マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

関口の意味形態論の例解

2018年11月22日 | ア行
     
         意味形態論の例解

 私は、関口存男(つぎお)の意味形態論について既に2回「説明」しています。1回目は『関口ドイツ語学の研究』(鶏鳴出版、1976年)でして、2回目は『関口ドイツ文法』(未知谷、2013年)の中です。しかし、読者は気付いているでしょうが、両方とも、自分でも、「これでは何も分からないな」と自覚しながら書いたものです。最近、ようやく、例解が出来なければならないと気付きました。それを実行します。

   小目次
 例解1・千一夜物語
 例解2・動詞。進行形、能動で言うか、受動で言うか
 例解3・語順
 例解4・否定疑問文への答え方
 例解5・ドイツ語の指向性と日本語の響き

例解1・千一夜物語
 金田一春彦は『日本語の特質』(NHKブックス)の183頁で次のように述べています。
 〔単数・複数の区別については〕ドイツ語なんかでも難しいのがありますね。たとえば『千夜一夜』をドイツ語で "tausend und eine Nacht" と言うそうです。Nachtというのは単数です。元来「千一の夜」ですから複数にすべきですが、tausendの次に「一つの」というeineがあるので、それに引かれて単数のかたちを使う。このへんはどうも論理的ではないように思います。(引用終わり)
 残念ながら、この説はいただけません。そもそも金田一は「自然現象に不合理はない」という大法則を知らないようです。自分に分からない現象を「非論理的=不合理」と決めつけるのは学者として極めて拙い態度だと思います。言語でも人工的に作られたもの、例えばエスペラント語なら、非合理という事はありえるでしょうが、ドイツ語は自然言語です。そこには非論理的なものはありません。研究者にとって説明できない現象があるとするならば、それは研究者の理解がまだ十分に進んでいないだけのことです。
 注・エスペラント語は実際には言語の本性に対する深い洞察に基づいて作られた素晴らしい言語のようです。そうでなければ、他の人工言語は生まれては消えていったのに、ただ一つエスペラント語だけが生き残って未だに隠然たる影響力を発揮し、国連の共通言語にしたらどうかという提案すらあると聞きます。

 さて、一般論はこれくらいにして、この実例をどう考えるかです。私の知る範囲では、ドイツ人でも、その他のドイツ語学者の誰でも、これを「説明」した人はいません。いや、関口存男だけは別です。関口の説明を聞く前に、まず念のために、英語及びフランス語と比較して、ドイツ語の「奇妙さ」を確認し、問題を確認しておきましょう。
 日・千一夜物語(あるいは千夜一夜)
 英・Thousand and One Nights (×Night)
 仏・Les Mille et une Nuits (×Nuit)
 独・Tausendundeine Nacht (×Nächte)

 問題は、なぜドイツ語はここで単数形を使うか、です。常識的に考えれば、金田一の言うように、複数形を使って当然の所なのに、です。
 関口は『無冠詞論』(『冠詞』第三巻、三修社)の341頁で、「これは対象を一括的に捉えるか、分解的に捉えるか、それぞれの言語の捉え方が違うだけの話である」と答えています。英語やフランス語は、他の多くの言語も多分そうでしょうが、一括的に捉えるから複数形にしますが、ドイツ語は(多分、ロシア語も)分解的に捉えるから、こうなるのだ、ということです。つまり、ドイツ語は千一夜(千一回の夜)をいったん千回の夜と一回の夜に分けた上で、次に合わせて表現する言語だということです。そして、その「合わせた結果の最後の数が「一」だから、次の名詞は単数形にする、ということです。

関口の説明をそのまま引きます。
──英語ではmy und your fatherなどという独と同じ言い方のほかに、独には見られないmy und your fathersと複数扱いが盛んに行われる。これは分解しないで一括して考える証拠であり、ここでも「分割」と「一括」との2原理が対立して外形を左右している現象が観察される。
 例えば、air-, car- and seasickness are the same thing(飛行機酔いと車酔いと船酔いとは同じものである)などと言うかと思うと、the American and Japanese goverments〔米日両政府〕とかthe foreign, defence and finance ministers〔外務、防衛、財務大臣〕などは複数形で見かけることが「多い」。
 ドイツ語の考え方がすべて分解的であり、英が「主として」一括的であるということは、例えば「2時間半」を英はtwo and a half hoursと言うに反し、独はzwei und eine halbe Stundeと言うのでも分かる。但しzweieinhalb Stundenないしdrittehalb Stundenにおいては、数詞が1語をなすから、もちろん一括的取り扱いをする。(引用終わり)

 残念ながら、フランス語への言及もロシア語の検討もありませんが、思うに、英語がこの点でかなり中途半端(牧野が引用符号を付けた「主として」とか「多い」に注意)なのは、英語は比較級の形などからも分かりますように、ドイツ語から分かれて独立した言語ですが、フランス語の影響も強く受けているからではないでしょうか。

 さて、ここで意味形態とは何かをまとめましょう。
 人間は言語に使って対象を捉え、表現する場合、対象を「直接」「そのままの姿で」捉え表現するのではないということです。これが大前提です。これを知らないと、金田一のように「対象が複数なのに単数形を使うとは論理的でない」などという愚論が出てくるのです。
 そうではなくて、人間はそれぞれの言語に定式化されている「考え方」を通して、対象に接し、対象を捉え、そして表現するのです。この「考え方」を関口は「意味形態」と呼んだのです。氏のよく使う言い方を引きますと、「水は器の方円にしたがう」のです。水そのものには形はないのです。それを入れる器の形によって丸くもなれば四角くもなる、という事です。
 以上で終わりなのですが、もう少し蛇足を加えます。

例解2・進行形。能動か受動か
 我々は外国語としては先ず英語を学びますから、そして英語の動詞には進行形という形がありますから、「~しつつある」という状態を意識するようになります。そして、無意識の内に、「外国語はどの外国語でも進行形という形を持っているものなのだ」と思い込みます。しかし、大学に進んで、第二外国語を学びますと、ドイツ語にもフランス語にも進行形というのはありませんので、「おやっ?」と思うのです。しかし、この疑念はすぐに忘れ去られます。それほど文法学に興味を持っている学生はほとんどいないからです。
 しかし、この進行形を持っているかいないかの違いも意味形態論で説明できます。それはそれぞれの言語の対象把握の方式の違いでしかありません。

 動詞との関係で、日本語と西洋語との違いを、形というより使い方の違いの面で見てみますと、私は、「西洋語は受動表現を好むが、日本語は能動表現を好む」という事実を指摘したいと思います。
 ヘーゲルの有名な言葉に、
 Das Bekannte überhaupt ist darum, weil es bekannt ist, nicht erkannt.(ズーアカンプ版『全集』第3巻35頁)
 というのがあります。直訳すれば「一般的に言って、知られている事は、知られているからといって、それだけで、認識されている訳ではない」くらいでしょう。
 英訳は2つありますが、Baillieの訳は、What is “familiiary known” is not properly known, just for the reason that it is “familiar”です。
 Millerの訳は Quite generally, the familiar, just because it is familiar, is not cognitively understoodです。
 金子武蔵は「一般に熟知せられているものは、熟知せられているからといって認識せられているわけではない」と訳しています。
 私もかつては受動形で訳していましたが、最近は「或る事を知っているというだけでは、認識していることにはならない」と訳しました。要するに「知っていることと認識している事とは別」ということです。皆さんはどう思いますか。能動文の方が日本語らしいと思いませんか。
 この彼我の違いも意味形態論で説明できます。対象自身は能動でも受動でもないのです。その言語が能動で捉えるか、受動で捉えるかの違いでしかないのです。

例解3・語順
 語順も習慣で決まっています。例えば、イエス・キリストがその好例です。日本語は「イエス・キリスト」という語順で言いますが、これは多分、英語のJesus Christをそのままの語順で訳したのでしょう。ドイツ語ではJesus Chistusで、フランス語では Jesu Christ
です。
 ここで大切なのは名前と評辞の順序です。英語でも同じでしょうが、ドイツ語では例えばガミガミうるさい人がいたら、Robert der Teufel (鬼のロバート)と言います。「仏のロバート」は、見たことがありませんが、多分、Robert der Engelでしょう。
 ともかく、Jesus Christを訳す時、「キリスト・イエス」と日本語文法として正しく訳した人もいたようですが、多くの場合、「イエス・キリスト」と間違った語順で訳してしまい、それが一般化したのです。そのため、「イエス・キリスト」全体で或る人の名前だと思い込むような誤解が生じたのです。

 もう少し大きな語順の問題を見てみますと、「交叉配語か平行配語か」の問題があります。 一般論を言うより、実例で説明した方が早いでしょう。関口はこう言っています。
──対比した句を並べるのに漢文口調は(日本語も同じ)必ず平行配語を用いて、……「家貧にして孝子出で、国乱れて忠臣顕はる」とかいったように、語順を厳密に平行させるのが配語法として美しいとされている。西洋人の昔から好む交叉配語(Chiasmus)、例えば
Die Kunst ist lang, und kurz ist unser Leben.〔芸術は永く、人生は短い〕 (ゲーテの『ファウスト』)とか、Das Leben ist der Güter höchstes nicht, der Übel größtes aber ist die Schuld. (シラー)〔生きていること自体が最善の事とはいえないが、最悪の事は罪である〕
というやつは、少なくとも私の知るかぎり東洋人の間には絶対に好まれないどころではない、むしろ絶対に無いのではあるまいか(定冠詞298頁)。

 私(牧野)の見つけた文例を挙げますと、「秋水には『兆民先生行状記』がある。これによって私はふだん着の兆民に親しんだ。兆民先生は夜を好まれた、夜は雅にして昼は俗也、子の生れたる時より俗なるはなく、人の死したる時より雅なるはなしとおっしゃった。」(山本夏彦『完本文語文』文春文庫)があります。

もちろん例外はあります。更に関口の言を引きます。
──日本語でも「行こうか戻ろか、戻ろか行こうか」といい、漢詩にも「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という〔交叉配語の〕句があるが、これらはそう広範に見受けられる現象でもないし、いわんや修辞・文法の1原則として堂々と振りかざす必要のあるほどの筋道とも思えない。ところが西洋語では、これが1つの原則になっており、只今の場合においてはむしろ文法上の規則と言ってもよい位である(無冠詞236頁)。
Seine Großmutter und er, er und seine Großmutter, machten für ihn die Welt aus. (お祖母さんと自分、自分とお祖母さん、これが彼にとっては全世界であった)
これも日本語と西洋語の意味形態(考え方)の違いです。対象にはどっちを取るかの基準はありません。

例解4・否定疑問文への答え方
 これは大分詳しく論じます。

 第1項 否定疑問文とその答えの原則
 否定疑問文に対する答え方は日本語と西欧語とでは逆である、だから西欧諸国から来る宣教師などはこれで戸惑うと言います。まず、それを確認しましょう。
1. 問・Haben Sie keinen Ausweis?
答・Doch, ich habe einen. 又はNein, ich habe keinen.
(「証明書はお持ちではないのですか」「いえ、持っています」又は「ええ、持っていません」)
2. 問・Gehen Sie heute abend nicht aus?
答・Doch, ich gehe aus. od. Doch, das tue ich. 又はNein, ich gehe nicht aus. od. Nein, das tue ich nicht.
(「今晩は出掛けないのですか」「いえ、出掛けます」又は「ええ、出掛けません」)
(NHKラジオドイツ語講座、2005年3 月)
3. 日・「それじゃ窮屈でしょう」「いえ、窮屈じゃありません」(漱石『こころ』)
 独・„ Sie sich unbehaglich?“ „Keineswegs.“
 英・“You seem very uncomfortable.” “Oh, no, I am not at all uncomfortable.”
用例3から判断するに、unbehaglichを使っても否定疑問文ではないようです。否定疑問文とは否定詞が単語として入っているものを言うようです。従って、ここではドイツ語ではDochという返事はないのでしょう。


 第2項 原則とは違った返事もあるようです。用例を少し挙げます。
4. „… und er kommt aus Weintal.“ „Weintal? Das ist im nächsten Kreis. Er ist nicht von hier.“ „Ja, das ist mir auch aufgefallen“, antwortet der Kommissar. ―謎の死
(「そして彼はヴァインタールの人です」「ヴァインタールですか?隣の町だ。彼はここの人じゃないんだ」「ええ、私も変だと思いました」と警部は答えた)
5. „Und was machst du denn heute an deinem Geburtstag?“ „Nichts.“ „Was, nichts!“ „Ja. nichts.“ (「今日の誕生日には何をするの」「何もしない」「えっ、何もしない?」「うん、何もしない」)(NHKラジオドイツ語講座、2005年3 月)
感想・4と5は日本語と同じだと思います。‚Nein, nichts.‘とは言わないのでしょうか。 Stimmtという返事もあるようです。
6. „Und wie heißt das Kind?“ „Amin.“ „Das ist kein deutscher Name.“ „Stimmt, der Vater kommt aus Tunesien.“
(「で、その子の名は何?」「アミンだ」「ドイツ人の名前じゃないね」「うん、父親はチュニジアの人だ」)(NHKラジオドイツ語講座、2003年04 月)
7. 日・「新聞なんか読ましちゃ不可(いけ)なかないか」「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」(漱石『こころ』)
独・„Vielleicht sollte man ihn die Zeitung gar nicht mehr lesen lassen ...“ „Ja, aber er besteht darauf.“
英・“He shouldn’t be reading the paper like that, should he?” “No, I don’t think he should either, but what can I do? He insists on being allowed to see it.”
感想・独と英では答え方が反対になる事もあるようです。
第3項 他の文への応用
否定疑問文への応えとしてのNein, Dochは他にも応用されます。
8, „Aber Phantasien hat keine Grenzen“, antwortete er. / „Doch, aber sie liegen nicht außen, sondern innen ... “ (Die unendliche Geschichte)
英・ “I thought Fantastica had no borders.” / “It has, though …”
仏・«Mais le Pays Fantastique n’a pas de frontières» objecta-t-il. / «Si, mais elles ne sont pas externes, elles sont a l'interieur. …(「でもファンタジア国には国境がないよ」と彼は答えた。「いやある。但し、外にではなくて中にあるんだ」)
感想・8は否定「疑問文」への対応ではなくて、否定「平叙文」への対応です。表現は一様ではありませんが、根本は同じだと思います。
9. „Versprecht mir: Geht nie wieder so dicht an den Fluss!“ „Nein, bestimmt nicht.“(「約束するんだよ。川にはもう2度とそんなに近づかないように」「はい、決して近づきません」)(NHKラジオドイツ語講座、1999年06 月)
 感想・これは否定「命令文」への応答です。

第4項 ジェスチャーで答える場合
 これが特に問題です。
10-1. 英原文・“I'm going to do a little reconnaissance for a few minutes, do you mind?” She shook her head and smited back. (「マジソン郡の橋」34頁)(「ちょっと見てくる。いい?」。彼女は彼の笑顔に笑顔で応えながら頷いた)
 独訳・„Ich gehe mal ein paar Minuten auf Erkundigung, wenn's Ihnen nichts ausmacht.“ Kopfschüttelnd erwiderte sie sein Lächeln. (独訳55頁) (迷惑でない?)
 仏訳・”Je vais faire un petit tour de reconnaissance quelques minutes, ça ne vous ennuie pas?” Elle avait secoué la tête et lui avait rendu son sourire.(仏訳41頁)
 感想・英語は肯定疑問文ですから、答えは当然「首を振る」です。しかし、独訳と仏訳は「それであなたに差し障りはありませんか?」と否定疑問文で訳しています。そして、その否定的な問いに対して「差し障りありません」と答える動作は「首を横に振る」こととなっています。これは原則通りです。日本語で「迷惑じゃない?」と聞かれた時、「迷惑ではない」と首を振って答える場合、横に振るだろうか、縦に振るだろうか。やはり横に振るのではあるまいか。独仏と同じように。
  10-2, „Hm“, brummte Herr K., „und jetst traust du dich nicht mehr.“ Bastian nickte. (Unendliche G. S.8)
 上田・佐藤訳・「ふーん」コレアンダー氏はうなった。「だからもういいかえすのもこわいんだな。」 / バスチャンはうなずいた。
 英訳・‘Hmm,‘ Mr C. grumbled. ‚And now you don’t dare?‘ / Bastian nodded.
 仏訳・── Hum, grogna M. K., et maintenant tu ne t’y risques plus. / Bastian secoua la tête.
 感想・これは実に面白い用例です。独と英は「否定疑問文への答え方」の原則に反して「頷いた」と言い、訳しています。つまり、これを原則通りに理解すると、「いや、まだやっている」「仕返しを続けている」という意味になりますが、実際は「もう仕返しはしなくなった」という意味です。和訳は問いの方を肯定疑問文に訳しましたから、「うなずいた」で日本語文法の原則通りです。もっとも、訳者が自覚してこう訳したのかは疑問ですが。 
 仏だけは原文には逆らって、但し原意と仏文法には忠実に「首を振った」と訳しています。と書いたのですが、これは「文法に逆らって」かどうか、私には分かりません。そもそもsecouerを辞書で引きますと、「secouer la tête(同意または疑いのしるし)」とあります。つまり、どちらにでも使えるのです。
さて、こういう日本語と同じになる独と英はあるのだそうです。アッカーマンさんに聞きました。仏はこういう場合でもinclina la tête, hocha la tête (うなずいた)とは言わないのでしょうか。

日本語を用例で考えておきます。
 11-01、池田・西田を読んだうえであの本を書いたというわけではなかったのですよね。/ 福岡・はい。その通りです。(池田善昭・福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店29頁)
 感想・これが通説通りの言い方でしょう。

 11-02、「あなたは本当にアシザワという人に会ったことはない?」/ 運ばれて来たコーヒーをよけて身を引いた彼女は無言のまま首を横に振る。/ 「でも、名前は聞いたことがある?」(黒井千次「羽と翼」189頁 
11-03、──焼そばはそれまで、富士宮名物ではなかったのですか。──とんでもない。焼そば目当ての観光客はほとんどゼロでした。(朝日、2011年11月05日)
11-04、「どうあっても、お納め願えませぬか」/ 「……」/ 上野介は、首を横に振るしかなかった。説明している暇はない。(池宮彰一郎『その日の吉良上野介』新潮文庫142頁)
感想・最後の3例は西洋と同じでしょう。

私は、否定疑問文とそれへの答え方はほとんど研究されていないのではなかろうか、と思っています。関口も全然言及していません。否定疑問文には更に、二重否定の疑問文もあります。
又、かつては、"Vater, wollt ihr nicht essen ?" "Ja, wohl," antwortete Zitterlein und rückte näher zum Tische. (理髪師1頁)(「お父さん、食べないの?」「いや、食べる」と言って、テーブルの方に動いた)という言い方もあったそうです。今ならDochだけですが。
又、ロシア語では原則的に日本語と同じだそうです。但し、後に確認の文を添えずに да, нет だけで答える時は英語のyes, noと同じに(日本語と逆に)用いるそうです(佐藤純一『ロシア語入門』日本放送出版協会、30-31頁)。
 最後に、こういう事があるから文法研究では最低でも英独仏の3カ国語を比較するようにした方が好いという事になるのです。
 
例解5・ドイツ語の指向性と日本語の響き

次の例文を見て比較して下さい。
  An droht die Glocke.(ゴーンと鐘が鳴る)
  Ab riss das Seil.(プツリと綱が切れた)
  Auf tut sich der weite Zwinger. (パッと檻が開く)
  Hin gleitet der Kahn. (スーッと小舟が滑っていく)
 以上の4例を見ますと、ドイツ語の文はいずれも分離動詞を使った文です。しかし、そ
の分離した前綴りが原則通り文末に置かれていなくて文頭に置かれています。確かに分離
動詞の前綴りは文末に置くのが原則ですが、それは原則です。言語などというものは原則
があれば例外があるものでして、この場合もその原則の例外です。そして、前綴りをこの
ように文頭に置くと(ドイツ人には)間投詞な力を持って感じられるそうです。
 右側に掲げました「訳」は本来の訳ではありません。あるいはこういう方が本当の訳だ
という考えもあると思いますが、ともかくここで独日両語を対比しましたのは、或る同じ
情景に接した時、ドイツ人はこう言い、日本人はこう言う、という対比なのです。
 そして、その対比をさらに詳しく見てみますと、ドイツ語で分離動詞の前綴りが使われ
ている所に日本語は擬音語が使われているということが分かります。

 別の例を出してみましょう。
  A・Krach! war die Tür zu.(バタンと扉が閉まった)
  B・Die Tür fiel ins Schloss.(バタンと扉が閉まった)
 この場合は実際に音が出ているのですから、ドイツ語にも「バタン」という言葉を使っ
た表現(A)があります。それももちろん使われるのですが、ドイツ語にはもう一つBの言い方もあるのです。
 これはよく分析してみるととても面白い表現でして、文字通り訳しますと「ドアが錠前
の〔穴の〕中に落ち込んだ」ということになります。もちろんドアの方が錠前の穴より大
きいですから、物理的にはそのような事はありえません。しかし、ドアが勢い良く閉まっ
てきて、それを錠前がハッシと受け止めて、ドアの動きがいっぺんに止まる、その感じが
この表現には良く出ていると思いませんか。
 実にこのドイツ語があるからこそ「なるほどこういう見方も出来るんだ」ということが
分かるのです。これが言葉を学ぶ楽しさだと思います。

 「はてしない物語」の中に次のような一節がありました。
 Plötzlich trat Stille im Saal ein, und aller Augen wandten sich nach der grossen Flügeltür, die geöffnet wurde. Herein trat Cairon, der berühmteste und sagenumwobene Meister der Heilkunst.
 英訳・Suddenly all fell silent, for the great double door had opened. In stepped Cairon, the far-famed master of the healer's art.
 牧野訳・一瞬、広間はシーンとなった。皆の眼が入口の大扉に注がれた。扉が開く。サッと入ってきたのはカイロンだった。名高いというより、すでに伝説的と言ってよいほどの医術の達人である。
 岩波訳・突然、大広間が水を打ったように静まった。全員の目が、今しも開かれた大きな両開きの扉の方に吸い寄せられた。入ってきたのはカイロン、名高いというより、すでに古い伝説に包まれているほどの、医術の達人だった。

 ドイツ語で einとか herein と方向が表現されている所には日本語ではやはり「シーン
」とか「サッ」と擬音語を使いたくなります。ドイツ人は目が発達しているのか、静けさ
が入ってくるのが見えるようです。日本人にはそれは見えませんが日本人は耳が発達して
いますから、何も音のしない静けさの中にも「シーン」という音が聞こえてしまうようで
す。
 要するに、日本語は音楽なのです。自然と共鳴して歌うのです。これが日本語なのだと
思います。それに対してドイツ語の世界は幾何学の世界です。どこにでも直線運動を見いだすのです。ですから、それはもう少し正確に言いますと、ベクトルの世界と言ってもい
いと思います。

 以上のは一つの試論みたいなものですから全部正しいと思わなくて結構です。大切な事は、このように諸言語には共通した大きな枠組みとその中での違いとがあるということです。ですからその共通点と違いとを手掛かりにして色々な事を理解することが出来るということです。私の言いたかったことは、我々が日本語を母語として生まれてきたことによってどういう偏った考え方をしているかということを自覚しておいても好いのではないか、ということです。語学の勉強の目的の1つとしてこういう事もあるのではないでしょうか。
(2018年11月22日)





 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 初版『資本論』の所蔵 | トップ | 「天タマ」第8号 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ア行」カテゴリの最新記事