先日、神戸のクリエイティブ・センターの資料館に立ち寄って いま活躍している 国内のデザイングループ活動を神戸に集めて紹介する資料を沢山見る事が出来た。
元は神戸生糸検査所の建物を利用した巨大な建物だが、関東大震災で横浜の生糸検査所が崩壊した時に 主要産業だった生糸輸出を支えたのがこの場所だった。横浜には無いと思うが、生糸検査設備が維持保存され見学できるのはここだけだ。
資料の中に「神戸の魅力は、山より海より人でした」と言うキャツチがあり 流石にこのデザイン風のフレーズは 心に響いてとても気に入ってしまった。
兎角、地域おこしと言うと 観光地がある・新規ショツピングモール・物産がある・・と言う打ち出し例が多いが 神戸人の視点は震災経験も深く関わった 他人に思いやりのあるキャツチで 少し他とは違うのだろう。
人が大切と言えば、良く売れている本紹介に「三洋電機が消えた日、シャープの崩壊」と言う記事があったが 思い返すと国内には 有名な良い企業が消えてしまったが そこで中心的に貢献していた技術者はどうなったのだろうか。
群馬の東京三洋電機本社は、仕事の関係で 企画設計・デザイン室など毎月の様に通っていた時代がある。三洋電機は関西だが労働争議で嫌気がさしたトップが米軍基地の広大な跡地(96万平方メートル)に「東京三洋」として世界の三洋を目指す拠点にした。エアコン・冷蔵庫など満載した列車が構内から毎日、国内と世界に送り出した。三洋電機が「家電立国日本」の象徴とも言われ 1万5千人の従業員の働く場所だったようだ。
洗濯機は噴流式を開発し、パン焼き機とか、シェーバーなど女性も加わりユニークなヒット商品を次々と発売し 元気で自由な会社だったらしい。当時はそこで働ける人たちを羨ましく感じたものだ。顕著な商品に充電バッテリー「エネループ」がある。今の自動車とパソコン・スマホの最重要技術だが、その中心技術者は現在、韓国サムソンに採用されてしまったそうだ。それと「it's 新社会人のための家電製品」シリーズのSANYO小型白物家電の大ヒットも記録に残るものだ。
他にも大ヒットした「家庭用パン焼き機GOPAN」も今はパナ・ブランドになってしまったが 充電電池も含めて若さと元気だった 三洋ブランドの方が懐かしい。
私にとつても、勤務先の会社の北関東の大切な顧客だったのでその思いはその猶更だが「世界のSANYO」が消えるなど 当時は夢にも思わなかったが 世の中何が起こるか分からない。
電池開発者は吸収されたパナソニックで肩身の狭い仕事をするよりも、自由に仕事の続けられる新天地 韓国・サムソンに歓迎されながら転社する道を選び今も部下と共に活躍しているそうだ。親となったパナソニックは三洋を解体し、世界の三洋家電は中国の「ハイアール」に売却され一部の人も移籍した。消えた他社にも起業の基礎を築いた技術者が、経営破綻を機会に国外勤務する話は国内には多く 昨年のシャープにしても それは同じだろう。
残念だが、国内企業の体質には技術の価値を正しく認める習慣は少ないので 後にノーベル賞を受けた「青色LED開発技術者」の例の様に反旗を上げられるまで経営の理解はしてもらえないのだ。その点は実力本位で処遇を決める欧米・アジア諸国の方が遥かに進んでしまい 高度な技術を持つ人材は厚遇しても安い買い物なのだ。国内は、長い好景気が災いし 人材流失など夢にも考えなかった 経営側の危機意識とか人材の重要性の認識が 発達しなかったのかも知れない。
現代機器の電子回路の塊は、部品を売るだけで製造していなければ実際の内部は分からない。しかし、元は微細な印刷技術による多層(ビルドアップ基板)回路も、多層間を接続するレーザー穴加工技術も国内で発達し輸出貢献もしていたが、不況になり技術者と共に出て行ってしまったようだ。国内家電は、あっと言う間にアジア後進国に追い抜かれたが、それはアジアで活躍する消えた国内企業の人達の努力の結果が牽引したのが大きいのだろう。
高度な技術の塊は 多くはブラックボックス化され どんなに技術を学び研究しても入れず 開発に関わった者だけがそのポイントを握ってしまう、結局は企業も人なのだが 時流に乗った時の経営者にはそれが見えないのだ。
今も存続する企業は、社員を大事にしていたのかは 分からない。消えた企業はそれが出来ていなかったとも思えないのだが、人も地域もそこにいる人を大切に育てないと 滅びるのは確かだろう。
「It's」と言うのも三洋商品の新シリーズの発売に使われたキャツチだった


カメラも時計と並ぶ私の趣味だ。タロン・アイレス・レオタックス・ペトリ・ミランダ・・みな消えたメーカーだが「ペトリ35」は今も私が、「レオタックス」は弟が保管している。



神戸クリエィテブ・センター 神戸を作る75人のデザイナー・・世界中に神戸を知ってほしい ・・PR誌から
元は神戸生糸検査所の建物を利用した巨大な建物だが、関東大震災で横浜の生糸検査所が崩壊した時に 主要産業だった生糸輸出を支えたのがこの場所だった。横浜には無いと思うが、生糸検査設備が維持保存され見学できるのはここだけだ。
資料の中に「神戸の魅力は、山より海より人でした」と言うキャツチがあり 流石にこのデザイン風のフレーズは 心に響いてとても気に入ってしまった。
兎角、地域おこしと言うと 観光地がある・新規ショツピングモール・物産がある・・と言う打ち出し例が多いが 神戸人の視点は震災経験も深く関わった 他人に思いやりのあるキャツチで 少し他とは違うのだろう。
人が大切と言えば、良く売れている本紹介に「三洋電機が消えた日、シャープの崩壊」と言う記事があったが 思い返すと国内には 有名な良い企業が消えてしまったが そこで中心的に貢献していた技術者はどうなったのだろうか。
群馬の東京三洋電機本社は、仕事の関係で 企画設計・デザイン室など毎月の様に通っていた時代がある。三洋電機は関西だが労働争議で嫌気がさしたトップが米軍基地の広大な跡地(96万平方メートル)に「東京三洋」として世界の三洋を目指す拠点にした。エアコン・冷蔵庫など満載した列車が構内から毎日、国内と世界に送り出した。三洋電機が「家電立国日本」の象徴とも言われ 1万5千人の従業員の働く場所だったようだ。
洗濯機は噴流式を開発し、パン焼き機とか、シェーバーなど女性も加わりユニークなヒット商品を次々と発売し 元気で自由な会社だったらしい。当時はそこで働ける人たちを羨ましく感じたものだ。顕著な商品に充電バッテリー「エネループ」がある。今の自動車とパソコン・スマホの最重要技術だが、その中心技術者は現在、韓国サムソンに採用されてしまったそうだ。それと「it's 新社会人のための家電製品」シリーズのSANYO小型白物家電の大ヒットも記録に残るものだ。
他にも大ヒットした「家庭用パン焼き機GOPAN」も今はパナ・ブランドになってしまったが 充電電池も含めて若さと元気だった 三洋ブランドの方が懐かしい。
私にとつても、勤務先の会社の北関東の大切な顧客だったのでその思いはその猶更だが「世界のSANYO」が消えるなど 当時は夢にも思わなかったが 世の中何が起こるか分からない。
電池開発者は吸収されたパナソニックで肩身の狭い仕事をするよりも、自由に仕事の続けられる新天地 韓国・サムソンに歓迎されながら転社する道を選び今も部下と共に活躍しているそうだ。親となったパナソニックは三洋を解体し、世界の三洋家電は中国の「ハイアール」に売却され一部の人も移籍した。消えた他社にも起業の基礎を築いた技術者が、経営破綻を機会に国外勤務する話は国内には多く 昨年のシャープにしても それは同じだろう。
残念だが、国内企業の体質には技術の価値を正しく認める習慣は少ないので 後にノーベル賞を受けた「青色LED開発技術者」の例の様に反旗を上げられるまで経営の理解はしてもらえないのだ。その点は実力本位で処遇を決める欧米・アジア諸国の方が遥かに進んでしまい 高度な技術を持つ人材は厚遇しても安い買い物なのだ。国内は、長い好景気が災いし 人材流失など夢にも考えなかった 経営側の危機意識とか人材の重要性の認識が 発達しなかったのかも知れない。
現代機器の電子回路の塊は、部品を売るだけで製造していなければ実際の内部は分からない。しかし、元は微細な印刷技術による多層(ビルドアップ基板)回路も、多層間を接続するレーザー穴加工技術も国内で発達し輸出貢献もしていたが、不況になり技術者と共に出て行ってしまったようだ。国内家電は、あっと言う間にアジア後進国に追い抜かれたが、それはアジアで活躍する消えた国内企業の人達の努力の結果が牽引したのが大きいのだろう。
高度な技術の塊は 多くはブラックボックス化され どんなに技術を学び研究しても入れず 開発に関わった者だけがそのポイントを握ってしまう、結局は企業も人なのだが 時流に乗った時の経営者にはそれが見えないのだ。
今も存続する企業は、社員を大事にしていたのかは 分からない。消えた企業はそれが出来ていなかったとも思えないのだが、人も地域もそこにいる人を大切に育てないと 滅びるのは確かだろう。
「It's」と言うのも三洋商品の新シリーズの発売に使われたキャツチだった


カメラも時計と並ぶ私の趣味だ。タロン・アイレス・レオタックス・ペトリ・ミランダ・・みな消えたメーカーだが「ペトリ35」は今も私が、「レオタックス」は弟が保管している。



神戸クリエィテブ・センター 神戸を作る75人のデザイナー・・世界中に神戸を知ってほしい ・・PR誌から
