長谷川宏訳「精神現象学」
評者、富山太佳夫(とみやま・たかお)(英文学者)
ドイツ観念論哲学はその思弁の深遠性及び難渋性をもって夙(つと)に名高い。例えばヘーゲルの『精神現象学』の冒頭は、「著作に序文において先立たれるのが習慣になっているような説明は……」(岩波書店版、1971年初版、1987年第17刷)となっていて、初めから難解である。いかにもドイツ観念論だ。30年前に大学生をやっていた頃の私には本当に手も足もでなかった。
それから長い時が流れて、今の私は一応世間並みの常識をそなえた人間になっている、と思う。そしてその常識人の頭で考えてみる──肖像で見るかぎり、確かにヘーゲルは陰気な観念論的な顔をしている。しかし、だからといって、自分の主著をこんな風に書き出すものだろうか。おかしい。次に語学の教師としての私の直感がこうささやく──語訳だよ、ひどい語学力だ。
中央公論社の「世界の名著」のヘーゲルの巻(1967年)では、同じところを、「書物のはじめに序論がつけられる場合、そこでは、ふつう……」と訳している。長谷川宏訳では、「一巻の書物のはじめに『まえがき』なるものを置き……」と始まる。私は別に形而上学的な詭弁を弄しているのではない。興味のある方は各自比較を試みられたい。
岩波版を数頁めくると、「けだし、いつも次のことをもって手始めとなさざるをえぬであろう。即ち……こういうことをもって始まらざるをえぬであろう」という構文にぶつかる。哲学の翻訳書で実によく見かけるこの「次のように言っていい。即ち……これである」式の構文くらい不快なものはない。原文には「即ち」という言葉などない。そこにあるのは、大抵の場合、たんに名詞節を導く接続詞であって、それを偉そうに「即ち」とやれば文体は死ぬ。哲学は文体ではない、レトリックではない、真理の追究であるといった主張は、現代の哲学ではもはや適用しないはずである。ちなみに長谷川訳は右の箇所をひと続きの文として訳し、「即ち」は廃棄処分にしている。
長谷川訳の『精神現象学』を読みながら体中にくやしさがこみあげてくる。遅かった、遅すぎたという想いがこみあげてくる。30年前、学生のときにこの訳文でヘーゲルが読めていたらと思うと、いたたまれなくなる。もちろん理解できない部分のほうが多かっただろうが、それでもヘーゲルの難解さに納得して、その前で必死に考えようとしただろう。悪訳は、ヘーゲルの難解な魅力にふれる機会を奪ってしまったのだ。いや、ことはヘーゲルだけには限らない。私は悪訳哲学書に汚染された空気の中で育った世代に属している。哲学者とは口から意味不明の漢字をふきだす人種のこと、と定義したくなるくらいであった。
長谷川訳で『精神現象学』を読む。この有名すぎる本の主張をこの短かい書評の中で要約しようなどとは思わない。読み始めて最初に気がついたのは、ヘーゲルのかなりの口の悪さである。「あちこちに名札のついた骸骨か、香料商の店にあるラベルつきの缶詰の棚を思わせる一覧表」。「むきだしの皮膚に死んだ空虚な知の衣をかぶせられる」。この手の悪態があちこちに顔をのぞかせている。その議論はまったく無駄のない整然としたものというわけではなく、ときには重複したり繰返したりする。
例の有名な主人と奴隷の話があるかと思えば、意識や理性や精神を論じた難解な部分がある。「磁石の南極は北極と同じ強さをもち、陽電気は陰電気と、酸は塩基と同じ強さをもってむきあっている」という例解には少し頭をかきたくなるが、ヘーゲルは人相学にも興味があったらしい。気が向けば、ディドロの『ラモーの甥』を引用してみせたりもする。
結論の部分は次のように書かれている。「概念化された歴史こそ、絶対精神の記憶の刻まれたゴルゴタの丘であり、生命なき孤独をかこちかねぬ精神を、絶対精神として玉座に戴く現実であり、真理であり、確信である。シラーの詩『友情』の一節にあるごとく、『この精神の王国の酒杯から、精神の無現の力が沸き立つのだ』」。
ヘーゲルの哲学はその豊かなレトリックと一体をなしているのであって、そのことに気づかぬままヘーゲル哲学を云々することに一体どんな意味があるのだろうか。そのレトリックを読みとるだけの語学力もないままヘーゲル哲学を研究するとは一体どういうことなのか。
ヘーゲル本人が「まえがき」で、「結論ではなく、結論とその生成過程を合わせたものが現実の全体をなす」と断言している。レトリックもまたヘーゲル哲学の本質にかかわるのだ。長谷川訳はそのことをはっきりと日本語で読みとれるようにした。この翻訳は何十冊ものヘーゲル研究をもしのぐ貢献をすることだろう。それを読むことは喜びである。
(毎日新聞、1998年(平成10年)6月21日)
評者、富山太佳夫(とみやま・たかお)(英文学者)
ドイツ観念論哲学はその思弁の深遠性及び難渋性をもって夙(つと)に名高い。例えばヘーゲルの『精神現象学』の冒頭は、「著作に序文において先立たれるのが習慣になっているような説明は……」(岩波書店版、1971年初版、1987年第17刷)となっていて、初めから難解である。いかにもドイツ観念論だ。30年前に大学生をやっていた頃の私には本当に手も足もでなかった。
それから長い時が流れて、今の私は一応世間並みの常識をそなえた人間になっている、と思う。そしてその常識人の頭で考えてみる──肖像で見るかぎり、確かにヘーゲルは陰気な観念論的な顔をしている。しかし、だからといって、自分の主著をこんな風に書き出すものだろうか。おかしい。次に語学の教師としての私の直感がこうささやく──語訳だよ、ひどい語学力だ。
中央公論社の「世界の名著」のヘーゲルの巻(1967年)では、同じところを、「書物のはじめに序論がつけられる場合、そこでは、ふつう……」と訳している。長谷川宏訳では、「一巻の書物のはじめに『まえがき』なるものを置き……」と始まる。私は別に形而上学的な詭弁を弄しているのではない。興味のある方は各自比較を試みられたい。
岩波版を数頁めくると、「けだし、いつも次のことをもって手始めとなさざるをえぬであろう。即ち……こういうことをもって始まらざるをえぬであろう」という構文にぶつかる。哲学の翻訳書で実によく見かけるこの「次のように言っていい。即ち……これである」式の構文くらい不快なものはない。原文には「即ち」という言葉などない。そこにあるのは、大抵の場合、たんに名詞節を導く接続詞であって、それを偉そうに「即ち」とやれば文体は死ぬ。哲学は文体ではない、レトリックではない、真理の追究であるといった主張は、現代の哲学ではもはや適用しないはずである。ちなみに長谷川訳は右の箇所をひと続きの文として訳し、「即ち」は廃棄処分にしている。
長谷川訳の『精神現象学』を読みながら体中にくやしさがこみあげてくる。遅かった、遅すぎたという想いがこみあげてくる。30年前、学生のときにこの訳文でヘーゲルが読めていたらと思うと、いたたまれなくなる。もちろん理解できない部分のほうが多かっただろうが、それでもヘーゲルの難解さに納得して、その前で必死に考えようとしただろう。悪訳は、ヘーゲルの難解な魅力にふれる機会を奪ってしまったのだ。いや、ことはヘーゲルだけには限らない。私は悪訳哲学書に汚染された空気の中で育った世代に属している。哲学者とは口から意味不明の漢字をふきだす人種のこと、と定義したくなるくらいであった。
長谷川訳で『精神現象学』を読む。この有名すぎる本の主張をこの短かい書評の中で要約しようなどとは思わない。読み始めて最初に気がついたのは、ヘーゲルのかなりの口の悪さである。「あちこちに名札のついた骸骨か、香料商の店にあるラベルつきの缶詰の棚を思わせる一覧表」。「むきだしの皮膚に死んだ空虚な知の衣をかぶせられる」。この手の悪態があちこちに顔をのぞかせている。その議論はまったく無駄のない整然としたものというわけではなく、ときには重複したり繰返したりする。
例の有名な主人と奴隷の話があるかと思えば、意識や理性や精神を論じた難解な部分がある。「磁石の南極は北極と同じ強さをもち、陽電気は陰電気と、酸は塩基と同じ強さをもってむきあっている」という例解には少し頭をかきたくなるが、ヘーゲルは人相学にも興味があったらしい。気が向けば、ディドロの『ラモーの甥』を引用してみせたりもする。
結論の部分は次のように書かれている。「概念化された歴史こそ、絶対精神の記憶の刻まれたゴルゴタの丘であり、生命なき孤独をかこちかねぬ精神を、絶対精神として玉座に戴く現実であり、真理であり、確信である。シラーの詩『友情』の一節にあるごとく、『この精神の王国の酒杯から、精神の無現の力が沸き立つのだ』」。
ヘーゲルの哲学はその豊かなレトリックと一体をなしているのであって、そのことに気づかぬままヘーゲル哲学を云々することに一体どんな意味があるのだろうか。そのレトリックを読みとるだけの語学力もないままヘーゲル哲学を研究するとは一体どういうことなのか。
ヘーゲル本人が「まえがき」で、「結論ではなく、結論とその生成過程を合わせたものが現実の全体をなす」と断言している。レトリックもまたヘーゲル哲学の本質にかかわるのだ。長谷川訳はそのことをはっきりと日本語で読みとれるようにした。この翻訳は何十冊ものヘーゲル研究をもしのぐ貢献をすることだろう。それを読むことは喜びである。
(毎日新聞、1998年(平成10年)6月21日)