マキペディア(発行人・牧野紀之)

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理論と実践の統一の真意

2014年10月04日 | ラ行
 またまた、このテーマを振り返る機会を与えてくれる文に出会いました。大下英治『日本共産党の深層』(イースト新書)と丸山真男対談集『一哲学徒の苦難の道』岩波現代文庫の中で、です。後者は古在由重との対談です。

 前者は以下の文です。

──図書館通いが一年半になろうとするころ、松本〔善明〕は、カントの『実践理性批判』をまた読み返した。カントは、そのなかで、彼に強烈に語りかけてきた。どうしても人間には、こうしなければならないということがある。それが、当然の前提なのだ。実践こそ、すべての前提である。

 〈マルクスこそカント、ヘーゲルのドイツ観念論の流れを受け継ぎながら、世界を解釈するのではなく、変革する立場から発展させた理論だ〉

 彼は、眼の醒めるような思いであった。

〈そうだ。マルクス主義は、実践の理論だ。自分が動かなけれは、生きていく道は生まれないのだ!〉

 彼は得心し、初めて動き出した。その思想を、自分の思想として生きていけると感じた。革命のため、人民のために、命を捧げることを誓い、日本共産党に入党した。(大下英治『日本共産党の深層』イースト新書、109頁)

 後者は、次の3つの文です。

──その1

 丸山 政治活動へのきっかけは……。

 古在 きっかけはむしろ偶然でした。やはり、マルクス主義的立場から一人の学生の書いた倫理学のレポートに、これはよくできていたので僕は百点をつけました。そうしたら、その学生が卒業してからすぐに、たしか前夜からの雪があがって晴れあがった三月の末あたりでしたか、うちへ訪ねてきて、まずいろんな雑談をしたのですね。おそらく、これは「あの先生は傾向がいいわね」というようなことだったと思うのです。そのうちに来訪の動機がはっきりすることになった。「実はモッブル(直訳すれは革命戦士救援の国際組織)という解放運動犠牲者の救援会がある。先生、それに協力してもらえないでしょうか。たしか先生は理論と実践との統一ということを授業のときにおっしゃった」というのですね。

 丸山 一本とられたわけですね。

 古在 ええ、そして「理論の上ではそうおっしゃったけれども、実際上もそれをやっていただけないでしょうか」ということなのですね。そこで僕はちょっととまどったけれども、「協力を否定する理由は少しもない、ただ一日だけ回答を待ってくれ」といった。と いうのは、結局は資金や住宅を提供してくれということらしかったので、これには多少とも危険は覚悟しなければならないから。(古在・丸山真男『一哲学徒の苦難の道』岩波文庫、59-60頁)

──その2

古在 一回目に捕まったときは、僕はなんにも言わないで帰ってきた。それはこの前に言ったように、パラチフスかなんかにかかって、ひどい状態だったのと、両親が重病だったから、執行停止の形でちょっと出された。そのときは、「理論的にはマルクス主義は正しいけれども、実践はやらないで、理論的研究だけを続ける」というので、1933年ころはそれでもすまないことはありませんでした。(152-3頁)

──その3(対談を終えての丸山眞男の感想)

 〔作家や芸術家なら何かを残そうとするのがあるが〕これにくらべると、学者・研究者の場合には、同様の形の記録はまだほとんど公にされていないし、そうした作業についての関心も前二者の場合ほどには高いとはいえない。

 これには一応もっともないくつかの理由があると思われる。第一に、何といっても学者・研究者の生活は、外部的な「事件」という形で現われる部分が少なく、また、政治家・軍人・事業家などのように、個別的状況にたいする個別的な決断ということがすくなくも第一義的な活動の場を構成していない。これは「理論と実践との統一」を志向するマルクス主義学者の場合でも、彼が職業としての学問を放棄しないかぎり、事情は同じである。(201-2頁)(引用終わり)

 日本のトップレベルの知性に属するとされる方々がこのような幼稚な考え方を終生持ち続けたということには本当に驚きますが(松本は存命)、それはこういう考え方がいかに根強いものかを証明していると思います。これまでも私見は述べてきましたから、まともに反論する気にもなれませんが、要点だけ書いておきます。

 ①まず確認すべき事は、弁証法でいうところの「理論と実践の(闘争と)統一」とは、「対立物の闘争と統一」という一般法則の一特殊事例だ、ということです。

②しかるに、「対立物の闘争と統一」とは、対立物は対立物ですから当然互いに排斥(闘争)しあっているのですが、人々は一般にはこの面だけしか見ませんが、それは一面的な見方で、一段高い観点からみると、両者は一致(統一)しているという面もある、ということです。

③ここでは、両者の闘争(不一致)は当然の前提ですが、一番大切な事は、「両者の闘争不一致」も「両者の統一(一致)」も、どちらも、「実際にそうである」という「事実命題」であって、「そうあらねばならない」という「当為命題」ではない、という事です。

④もし、これがそういう当為命題だとするならば、「理論と実践は一致させるべきだ」という事は弁証法やマルクス以前に昔からあった道徳律ですから、特に言う必要もありません。陽明学では知行合一とか言っているはずです。

 ⑤更に、「理論と実践」と言う時、理論とは実践の反省形態だということです。理論研究などを含む人間の全行為について、特定の或る行為が絶対的に理論であったり、実践であったりするわけではない、ということです。

 この事は、「方法とその適用」の関係でも、「手段(道具)と目的」の関係でも同じです。

 さて、これを確認した上で、上に引きました発言の誤りを指摘します。

 松本善明(日本共産党の元代議士)の発言に「世界を解釈するのではなく、変革する立場から発展させた理論」という言葉が見えますが、これは、言うまでもなく、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」の第11番目のテーゼを踏まえたものです。多くの人もこれを踏まえて「理論と実践の統一」を「両者を統一すべきだ」と解釈しています。

 この解釈の根本的な誤りは、この第11テーゼはそれまでの10個のテーゼから引き出される結論として出てきているのに、このテーゼ全体がどういう風に展開されているかを検討しないで、1個の文だけを解釈しているという事です。はばかりながら、このテーゼ全体の論理的構成を研究したものは拙稿「『フォイエルバッハ・テーゼ』に一研究」(拙著『労働と社会』に所収)以外にないはずです。全体を研究すれば、この結論の意味は「現状を肯定する人は解釈という実践をするだろうし、否定する人は変革する行為に出ることになる」という当たり前の事を言っているだけだ、という事が分かるはずです。

 「マルクス主義は、実践の理論だ」に至っては、笑止です。「実践の理論」でない理論がどこにあるというのでしょうか。大学教授として保身を図るのも実践の一形態ですから、そういう「理論」(考え)も「実践の理論」です。ただ、みっともないから、正直には言わないだけです。

 丸山からの引用の「その1」は、典型的な「当為命題」的解釈に立っています。上の説明③で十分でしょう。

 「その2」の「実践はやらないで、理論的研究だけを続ける」という古在の言葉は、上の説明⑤で説明できます。もう少し説明を加えておきますと、「実践はやらないで」と言う時、その「実践」とは「政治活動」とかを意味しているようです。左翼の間では「政治団体に入る、または入っている」ことを「実践」と思っている人も沢山いますが、完全な間違いです。

 そもそも、人間の社会活動(全生活)を社会的存在と社会的意識に二大別した場合は、政治活動は後者に入ります。ですから、もっとも広い意味ではそれは「理論」であって「実践」ではありません。すなわち、経済活動という「実践」の「理論」的反省の1形態が政治(活動)だ、ということです。

ちなみに、マルクスも後半生は経済学の研究に没頭しました。若い頃、「実践、実践」と言っていた人で後年もその「実践」とやらを続けている人は非常に少ないです。私は、或る人に「お前の『小選挙区制反対』の実践はどうなったんだ」と聞いたことがありますが、答えは返ってきませんでした。個人の本当の評価はその人の棺の蓋が閉まってから始まるのだと思います。

ついでに断っておきますが、経済活動などを「土台」と言い、政治などを「上部構造」と言うのは「命名」(ないし「換言」)ではなく「形容」です。経済活動などを「土台」と言い換えたものではありません。「マキペディア」の「土台と上部構造」の項にこう書いておきました。

──「土台が上部構造を決定する」という命題は、少し考えてみれば分かる通り、同語反復的な真理です。2つのものが規定し規定される関係にある時、規定する方を「土台」に譬えるのです。規定される方を上部構造と言うのです。生産関係を土台と名付けたのではないのです。生産関係は土台のようなものだと、生産関係の規定的な性質を譬えで表現したものなのです。ですから、本当は「土台が上部構造を決定する」と言うのではなくて、「生産関係が土台(みたいなもの)で、精神生活は上部構造(みたいなもの)だ」と言ったならば、無用な誤解を生まなくてすんだでしょう。(引用終わり)

 実際、自称マルクス主義の運動程、理論的にお粗末な運動は少ないと思います。その一因はそういう運動組織のトップが、こういう誤解の方が自分たちの役に立つと「感じている」からだと思います。

 「その3」の「『理論と実践との統一』を志向するマルクス主義学者」という丸山の言葉は松本の若いころの「マルクス主義は、実践の理論だ」と同じです。それを青二才左翼ではなく、政治学者として大成した人が平然として言っているのですから、話になりません。

 最後に、理論と実践の統一を事実命題として理解すると、どのような問題があるか、拙著『理論と実践の統一』(論創社)に載せた同名の論文の各節の見出しを載せておきます。

理論と実践の統一(牧野紀之)

  1、理論と実践の統一とは理論と実践は一致させなければならないという意味か。
  2、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第11テーゼはどういう意味か。
  3、毛沢東の「実践論」の意義と限界はどこにあるか。
  4、理論と実践の統一が両者は事実一致しているという意味だとすると、言行不一致をどう考えるか。
  5、理論と実践の分裂の意義とは何か。

  6、理論と実践の二元性とは何か。
  7、「○○の思想と行動」という見方はなぜ可能か。
  8、マルクスはこの問題に何を加えたか。
  9、通俗的見解のどこがどう間違っているのか。
  10、或る行為が実践か理論かを判定する基準は何か。

  11、理論と実践の統一の諸段階は何か。
  12、「革命的理論なくして革命的行動なし」という言葉はどう理解するべきか。
  13、個人の成長過程における理論と実践の統一の諸段階は何か。
  14、実践の根源性とは何か。


     関連項目

理論と実践の統一

実践

土台と上部構造

丸山真男


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