マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

2006年12月02日 | ア行
   参考

 1、自由の具体的な概念--自己を制限することの中で尚自己の元にとどまること、その感覚的な実例は友情と愛情
 (ヘ-ゲル『法の哲学』第7節への付録)

 2、神〔の本性〕を感覚的に捉えたものが「永遠の愛」である。愛とは、他者を自己自身として持つということである。
 (ヘ-ゲル『歴史における理性』)

 3、愛の中では、個人は他者を意識することによって自己を意識する。個人は自己を外化するが、この〔愛しあっている二人の〕相互的な外化の中では、個人は自己と他者を持ち、しかも他者と一体となった自分を獲得するのである。
 (ヘ-ゲル『歴史における理性』)

 4、愛は客観的にも主観的にも存在の基準であり、真理と現実の基準である。愛の無い所には真理も無い。そして、何物かを愛する人だけが何者かである。何者でもないこととと何も愛さないこととは同じである。人が多くのものであればあるだけ、その人はそれだけ多くの物事を愛しているのであり、逆もまたそうである。
 (フォイエルバッハ『将来の哲学』第35節)

5、愛、それは人間に初めて自分の外にある対象的世界を本当に信じることを教えるものであり、人間を対象にするだけでなく、対象を人間にしさえするものである。(マルクス『全集』第2卷)

 6、この西洋と東洋とにおける他者と自己の関連の考え方の違いについて、その本質を学問的に決定することは私などの任ではない。

 しかし私は日本人として西洋の文学や思想に慣れ親しんだので、その違いを考える機会を多く持った。

 私は漠然と、西洋の考え方では、他者との組み合わせの関係が安定した時に心の平安を見出す傾向が強いこと、東洋の考え方では、他者との全き平等の結びつきについて何かの躇(ためら)いが残されていることを、その差異として感じている。

 我々日本人は特に、他者に害を及ぼさない状態をもって、心の平安を得る形と考えているようである。

 「仁」とか「慈悲」という考え方には、他者を自己のように愛するというよりは、他者を自己と全く同じには愛し得ないが故に、憐れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己が抱く冷酷さを緩和する、という傾向が漂っている。

 だから私は、孔子の「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。

 他者を自己のように愛することはできない。我らの為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである、と。

 だから男女の間の接触を理想的なものたらしめようとするとき、ヨーロッパ系の愛という言葉を使うのは、我々には、躇(ためら)われるのである。

 それは「惚れること」であり、「恋すること」、「慕うこと」である。しかし愛ではない。

 性というもっとも主我的なものをも、他者への愛というものに純化させようとする心的努力の習慣がないのだ。
 (伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫)

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