ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第 137号、授業(01、丸山真男ゼミ)

2005年10月10日 | サ行
教育の広場、第 137号、授業(01、丸山真男ゼミ)

 知人のTさんが60歳の若さでガンで亡くなりました。友人たちが追悼文集を作りました。私も頼まれて寄稿しました。それを読んでいたら、東大法学部のかの丸山真男さんのゼミのことが書いてありました。

Tさんは大学院で丸山ゼミに入ることを許されたが、途中で辞めることにしたそうです。それを聞いた時のことを友人が書いていたのです。

─第2点。権威主義と一言で済ませられないが、丸山教室を囲繞する空気に対する一種の強い違和感とでも言うべきものが語られた。

先生の文章は、極めて綿密に練りに練った精密機械の構造を持っていて、それでいて太いがっしりした論理が貫いている。普通なら人がスッと読み過ごしてしまうような何気ない記述から、彼は直観的な鋭い感覚で切り込みを入れ、そこからアッと思わせる解剖学的展望を展開して見せる。それは余人にはなしえないアートの領域である。それは認めざるを得ない。しかしそれこそが教室に於いては問題なのだ。

教室の全体の研究会があった。丸山先生が中心に座り、次に左大臣、右大臣と並び、外様格の先生が並び、講師、助手それから〔大学〕院生が末席にくる。それはそれでいやみなものだが、まあ仕方がない。象牙の塔だからね。

肝心なことは、先生の発言があると、満座森閑としてひたすら拝聴するという状態だ。開かれた討論というのは始まらない。先生の言葉は神様の如くで、あとは預言者だけだ。裏返せば先生に堂々と討論を交わすだけの大物がいない、育っていないということになりはしないか。まさに自分がその座の中で取るに足りない小物であって、反論を企てようにも蟷螂の斧である。どうしようもない力量の差があって、それがいいようもない権威主義に思われる。その事態
に直面して俺の居場所ではない、と感じた。

こんな趣旨であったと思い出す。─

これを読んで私はすぐに、大学病院での教授の回診のことを連想しました。大学病院では教授が入院患者を見て回る時、その医局の者共から看護婦全員までがお付きのように従い、まるで大名行列のようだ、という話です。

今でもこういう下らない事がどれだけ残っているのか、知りませんが、ともかく昔はこれが当たり前だったと聞いています。

しかし、これは今は論じません。丸山教室のこの間違いはどこに原因があるのか、どうしたら好いのか、それを考えます。

Tさんはその原因を「力量の差」に求めていますが、違うと思います。「組織はトップで8割決まる」のです。丸山さんの教師としての指導力の無さが最大の原因だと思います。

戦後は民主教育ということになりましたが、それの何たるかは「進歩的文化人の典型」か「模範」と「思われていた」(あるいは、今でも思われている)丸山さんにも全然分かっていなかったようです。

多くの場合は「先生が自分だけで決めないで、生徒と話し合って授業を進める」ことが民主教育と考えられているようですが、それでは「結論が出なかった場合」はどうするかが決まっていません。初めのうちは多数決で処理する事もあったようですが、その内自然に、今のように、先生の考えで運営されるようになってきたようです。

問題はその時、「先生の考えが正しいから、それで運営してよいのだ」という暗黙の前提があることです。そのため、生徒が「先生のやり方は違う」と思った時、強く反対する生徒が出てきたりします。こうなるとどうしたら好いのか、分からなくなってしまいます。

大きな声を出したり、場合によっては暴力をふるって秩序を保とうとする教師もいます。すると、逆に、先生がおとなしいと、生徒の方で従わないという場合も起きてきます。極端な場合には、対教師暴力さえあります。

私も長い間苦しみました。まずは生徒として、後には教師として。その結論は今までにも書いてきましたが、又ここにまとめます。

第1点。授業の形式(進め方)と内容(そこで教えられる学問の内容)とを区別して考える。

第2点。授業のやり方(形式)については、先生は授業要綱を初めに発表し、くわしく説明する。そこでは授業の目的と方法を中心にし、規律についてまとめる。

授業の目的については、その授業の特殊事情は認めるが、授業の根本目的は「自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」だとを明記する(この根本目的を理解せず、自分の教えている事を絶対的真理と思い込んでいる教師が多すぎる)。

それについての質問も聞き、質問には答える。又、授業が進んだ段階でアンケートを取って学生の意見を聞き、自分でも反省して微調整する。

「授業要綱を説明し、適宜生徒の意見をきちんと聞き、熟考した上で、先生が決めた場合」には、先生の考えに皆が従う。これは、先生の考えが正しいからではなく、学校とか師弟関係とはそういうものだからである。それ以上好い方法がないからである。

ここまでしてもどうしても反対だという生徒は辞めるしかない。辞めもせず従いもしない生徒は、先生は辞めさせる権利を持つ。先生には生徒を選ぶ権利がある(学校ではこの権利が認められていないので困る)。

第3点。授業方法としては、当該のテーマについて生徒が「自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させる」のに役立つように、様々な情報と手段を生徒に与えるようにする。又、90分を一つの授業方法で通さないように変化を与えるように工夫する(これも重要。これを工夫することで先生自身が伸びる)。

第4点。授業の内容については現在の学界の定説や教師の考えを述べるのは必要だが、押しつけない。なぜなら、特定の時点での特定の個人の考えは(どんなに偉い先生でも)完全な真理ではありえないからである(それどころか、先生の教える事は、原理的に、8割間違っている。これはどこかで証明したと思う)。

生徒から意見が出たりした場合は、正誤を決めるのはなるべく避ける。議論は互いの考えの異同をはっきりさせるために行う。

第5点。以上全ての目的のために、特に第4点の目的のために教科通信を発行する。話し言葉での議論と書き言葉での議論を組み合わせる。教科通信は生徒が交代で編集することもあってよい。

以上は私の現在の考えにすぎませんから、他の意見の人は自分の考えを発表して下さい。その時には必ず自分の実績も発表して下さい。

さて、これを基準にして丸山さんの授業を考えますと、かなり程度の低いものだったようです。つまり私のいつもの言い方で言いますと、修身と斉家(身の回りの公生活。異性との関係とかの私生活は除く)がしっかりできないのに、治国平天下(社会ないし国家レベルの民主主義や平和)を論じる人だったようです。

東大の丸山ゼミというのは優秀な学生の集まるゼミだそうですが、丸山さんが上にまとめた方法で授業をしてくれたら、日本の政治学ももう少し発展していたのではないかと思います。

私は都立大学の大学院で寺沢恒信さんのゼミに出ましたが、当時は許萬元さんもいて、助手には花崎皋平(こうへい)さんもいました。あの頃寺沢さんがこういうゼミをしていたら、日本の哲学もヘーゲル・マルクス研究ももう少しましなものになっていただろうと思います。

      投   稿

   「使える外国語」について(K・S)

牧野先生

 いつも楽しく拝読させていただいております。

 さて「使える英語」についても面白く拝読させていただきました。もしも外国語が「使える」ようになるには、それなりの必要性・必然性があるように思われます。

 私の経験した僅かな例でしかございませんが、その一つは外国でどうしてもその国の言葉を使わざるをえない状況に追い込まれると、外国語が上達するようです。

 全くドイツ語が話せない家内を在外研究の時に一緒にドイツへ参りました。家内には挨拶言葉と「これ一つ頂戴 Das einmal bitte !」一つを教えただけで市場に買い物に行かせました。すると一月ぐらいすると「チーズ屋にこのチーズは特別製だと勧められた」等、相手の言っていることがおおよそ理解しているようでした。そして研究室にこもって文字ばかり読んでいる私よりも確実に耳は家内の方が向上し、3ヶ月ほどするとレストランに入っても家内の方が正確に聞き取りができていましたし、注文も私の発音よりもドイツ人には聞き取りやすかったようでした。

 外国企業の外国人が日本へ多く来ますが、彼らのうち日本語を話せる人も少なく〔なく〕なってきました。彼らも日本人との意思疎通をはかるために日本語を話す必要を痛感して、来日後日本語を勉強し始めたみたいです。そして習いたての日本語を数多く使っている内に上手になったようです。

 私もドイツのコピー屋でよく「良い週末を Schoenes Wochenende !」と言われてそれに対して「Danke !」しかいえなかったのですが、こちらから言うと、ドイツ人は何か定型的なことを言うのですが、なかなかわかりませんでした。そして数ヶ月たってからやっと「あなたもね Beides auch !」と言っていることが分かり、それを使ってみるとドイツ人たちはとてもうれしそうでした。

辞書に載っていない日常会話はそれこそ多くあるでしょうが、実際にドイツ人と会話せねば、決して出会うことはないでしょう。

 海外旅行程度ならば挨拶言葉と「これ一つ頂戴」を覚えていればどの国でもたいていの用は足せます。いわば犬かきのようなものです。しかし日本人は完璧な外国語を使いこなそうとして、まさに畳の上で泳ぎを学ぶ(確か似たような表現がヘーゲル「小論理学」であったような気がいたしますが……)ようなものではないかと思います。

 大切なのは外国語を学ぶ必要性をどれだけ感じているかにかかっているのではないでしょうか。外国語を使うだけならば現地の幼児でも使えます。その幼児は正に現地の生活で必要に常に迫られているからでしょう。何を伝えたいのか、また何を聞きたいのか、その必要性がなく外国語を学ぶことの意義は大いに疑問におもわれます。

追伸:Deutsche Welleで外国人用にゆっくりドイツ語ニュースを読んでくれます。しかもテキスト付きです(http://www.dw-world.de/german/0,3367,2146,00.html)。それでも私にはかなりむずかしいのですが、学習者にお勧めになってみたり、教材にお使いになったらいかがでしょうか。


 お返事(牧野)

 投稿ありがとうございます。

 「必要に迫られれば自然に学ぶ」という考え方は正しいと思いますが、そこからは「だから、学校では『使える英語』はやらなくてよい」とか「日本での外国語教育は無意味だ」といった考えが出てきかねないと思います。

 実際に、そう言ってさぼっているドイツ語教師を私は知っています。

 現下の日本では「英会話が出来るようになりたい」と思っている人は多いと思います。特に中学生や高校生や大学生の中ではそういう人は多数を占めていると思います。それなのに教育方法が間違っているためにその願いが叶えられていないのが問題なのだと思います。

(2003年08月25日発行)