マキペディア(発行人・牧野紀之)

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山岸会(01、特講の論理)

2009年09月18日 | ヤ行
 日本最大の共同体(コミューン)として知られる山岸会の特別講習研鎖会は、一部の人々に特異な解放感を与えているようです。興味をもち、調査し、体験して考えてみました。これはその報告です。山岸会のことを知らない人のために、歴史と現状を解説した文をはじめに置きました。

1、山岸会の歴史と現状

 山岸会は山岸巳代蔵氏(1901~1961)の思想ヤマギシズムにもとづいて、全ての人が幸福になる快適社会を目指す運動体です。その「革命」は、ひとたび成就されると、その後一切の革命・変革の必要のない革命ということで、最後の革命という意味で、アルファベットの終りの字であるZを採って、「Z革命」と称されています。

 山岸会の歴史を区分した人はいないようですが、私は、前史と4期に分けて考えたらどうかと思います。

 前史(山岸会成立まで)

 山岸氏は19才から22才までの3年間に万巻の書を読み、自分の思想を確立されたそうです。しかし、それをすぐ発表・布教しようとしませんでした。

 昭和25年、ジェーン台風で周囲の稲がみな倒伏した時、氏の稲だけは倒伏せず、それが農業改良普及員の目に止まって、世に出ることとなりました。講演などに出されて有名になり、特にその養鶏法を知りたいという人が集まりましたが、その中から、氏の養鶏法はたんなる養鶏法でなく、理想社会を目指す思想と結びついていることを理解する人々が出てきました。

 第1期(会の成立から共同生活の始まり迄)

 山岸会は初めから共同生活体として発足したのではありません。昭和28年03月16日に、二十数人で発会しましたが、その時は、山岸会と山岸式養鶏普及会の二本立(昭和30年08月に一本化)で、いずれも、普通の会のように、事務所を置いて(京都府乙訓郡上植野)活動する会でした。

 この会の活動として、毎月16日に、昼間は養鶏専門の研鑽会をやり、夜は「何で腹が立つのか」といった精神的な事柄、みんなが仲良くなるための諸問題を話し合う研鑽会が開かれました。後者はたいてい徹夜になりましたので、「夜明し研鑽会」と呼ばれました。しかし、1晩では不十分だということで、1週間の特別講習研鑽会(略称「特講」)が構想され、昭和31年01月12日にその第一回が京都のお寺を借りて開かれたのです。

 なお、その前に、昭和29年12月、のちに特講のテキストとなる「ヤマギシズム社会の実態」という文章が、山岸氏によって発表されています。

 第2期(共同体化から実顕地の成立まで)

 昭和33年03月に「百万羽」と通称される構想が発表され、その結果山岸会式百万羽科学養鶏株式会社が設立され、三重県の春日山に土地を取得し、共同生活して、会の趣旨を実際に顕わすことになりました。そのため、各地方で活動していた人々がみな春日山に集められてしまい、地方会はつぶれるということにもなったようです。ですから、この百万羽構想とその実施、会のコミューン化によって山岸会は曲ってしまった、とする古い人々もいるようです。

 会はこれによって根拠地を得た形になり、昭和34年には北海道にも土地を取得して活動を拡げ、盛り上ったようです。そこから、各界の知名人を特講に呼んで人間変革し、一挙に日本を革命するという考えが出てきました。これを「急速拡大運動」、略して「急拡」と言います。しかし、その無理が出たのか故意に会の側で引起したのか、真相は不明ですが、昭和34年07月05日頃に「山岸会事件」が起き、特講の開かれている所を警官が包囲するということになりました。マスコミの総攻撃に会って特講に来る人もいなくなり、沈滞したようです。

 しかし、昭和35年08月には特講も再開されて、再び前進し始め、昭和36年01月に兵庫県の北条に第1号の実顕地(ヤマギシズムを実際に顕現して生活する所)が生まれて、新しい段階に入りました。

 第3期(実顕地誕生から実鎖地中心主義の確立まで)

 北条実顕地が出来たのをきっかけにして機構整備が行われました。その結果、二系列の組織となり、1つは、ヤマギシズム生活中央調正機関(略称「中調」)で、この下に、中央試験場(いわば中央研究所みたいなもの)、研鑽学校(生活から離れて2週間にわたり反省する学校)などが配されました。もう1つは、ヤマギシズム生活実顕地本庁で、各地の実顕地を配下にもつことになりました。

 中調と実顕地本庁の関係では、中調優位でした。つまり、中調の方に属する人は「真の革命家」か「前衛」(ヤマギシズムではそういぅ人を「ボロと水でタダ働きできる人」と言い「オールメンバー」と言います)で、実顕地に属する人々は「一般大衆」かせいぜい「党員大衆」と見られました。

 しかし、その後各地に(韓国にも)実顕地が続々と造られていく中で、小さい(数世帯で数十人から成る)実顕地では一体生活の機能を十分に発揮できないということで、昭和44年04月に豊里(三重県津市効外)に適正規模(50世帯、200人)の実顕地を造ることになりました。これを境にして、第三期は前半と後半に分けて考えられると思います。

 なお、この前期には、昭和36年05月02日に山岸氏の死去があり、昭和39年に、山岸氏の二番目の夫人で大きな影響力のあった福里ニワ氏が、多くの人と合わず、自派の人々をつれて退会し、福里哲学実顕場をつくるということがありました。

 第3期後半は豊里実顕地の造成・建設に始まりますが、この時期には、昭和45年前後に若者たちによる山岸会再発見と、昭和48年暮に始まった消費者(「活用者」という)直結路線の成立とが含まれています。以前は、農民を中心とした社会人の参画(入会のこと)が多かったようですが、それ以後は若者の参画がふえました。又、生産物を市場の仲介人に売らなくなったために、商品価格を適正に自主的に保てるようになり、経済的に安定・繁栄するようになりました。ここから、その生産物の供給所(会社の営業所に当る)が各地に作られるようになり、生産現場である実顕地の比重が重くなり、昭和50年に会内の革命があって、実顕地中心主義が確立されたようです。

 なお、第3期後半の時期には、昭和47年、いくつかの実顕地が分離独立するということが起きています。

 第4期(実顕地中心主義の確立から今日まで)

 昭和50年には、生産物の供給のための仕事を法人化してますます大規模になり、又、昭和50年夏からは「夏のこども楽園村」も始まり、これも年々盛んになり、今では会の二大対外活動となっています。そのため、特講に来て、その後参画する人も、この両ルートを通して会を知った人が多くなっているようです。

 現在(昭和56年08月)では、実顕地は、500ヘクタールもある北海道の別海実顕地から州の西海実顕地まで、全部で約30ヵ所あり、供給所は22ヵ所、参画者総数は不明ですが、子供も含めて千数百名と推定されます。山岸会の実顕地生産物の活用者は数万世帯と推定されています。
(以上の資料は、『Z革命集団山岸会』ルック社、パンフ「金のいらない仲良い楽しい村」山岸会、玉川しんめい『真人山岸巳代蔵』流動出版、新島淳良『阿Qのユートピア』晶文社、同『さらばコミューン』現代書林、その他です。そのほかに、特講を題材にした小説としては「われらユートピアン」<稲垣真美『テロリストの女』第三文明社所収>がある)

2、特講の外形とテーマ

  ① 特講の外形

 「ヤマギシズム特別講習研鎖会(略称「特講」)は、今までのように度々改変しなくてもよい、人類のある限り、われ、ひとと共に永遠に繁栄してやまない社会の在り方を理解し、真に人間向きの未来社会に住むための人間変革を目指す場である。いいかえると、人間革命にはじまって、真正世界に革命しようとするため自ら心の門戸を開くための場といってよいであろう。特講では、固定観念をはずすことから始まって、親子・夫婦・宗教・家庭・結婚・社会・経済・物・人種・国境・法律・制度等その他百般の事項について検討し、真実のあり方と、その実現について研鑽するのである」(ヤマギシズム運動誌『ボロと水』第3号93頁)。

 山岸会の側からはこのように捉えられている特講を考えるのですが、未知の人のために、まず、その外形的特徴を説明しておきましょう。

 特講は、本部のある春日山以外の所でも行れることがありますが、春日山には昭和38年に新築された特議会場があり、それが使われます。これは平家ですが、100畳の部屋と60畳の部屋があり、この2部屋が続いているのではなく、間に廊下と事務室があって隔てられています。そのほかに、広い台所とトイレがあります。風呂場は少し離れた所に別棟となっています。

 特講はここで1週間行われます。そのあと一日の補講(実顕地参観、家庭訪問、そのあと又研鑽)がありますので、合計7泊8日です。毎月1日~8日、15日~22日に行われます。申込んでから行くのが普通ですが、1日又は15日の午後3時までに関西本線の新堂駅に下車すれば、旅館の出迎えのような幕を下げた迎えの人がいて、車で連れていって下さいます。

 特講では、朝の掃除以外は完全に雑事から解放されます。子供達れの人は、子供を預って下さいます(1万円)。そして、この広い畳敷の部屋に、車座になって、ひたすら研鑽します。日程は一応決まっていますが、ほとんど守られません。風呂は、時間がなくて入れない日もあります。研鑽は深更に及ぶことが普通で、ことによると徹夜になります。たいてい睡眠時間は5~8時間です。寝る時は、正方形のふとんに2人で寝ます。毎晩相手を替えなければなりません。男女は別に寝ますが、同じ部屋で、間についたてもありません。しかし、こんな事は気にならなくなります。

 食事は、山岸会では二食主義ですが、11時~12時頃と5時から6時頃の2回で、会の人が作って下さいます。この時間は比較的守られます。起きている時は、食事と入浴以外は研鑽で、2時間くらいすると、10~15分間の休憩が入ります。座いすもなく、運動も朝のラジオ体操以外になく、座っているのが苦痛になります。ですから、特講中便秘になったり、特講後病気になる人も出るようです。

 タバコは休憩時にのめますが、間食はとらないことになっています。酒は、6日目の夜の「懇親研鑽会」という名のコンパの時に、素晴しい料理とともに、出るだけです。この懇親研は本当に楽しいものですから、そのためだけでも、途中で逃げださないで、残って研鑽テ-マと取組むことをおすすめします。

 ② 特講のテーマと進め方

 さて、その研鑽とは何をするのかと言いますと、山岸会側から「係」の人が参加して、その係の中から交替で2名の進行係が議長というか司会を務めて、研鑽資料である山岸巳代蔵氏の『ヤマギシズム社会の実態』(通称「青本」)を読んで考え、話合ったり、それから離れて、進行係の人の出すテーマについて各自考えて答えたり、話合ったりします。

 山岸会参画者でなくても特講経験者なら係を務めることができるという所は、山岸会らしいへだてなさです。係は4名以上で、ベテラン2名、新人というか見習2名、それに+αという形で構成されているということです。私の参加した第1016回特講(昭和56年07月15日~22日)では、係5名、受講生27名でした。

 テーマは決められています。

第1日 午後、開講式、自己紹介
    夜、零位研鑽。青本のまえがきの第1節「零位よりの理解を」を読んで、話合う。

第2日 午前、宗教に非ずの研鑽。青本の「まえがき」の第二節「宗教に非ず」を読んで考える。

  午後から、怒り研鎖。まず、「腹の立たない人になりたいか?」と問う。これを確認の上、次に、「これまでで一番腹の立ったこと」ないし「最近腹の立ったこと」を各自に出させ、「なんで腹が立ったのか」と進行係が1人1人に問う。どんな理由を答えても、「なんでそれで腹が立ったのか?」と、いつまでもひたすら問うてくる。夜遅くなり、徹夜になることもあれば、少し寝てから第3日午前までかかることもある。全員が「今後絶対に腹が立たなくなった」と答えるまでやる。これが特講の第1の、そして最大のヤマ場である。
第3日、午前(ないし午後)、真実の世界の研鑽。青本の第1章「真実の世界」を読んで、話合う。

 夜、一体研鑽。「夕食に食べた物はどこから私になったか?」とか、ある人の着ている物を取りあげて、「これが作られるのにどれだけの人がかかわっているか?」とかの問いを出して、多くの人の関係、人間と自然の一体の関係を説明する。又、ある人の両親、その両親それぞれの両親……とさかのぼって行くと、30代前には十億人になることを説明し、「人間みな兄弟姉妹」ということを納得させる。

第4日、午前と午後。ひきっづ青本の第1章を読み進む。怒り研鑽をへてきているし、日もたって、みな仲良くなごやかになっているが、この日の夜、第2のヤマ場が来て又緊張する。

 夜。自由研鑽(俗称「割り切り研鑽」又「我抜き研鑽」ともいう)。たいてい「この特講が終った後、ずっとここに残れますか?」と1人1人に聞く。この質問は、時には女性に対する「今ここで裸になれますか?」という問いに代ったり、「あなたは今死ねますか?」とか「人を殺せますか?」とか、「特講終了後自分の家に帰れますか?」 となったりします。とにかく、第1の問いで説明すると、「残れません」と答えると、「そんな事聞いてない」とはねつけられる。全員が「残れます」と答えるまでやる。この頃になると迎合的な人も出てくるので、一度「残れます」と答えても、相手の弱い所を突いて、「これこれですけどいいですか?」と念を押してくる。更に、「山岸会参画申込書」という用紙に署名捺印させるという芝居までやる。

 この後平等研鑽となる。みんなの前に人数より少ないお菓子をおいて、「今ここで何が平等か?」という問いを出す。受講生は、たいてい、早合点して「これを平等に分けるにはどうしたらよいか」という風に理解して考えるが、そうではない。問いをよく聞くこと。特講では問いのことば使いに意味がある。答えは、「誰でもがこれを食べることができるという点で平等」である。そこから、「誰が食べてもいい」という結論を引出して、みんなに承認させる。そして、実際誰が食べてもいいということになって、食べたい人が取って食べるのだが、残りの人数分のお菓子が同時に持ってこられて、めでたしめでたしとなる。

第5日午前。差別、好き嫌い、劣等感について、各自の体験を出させて、それはいずれも主観的なものだとする。

  午後。所有研鑽。各自から時計などを出させ、「この時計は誰のか?」と聞く。受講生は、まず、所有者の名を挙げて「○○さんのもの」と答えるが、この頃になると、みな、すぐ、「みんなの物」という答くらいは出す。しかし、それでも正解ではない。「誰かの物であることでこの時計が変るのか?」と聞いてくる。誰かが「誰のものでもない」というと、それがみんなに伝染して終る。そして、「誰の物でもないからどう使ってもよい」⇒「それを最もよく活かして使わなければならない」ということになり、「これまで使っていた人が使うのがいいと思いますが、どうでしょうか?」という「提案」がなされて、元の人の所に戻る。

 その後、第6日午後までは青本をどんどん読みとばしていく。

 この頃までに、2つの道を書いた紙を張り出して、自分はどちらの道を行くのか答えさせる。その2つの道とは、A=みんなの考えを聞きながら自分の考えでやっていく、というのと、B=みんなの考えで自分の持ち味を生かしてやっていく、というのとである。この頃になると、たいていの人はBと答える。Aと答えると、「どうしてAなのか?」と問いつめられる。又、この辺で、「ニッコリ笑って死ねますか?」という問いに1人1人答えさせられる。

第6日夜。約4時間のコンパ(懇親研鑽会)があるが、その前に絵図研鑽がある。これは、山岸氏が自分の考えを息子の山岸純氏(画家、当時は画学生)に描かせたもの(その模写)を掲げて、各自前に出て「この絵をどう解釈するか?」「特講の感想」などを述べる。

 コンパは要するにコンパである。酔って暴れる等のことは禁ぜられるが、要するに楽しめばよい。料理はすばらしく、近年とくに財政力をつけている山岸会の底力を見せつける。先にも書いたが、文句なしに楽しい夜である。

第7日午前。会活動研鑽。特講を経た人はみな仲間と考えているので、特講後、各地の幸福研鑽会に入ることや、拡大=特講送りについて話合う。

   午後。実顕地参観。家庭訪問。実顕地のモデルというか先兵になっている豊里実顕地に行って見学し、入浴し、その立派な「一体食堂・愛和館」で夕食を食べ、その後2人1組で、参画者の家庭に行って、1時間半くらい話をしてくる。

  夜。補講。実顕地参観と家庭訪問の感想を言い、特講から帰ってまず何をするかを出し合う。私の時はこれが長びき、徹夜になった。

第8日の昼食(第1食)後解散となるが、しばらく残っていく人も、みな、急行停車駅の柘植(つげ)駅まで見送りにきて、別れを惜しむ。(1981年08月に執筆)

 (以下略。全文は『ヘーゲルと自然生活運動』鶏鳴出版に所収)
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