」対象に取り組むことになる、という事です。

B・直訳しただけのもの

訳例3・要するに、動物は単に外的自然を利用し、且つ単に自らの存在によって自然の中に諸変化を生ぜしめるにすぎなかった。之にひきかへ、人間はその変化によって自然を自己の目的に役立たしめ、これを支配する。(加藤正・加古祐二郎訳、岩波文庫上巻、1929年、181頁)
感想・加藤正という人はとても優秀な人だと思っていますが、ここは分からなかったようです。直訳で逃げました。

訳例4・要するに、動物は外部の自然を利用し、その存在によって自然に変化をおこさせるだけであるが、人間はその変化によって自然を人間の目的に奉仕させ、自然を支配するのである。(伊藤嘉昭の前掲書、1967年、128頁)
感想・「原典解説」を書く人がこれでは困ります。

 訳例5・英訳・In short, the animal merely uses external natur, and brings about changes in it simply by his presence; man by his changes makes natur serve his ends, masters it.
 感想・訳例4も5も直訳です。最後の「自然を支配する」はその前の「自然をして人間の役に立つようにする」を言い換えただけであり、従って「即ち」と入れても好いくらいの所だということが分かっているのでしょうか。疑問です。

C・自信のない訳

訳例6・要するに、動物は単に外的自然を利用し、たんにその存在によってだけ外的自然に変化をもたらすが、人間はみずからその変化によって自然を彼の目的に利用し、自然を支配するのである。(寺沢恒信・菅原仰訳、国民文庫『自然弁証法』第1分冊、1953年、223頁)
感想・訳例3を見て訳したのか、不明ですが、「みずから」をなぜ入れたのでしょうか。却って訳例3よりも悪くなったと思います。「みずから」はどの語にどう掛かるのか、不明確です。自信がないのでしょう。

訳例7・要するに、動物は外的自然を利用して、たんにその場に居あわせることによってのみ、外的自然に変化をもたらすにすぎないが、人間はみずからその変革によって自然を彼の目的に利用し、自然を支配するのである。(許萬元『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店、1968年、66頁)
感想・恩師である寺沢の訳(訳例6)を見て訳したようです。Anwesenheitを「その場に居あわせること」としたのは感心します。が、肝心の所は手本と同じです。「変化」を「変革」と代えていますが、これでは「人間自身の自己変革」より「対象変革」を考えていたのかな、と思ってしまいます。その点で後退さえしているかもしれません。いずれにせよ、余計な「みずから」を入れたのはいただけません。

D・正しく訳した例

訳例8・要するに、動物はただ外部の自然を利用するだけであり、ただ自分がそこにいることによって自然のなかにいろいろな変化を引き起こすだけである。人間は自分のいろいろな変化によって自然を自分の目的に役立つものにし、自然を支配する。(岡崎次郎訳。河出書房新社刊『エンゲルス』(世界の大思想の1冊)。2005年)
感想・これは一応「正しい訳」と認めて好いでしょう。「自分のいろいろな変化によって」ではイマイチ不正確ですが(「まず自分の方を色々と変えてから」くらいにすれば、もっと良かった)、他の訳よりははるかに良い訳だと思います。

 訳例9・仏訳・Bref, l’animal utilise seulement la nature extérieure et provoque en elle des modifications par sa seule présence; par les changements qu’il y apporte, l’homme l’amène à servir à ses fins, il la domine.
 感想・この訳が最高でしょう。フランス語版『マルエン三巻選集』にある訳です。「人間が〔y=自然に立ち向かう際にそこへ〕持ってゆく諸変化によって〔即ち、予め自分を変えてから対象に立ち向かうことで〕」です。これがきちんと分かっていると推察できます。

以上の検討で、このdurch seine Aenderungen がこれまでいかに研究されていないかが分かりました。肝心な点はこの「諸変化」とは労働対象を労働の結果において変化させたことではなく、労働する前に「人間自身が自分を変化させたこと」なのです。

では、更に具体的には、この「人間が自分自身の中に引き起こす諸変化」とはどのような変化でしょうか。これを初めて研究したのが拙稿「労働と社会」でした。そこに書いたことは、要するに、この「諸変化とは、道具の改良とか、新しい機械の製作とかだけではなく、技術や技能の向上も含み、更に労働組織の在り方の適正化まで入っているのです。エンゲルスは会社の経営に関与していましたし、軍事技術などにも4詳しかったようですから、こういう事まで分かっていたのだと思います。

このように広く理解すると、許萬元が「労働過程における手段(道具)の作製こそ、人間実践の優越性を現実的に保障するものである」(前掲書62頁)と言うのは狭すぎる事が分かります。喫茶店で「実践的認識論」について談論風発するだけの講壇学者の正体が好く分かる言葉です。

更にもう1つ。これはマルクスの「フォイエルバッハに関する11のテーゼ」(いわゆる「フォイエルバッハ・テーゼ」の「第6」にある「人間の現実的本質は社会的関係の総和である」の理解と関係してきます。この命題も無思慮に使われています。なぜ「無思慮」と言うかといいますと、第1に、マルクスには人間の定義として、これの他に「労働する動物」という定義と「類的存在(Gattungswesen)」という定義とがあるのに、これらの3つの定義の関係を考えていないからです(私見は『労働と社会』の171頁以下にまとめてあります)。第2に、この「社会的諸関係の総和」とは言葉としてどういう意味か、従って我々が人間研究でどういう事に気を付けなければならないか、が考察されていないからです。
 これは先に指摘しましたdurch seine Aenderungenの中の「労働組織の在り方」がまず入ります。しかし、これを「工場内分業」と捉え直しますと、分業の全体像を確認しておいた方が好いでしょう。即ち、分業は大きく三大別できます。普遍的分業(農業、工業、商業、等々への分業)、特殊的分業(工業内部の分業、農業内部の分業、商業内部の分業、等々)、個別的分業(工場内部の分業)です。前二者は「社会内分業」とまとめることが出来ます。最後のものが「工場内分業」です。ですから、これらの「分業」のどこかに「変化」が起きれば、人間による自然支配にも変化が起きるのです。

 要するに、エンゲルスの先の定式化はこのように広い視野を持ったものだったのです。かのドイツ語を正しく近いするか否かはこういう社会観と関係していたのです。ついでに付言しておきますと、ヘーゲルは『法の哲学』第198節で分業の根本的な諸問題について詳しく指摘しています。

 最後に、最近知った例で考えてみます。日本のラグビーチームは、昨年(2015年)のワールド杯で強豪南アフリカチームにタイムアップ直前に劇的な逆転トライを決めて勝利しました。日本中が大興奮しました。この日本チームのメンタル・トレーナーを務めていた荒木香織(園田学園女子大学教授)へのインタビュー記事が雑誌『ラジオ深夜便』2016年10月号に載っていました。その中に次の言葉がありました。

 ──誰でも不安なときは、「どうしよう」と思い詰めてしまいます。そこから抜け出すには何が不安なのかを明確にして、自分にできる対策を立てることが必要です。そしてそれに取り組めば不安はなくなる。日本代表メンバーでも一般人でも、その対処法は同じです。
 試合相手との体格の違いも試合展開も、変えることはできない。コントロールできるのは心構えや準備の仕方、試合中の判断に対する準備。つまり自分の内にある事柄なのです。──

 最後の「コントロールできるのは~自分の内にある事柄」というのが面白かったです。人間は自然を支配するにはdurch seine Aenderungenだと言ったエンゲルスの言葉と同じだったからです。翻って考えるに、これはもっと広く言える事でしょう。勝負事でも政治運動でも自分が勝つには「まず自分を変えて、よりよくして試合に臨む」しかないわけです。人生全体をとって考えても同じでしょう。

 私の好きな言葉は「修身斉家治国平天下」です。これを応用すれば、「真のオルグは自分を高めることである」となります。逆に、「自分を高めないでするオルグはお節介の別名である」となります。お節介オルグを沢山してきたわが身を反省することしきりです。(2016年11月24日)
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