goo blog サービス終了のお知らせ 

碧い山・青い海

趣味の山登りとか、技術とネット情報を照合し個人メモに・・

1405- 通信講座が修了

2014-05-19 | 学習
 昨日、日本中世史の最後のレポート提出をして通信講座が完了。まだ、最終レポートの採点が6月になるので修了証書と最終採点成績は判らない。しかし、途中経過の成績表から、及第点は取っている様なので合格はしているらしい。

 以前にも、書いたが日本史と言うのは、今まで古文の難しさもあって嫌いな科目の上位に並んでいた。ところが、神戸に住む様になって、旧居留地などを歩き古い建物の説明版など読むと歴史に興味がわく。街中の三宮神社も街中にあり昔、参勤交代で上京した岡山藩の一行が異人の無礼で斬りつけた神戸事件の場所だ。六甲山山頂の徳川道も徳川幕府が二度と問題を起こさぬように山の迂回路だが、今もそのまま残っているのを発見したり・・・。
 阪神淡路大震災から19年経つが、神戸の人は災害時の各地からの援助を受けた事を忘れず、誰もが人とのつながりをとても大切にしている。出会う人も親切で、町中に飾られた花壇もボランティアが街を綺麗にしているのにいつも感心してしまう。これも歴史を大切にする事が、地域の誇りにも繋がっているのだろうと考え、これは少し歴史も知らないと話しにも乗れないかも・・と。

 インターネット画面の講義だが、横に文字スクロールも出て復習も出来るし、講師の話す内容が面白いのだ。中世の記録は、実は事実は破棄され 残しておくと都合がよい、あるいは有利と言う物が多く、知られると不味い事は歴史に残っていないらしい。従って、記録の読み方は「そうあるべき」で書かれたものか「・・なっている」と事実が書かれているのか両面で、読み取る必要がある。鎌倉・室町時代には、文字を書ける人達は権力を持つ人なので知られると困る事は残っていない・・歴史は、科学なのだから内容は 分析して・・と。

 日本の中世の「自由・平等」などは、強者・権力者の世界であり 未熟な世界だった。中世から戦国時代・江戸時代と苦難を乗り越えて、やっと見えたのは 何時の時代も人々は「平和」を求めていた事が判り 現代にたどり着いたのだと言う。作り物のドラマなどより、余程面白かったが、特に、鎌倉・室町時代の「荘園」と言う権力者に都合の良い農業制度には驚いた。しかし、現代でも似たような事は多くて、事実を隠して歴史を語る事の如何に多いことか・・人類は進歩したのだろうかも怪しくなる。

 ともかく、情報機器のお陰で教師と対面する様な形で、権威の話を直接聴け、新しい学問に触れられて 終わった後も清清しい気持ちだ。

 こんな、田畑の景色を見ると 昔の状態に思いが走る・・・

1405- 赤穂でのOB会参加

2014-05-14 | 日記
 何故か同窓会・企業OB会の案内が、最近立て続けにあった。今日は、十数年になる勤務先のOB会が播州赤穂のホテルであり、久し振りに参加する。勤務先と言うより、事業部単位の集まりだったので 本社関係の知人も半分いたので是非、再会してみようと思ったのだ。
 事業部関連となると集まったのは男ばかりだが、小うるさい強兵ばかりで現役時代は肩で風を切りながら 事業企画・販売促進・商品開発の先端を走っていた人達だ。今は皆、既に古希を迎えていたり、それ前後の年齢になっていたが アルコールも入って彼方此方に席を移し話しまくった。
 経験を生かして企業コンサルタント・アドバイザー的な仕事を続ける人もいたが、それよりも 実家に戻り 農業に精を出している人が意外に多いのに驚いた。
 技術系の部下だった仲間は、広い畑の散水から ビニールハウスの温度・日照管理をコンピュータ制御して 近所でも評判になっている奴までいたが、子供時代には農業が嫌いで、サラリーマンになった筈が 仕方なく畑仕事をしている内に 「こんな楽しい作業は無い」と気がついたと語る、財務マンもいた。自然が好きになる・・と言うのは 山とか海が好き、と言う私と同じだ。

 夕方5時半から始まった宴会は、カラオケも混じる騒ぎのまま9時半に終わり更に、部屋でも自販機の酒を買い集めて夜中を過ぎても話しが尽きない。
翌日、早起きして温泉に軽く入り、多くは8時にはゴルフ場に車を連ね出かけていった。残された10人ほどは、連れ連れに解散し 私たちも近くの忠臣蔵の大石神社にお参りして名物の"汐饅頭"を買って帰ることにした。早朝の神社参りに神様も驚いたかも知れないが 何か良いことがあるかもしれない。この秋にも、別グループでの集会もあるそうだが 旧知の人達が 健在で元気に頑張っている話を聞くのも 偶には良いものだ。


1405- 六甲山住吉道

2014-05-09 | 山登り
 Gウイークが終わった翌日、新緑の六甲山に登る。今回は、御影石で有名な石切道から登る予定で 御影駅を下りて街中を抜けて登る。しかし、間違って阪神の御影駅で降りてしまったので、同じ御影駅でも海側なので30分程ロスをしてしまった。最初が間違うと、後にも間違ってしまい途中、五助ダムから住吉道に出た辺りで、石切道の登り口を見逃す 第二のミス。道具合からも、住吉道が主道らしく歩きやすく整備されていたので引き返さずに、Gテラスでなく最高峰を目指す事にした。
 計画では石切道コースなら稜線のガーデン・テラスは2時間半、ところが地図確認の住吉道は東に長く回り込みながら登るため4時間かかるらしい。本庄橋跡の渡渉で昼になり、次の沢でランチ休憩。結局 1時半に六甲最高峰となり、湯槽谷山から灰形山・有馬温泉を下るコースはあきらめて、ケーブルで温泉に下りた。有馬温泉に下りて温泉で汗を流して帰宅したが、六甲山のコースは無数にあり 途中でコース変更出来るのも この山の特徴かもしれない。
 一日中、晴天で山頂からは大阪湾も見渡せた。住吉道は初めて歩いたが、新緑とツツジ・レンゲも良かったが 地元山岳会が整備しているらしい山道と道標には感激した。確かに、とても美しい変化のあるコースで未来に残したい場所を又ひとつ発見した気がする。




 六甲最高峰 その2・・いつもの山頂木柱の30m手前にケルン(戦後・米占領軍の通信設備があった頃の山頂)


1405- 神戸の第四突堤

2014-05-09 | 日記
 部屋の北側から、神戸港の第四突堤が見える。突堤はメリケン波止場とか、中突堤のハーバランドが 帆船が入るので有名。
しかし、一番大きく水深があるのはこの第四だ。1992年に移設されたが新突堤とも呼ばれている。従って、世界一周などの大型船は ここを使う事が多い様だ。他5万トンクラスだが、10万トンを越える大型船が停泊出来 5万トン級なら四隻が停泊出来ると聞く。
 このゴールデン・ウイークは、連日世界の有名船が来航しその度に歓迎セレモニーと、夕刻の出港時はお別れのセレモニーがあった。毎回、多くのボランテアと見物客と船目当てのカメラマンも全国から押し寄せる。特に、先日の米国「ボイジャーオブ シィー号」13万7千トンは、私も期待して行って見たのだが、ターミナル駅の赤い神戸大橋の通路までカメラマンが多く並ぶ人気だった。
 昨年、横浜・神戸・長崎で大騒ぎになった「クイーン・エリザベス3世号」9万トンよりも、1.5倍大きい。船体がとても優雅で美しく現在世界第四位の大きさらしい。この船会社は22万トンのオナシスとい言う船も持っているらしいが、果たして停泊する港はあるのだろうか。
 前日は「セレブリテイ・ミレミアム号」9万トン(お金持ちそうな船名だ)も来ていたが、船により大きさには関係なく 人気は様々らしい。

 出港した その翌日には神戸港を拠点にする「サン・プリンセス号7万7千トンが入って来たが翌日には国内船の「パシフイック・ビーナス号」2万5千トン、次は日本丸・・と毎日入港予定が目白押し。当然、船が着岸する度に三宮の街にも 外国人が流れるので商店街は外国にいる錯覚になってしまう。
 船の大きさは 客船は容積、産業船は重量でトン数を表す様で、単純比較出来ないらしい。有名な英タイタニック号が4万6千トン、戦艦大和が6万四千トンと言うから 最近の船は近くのマンションより大きい。歓迎セレモニーが楽しいのは音楽隊の演奏とそれに喜ぶ、観光客だ。楽団は大学生・高校生グループなどいろいろだが、中でも「神戸消防署音楽隊」の演奏する出航の夕日の中で「錨を上げて」は演奏もプロ級で最高の雰囲気だった。港に入ってくるタイミングに合わせて、3回ほど見学に行っただが 今回も予定時間より1時間近く早く入港していた。船は電車と違い、時刻は大体と言う世界の様なので 常に海を眺めてないとダメかも。 

 ボイシャーオブ シィー 137万トン






 セレブリー・ミレミアム 9万トン

1405- 奈良の大仏

2014-05-01 | 日記
 先日、久方ぶりに奈良公園に行く。盆藤展と言う藤の花展示があり、ついて行ったのだが周辺の寺院とか日本庭園にの外国人観光客が多いのには驚いてしまった。日本は、観光立国で・・・と言う話題があるが、道端の和菓子屋さんとか 着物姿の人など見ると そうかもしれないとも感じた。
 近鉄奈良駅で下車した。現役中は、この辺りに営業所があり見覚えのある風景で懐かしい。 展示会を見終わり、若草山沿いにある戒壇院も近かったので前を抜けて、修学旅行で馴染みのある大仏のいる"東大寺"と猿沢の池近くには 阿修羅の"興福寺"を見学して夕方には神戸三宮に戻った。奈良の仏像も、学生時代は文化遺産学習と 言う事で薄暗い中の黒ずんだ木像を 仕方なく見て回った記憶があるが、今回はこの仏像が、以前より少し違って見えた。当時は、歴史は嫌いな科目だったので 普通の人が常識らしい史実もよく覚えていない。

 それは今、ネット講座で「日本の中世史」の奈良時代・鎌倉時代の歴史の輪郭が少し判っていて 見学するその違いだろう。最初に疑問になったのも「仏像たちの顔と装束」を学んだ知識で考えてみた。朝鮮半島西南にあった百済(くだら)国と倭国と呼ばれていた日本国は弥生時代に近い6世紀から外交があった。それは朝鮮半島内の国対立で、百済王は近くの倭国を味方にしたいと 先進文物(仏像・経典など)、文化人なとの贈り物をしたり日本からも、百済に帰化する日本人も当時いたらしいから、かなり親密だったのかも。

 日本にはシルクロードの様な流れで文化が入り、それを手本に飛鳥時代・奈良時代の朝廷が作られたらしい。平安時代の聖武天皇の時代(750年頃)、天皇が仏教に帰依したのをきっかけに 仏像を造ることが先代よりも国家的要素となり、東大寺もその頃に竣工している。当然、仏像の顔も衣装も 外来文化に沿って作られたのも理解できる。
 百済国は660年、内戦に敗れ半島から押し出され、倭国と呼ぶ日本に 国王と貴族含む一族が亡命して一部は朝廷にも仕えたそうだ。しかし、古代・弥生時代には中国雲南省に住んでいたインド仏教と中国仏教を持つ倭人と言う民族が、インド・中国・朝鮮半島を経由して日本に移り住んだことから始まったと言われている。どう考えても、日本文化の元は 大陸文化だったと言う事だが それが鎌倉時代・江戸時代と進化したものだろう。

 この辺りは、普通では常識なのだろうが、私には物珍しい知識に感じる。しかし、日本の古代記録は「古事記と日本書紀」しかないらしく、それも皇族が書いた物なので自分達に都合の良い様に書かれている。つまり、古文書は「事実と思い込んだ間違った記録」と「事実を隠して、書かれた記録」が非常に多いので まともに正しいとしてはいけないそうだ。結局は、教科書にある歴史は仮定であり、事実・史実ではないのだ。
 独語でザイン(・・である)、ゾレン(・・すべきである)と言うらしい。事実を書いたメモの様な物は捨てられて残らないが、功績の様な残したい文書は伝承されやすい、従って捨てられる筈の紙の裏に、書かれた経典書の透けて見える裏文字が価値があるそうだ。正規に残った古文書・古記録を、読み取るには多方面から検証して 裏付けを取りなさいと教えられた。数学とか技術とは全く正反対の、歴史ロマンとか言われるように迷宮の中にいる様な得体のしれないものだ。