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碧い山・青い海

趣味の山登りとか、技術とネット情報を照合し個人メモに・・

1611- 世界最速にかけた情熱

2016-11-02 | テクニクス
 神戸にある川崎重工業創立120周年で 客船埠頭で1940年頃の「国産戦闘機・飛燕」が復元され紹介るのを知り出かけて見た。
 何でこんなに、人が多いのかと言うくらいの人気で カメラを持った熱心な見学者と 川重の説明者も負けずに説明していた。飛燕の操縦席の復元模型に座ってみたが、まるでスポーツ・カーの操縦席の様だった。

 川重の松方社長時代だが、こ航空機開発の経験がこの企業の単車・エンジン技術の基礎になった。知覧に展示されていた飛燕の機体を分解し、設計図を起こし若い社員がボランティアで4年かけて復元したと言う。多くの説明員もそれに加わった老若男女で、とても詳しく説明にも力が入っていた。

 日本の軍用機と言えばゼロ戦が有名。三菱重工が開発し、後に中島飛行機もライセンス生産し開発の1939年から1944年までに1万機が作られたと言われる。軽量化設計で、当初は優勢だったが、1943年頃は時代遅れとなり 空冷式星形エンジンの形から 水冷式エンジンの流線形の戦闘機に置き換えられていった。
 この川崎重工の飛燕も水冷式で、速度も飛行高度も優れていたが量産が1943年で 3000機程で終わったようだ。元々、航空技術は水冷式で先行するドイツ・イギリスからの技術導入で設計されダイムラーベンツ社の小型高性能エンジンをライセンス契約し、全て国産の世界最速を目指したが1941年12月に初飛行に成功した。流線形の姿は結果的に同じエンジンを載せたメッサーシュミットに似ているのも仕方がないのだろう。
 更に改良したⅡ型も性能は設計以上だったが、国内燃料が粗悪でそれでも十分な性能は発揮出来なかったらしい。全国で量産される中、エンジン製造を担当していた兵庫明石工場が爆撃されて エンジン搭載出来ない機体が問題化して 空冷エンジンを載せたり 爆撃機にされたが 働く現場は給料のために働くのでは無く 国のために夜も眠らずに働いたそうだ。

 説明員の話に戦後、米軍が日本戦闘機を米国ハイオクタン燃料で飛んでみたら、最新の米軍機よりも高い性能に驚いたと言う話も面白かった。古い機体の復元は道楽でなくて、海外協力も受けながら分析調査を進め「リバース・エンジニヤリング」手法で設計図を復元した。その得られた技術も今の「自動車・単車産業」に伝え革新改善に使われた。
 戦争は負けてしまったが 実は復活戦の経済部門では勝っているのかも知れない。