碧い山・青い海

趣味の山登りとか、技術とネット情報を照合し個人メモに・・

1911- 六甲山も全山紅葉

2019-11-30 | 日記
 神戸マラソンも終わり、大型クルーズ船寄港も一段落して 街は少し静かになったが 六甲は今 紅葉は真っ盛りらしい。
先日の、西宮の紅葉もきれいだったが 今年は急に寒くなったせいか黄色一色の銀杏も他の街路樹もとてもきれいな様だ。

 兵庫芸術センターの前の紅葉


 今日の六甲山の山並み

 
 先月撮った同じ場所の写真

1911- 新聞の存在感

2019-11-26 | 日記
 今朝も新聞を購入したが、その日にどの新聞を選ぶかは見出しを見て決めている、今日は「香港選挙の結果」の毎日新聞を買って見たら いつもより10円の値上げになっていた。
いつもは朝日か神戸新聞なのだが、他紙も今年に値上げがあり 厚みは増えても広告が増えて 読みたい記事が増えたりする訳でもない。
 今は若者を中心に読者が減り、新聞を取る家庭も減り 新聞事業の経営が成り立たなくなった結果の皺寄せそうなっているのだろう。差産経新聞も偶に購入するが、一部180円で分厚い割に 読み応えがある訳でもなく あまり手が出なくなった。地域新聞を買って、周辺の出来事を知るのには良いのだが そうなるとフリーペーパーでも事が足りるので ネットの方がニュースは新鮮に感じるし 特に世界ニュースは3大新聞よりも質は高いと思う。

 国内の新聞協会発表の、新聞発行数推移を見て思ったが 廃業新聞があって当然だと思う状況だ。ジャーナリズムは知識の先導者の筈が、いつの間にか質を落としてでも存続したいとなってしまったのだろうか。海外では20年も前から新聞社が「ネットファースト」と新聞発行を諦めてポータルサイトに力を入れ、新聞社のネット情報が充実している。
 欠かさず私も利用するが 国内新聞ニュースサイトと比較すると 権威に迎合したり制限のある記者が作るニュース・記事には表現が一般の感覚とは共感できないものを感じるからかも知れない。

 以前は一家には必ず、購読紙があったのは昭和の時代までだったのだ。「人生の価値観を決めるのは何か」のアンケートはテレビ・インターネット・新聞の順位だそうだが 若者は新聞など買わないし読まないのだ。
情報入手はネットが中心で、社会ニュースも新聞社サイトがあれば 良いし 新聞ニュースも拍手したい記事よりも 必ずしも信頼出来ないと言うのが真の原因なのかも知れない。


  


1911- 人間の脳

2019-11-22 | 日記
 サイエンスと言う雑誌に「人の錯覚」の中で 脳の記憶と言うのが 目から入る視覚情報を曲げてしまい 人の判断を狂わすと言う話が載っていた。
調べると、錯覚を起こす実験図形が 世界の科学者から沢山提案され解説も多くあった。図形を見て、実際に書かれてる配置とか長さを勘違いしたり 見えている者が消えたり 無い物が見えたり これは視力では無く覚えている脳の記憶が視覚情報を少し編集して脳に伝えるかららしい。

  脳の記憶は、小説を読む場合のストーリーは記憶が残っているから面白く読めるのだが 視覚情報が間違っているなら 過去の多くの判断してきた事にも 間違いが多かったのだろうと思った。過去には、反対を押し切り仕事もしてきた事もあったが、中には大間違いもあったのかも知れないが・・。

 正面から四角図形も 上から見ると実は円形だったと言うような見当違いは誰でも起こりそうだが パズルなら問題ないが 同じ物を見て意見が対立する事も同じことなのだろう。
何事も、多面的に見て 聴いて共に行動をして 互いを知ってから判断するなら 意見が近ずくのだろうが 現実にはそれをしないまま 一方的な判断になるのだ。

 今は何でもが、「はい、いいえで答えなさい」「賛成か、反対か」と言うデジタル社会だ。人間が不確かなので AI知能ならと言われるが これも所詮「ソフトウェア開発」は一人の技術者の頭で作られるこれも当てにはならない・・・こんな事を考え出したら、何もかもが 信用できなくなるが 人の脳は誰も解析できない厄介な代物なのだろう。

 
 ウエブ「錯覚」で調べた中の一つ・・視覚は正しいが、脳の固定概念が災いするらしい、

1911- 孤独な時間が大切

2019-11-21 | 日記
 先月購入した本が 終わり次の本を探しに本屋さんへ。
以前、毎月買っていたパソコン雑誌は廃刊で数少なくなったが 今月の新刊も過去のテーマの焼き直しで新鮮味がなく読む気が起こらない・・今の時代、過去の延長路線では残ったこれも廃刊になるのかも。
 ビジネス誌のコーナーで、プレジデント社の「孤独を100倍楽しむ」と言う雑誌を見つけて購入した。ベストセラー・コーナーも分厚い翻訳本「ホモサピエンス」もあったが 以前読んだ著者なので今回はハス。

 プレジデントは月刊誌だったのだが、今はタイトル別に分冊化され毎月五冊程を発刊しているので 購入者は興味のある部分だけを選べるので便利だ。本業界も過去の分厚い月刊誌だけでは生き残るのは困難なのだろう。
最近国内統計で「国内の一人暮らしが四人に一人になった」と知ったので このタイトルを見つけた時 是非読んでみたいと思った。

 マスコミは「孤独になる」のはどれも人生にとって寂しく不幸な事として 伝えられているが この雑誌の内容は「人間はもともと孤独が常態であり 自分で考え行動する基本が必要不可欠」、「和して同ぜず」という主張が中心だ。
既婚者で作家五木寛之氏が「良い合唱に人が感動するのは、一人一人が自分のパートを夫々に微妙な違う声で歌っているからで 全員が均一の声だったら心には響かない」と言う話は、作家活動は一人で考える趣味を極めた人だし今は家庭を持つ某アナウンサーは 独身だった過去を振り返えり、一人時間があり困った時代に自分は成長できたと言う回想録は目的を持つ人はそれが必要不可欠であり 元々は 一人で生まれ一人で死んで行く人間は 孤独が自然の姿なのだと言うのも 人は自立して自己責任で生きるのも当然のことでそうありたいと思う。識者の言う独り時間と 言うのは孤独たは違う「人間には一人時間が大切だ」と言う意味だ。

 家族があればこそ、互いに支え合い 互いに尊重して暮らせば 夫々の自由で自分らしい生き方も実現出来ると思うが 子供部屋を与えられ孤独に慣れ 人との連携が不器用に育てられた結果が若者の一人暮らしが増えたこともありそうだ。他の多数の「自分の居場所を作る、趣味を極める、起業は楽しい」と言う記事も多くあったが「自由で好きなことに集中出来〇〇を成し遂げた」とか「私が寂しくない理由は・・」の様な 孤独自慢に思えてしまうのたが 私には 「孤独は寂しくなんかない」と虚勢を張っているのではないかと思えてしまった。

 現在はメール・チャツトで、多くの友人周りにいる・と言うのだが これも「私は孤独ではない」という別表現だろう。逆にチャツトなどする暇が無い人は孤独ではない人なのだろう。
20年先、2040年は、経済的な背景とか 伴侶が見つけられず未婚者も離婚者も増え続け人口の39%が一人暮らしになると言う統計が出ている。周りの半数が「不運だ・寂しい」とマイナーな気持ちを持った世の中などとても暗くて想像もできないが このテーマも 今の世の中を反映していると思うが この国は小さな島に連帯することで存続して来たのに 今の下降経済状態下の中で豊かさの我儘がその原因なのだろうか。

 プレジデント社の分冊化した雑誌の一部



1911- 東北の紅葉

2019-11-17 | 日記
 神戸の街路樹も六甲山も 今は紅葉真っ盛りだが 寒い北の紅葉にはとても叶わない。
神戸からなら、スカイマークで沖縄も東北も1時間強で簡単に行けてしまうので紅葉には 少し遅いかもと思いながら仙台空港からバスの東北小旅行に行った。
 宮城県から 秋田・岩手・青森まで日本海側の山形を除く東北四県 約300kmの距離をバス往復する二泊三日で これは高齢者には少し慌ただしい計画かとは思ったが・・旅行計画は結局は欲張りが人気なのだから。

 十和田湖を望む発荷峠では初雪にも出会ったが 白い山と 運良く紅葉も見ごろで 天候も恵まれて普段 縁の薄い東北地方を堪能できた旅で 夫婦とも一度も行った事の無かった「平泉金色堂・角館 武家屋敷」も観ることが出来た。
私は、仕事では山形・秋田・仙台、更に北海道まで何度も仕事では訪れていたが 流石に観光地は一度も見たことが無かったので特に歴史を重んじ 古い建物を大切にする気持ちも含め素晴らしいものを感じた。

 松島も伊達家の歴史が残り、中尊寺は秀吉のスパイと言われた松尾芭蕉が通い、角館は芦名義勝と言う武将が作った京風の城下町だったが 1867戊辰戦争とか、1871廃藩置県で群制が南の大曲に移され孤立した城下町の歴史があつたそうだ。何処を周っても、平安朝の平家源氏の争いに翻弄された歴史が残り 立派な寺院群とか大根漬けの「いぶりがっこ」に代表される冬の質素な伝統食に見られる 豊かではないが質素さ・豪雪の備えと緊張感、歴史を重んじ誇り高い精神が伝わってきた気もした。
 有数の米どころなので、秋の派手な祭りも多彩らしいが、南の九州・四国の様な明るい感じではなかったのもその性だろう。白い岩手山を背景に、冬に備えたスキー場の準備が既に出来ている様だった。
何も考えずに暮らしている自分たちの日常を振り返りたくなる こんな旅行も偶には必要なのだ。

 十和田湖の奥入瀬にも 角館の武家屋敷にも松島でも 行く先々に 外国観光客が多くいた。多くは観光バスで来た団体らしいが、ガイドは自国の方で 少し観る場所が日本人とは 違うのに違和感があった。
今は、日本の何処の観光地でも似た感じがあるのだが、大量の外国観光客に日本人ガイドも不足して 対応できず正しい日本感を伝えられていないのかも知れないと残念に感じるからだろう。
 しかし、外国語表示も無く交通も不便な地方の隅々まで来られる異国の人達も 日本の秋の紅葉と原風景に誰もが感動して帰るのには間違いは無い。

 松島の円通院境内の紅葉


 角館の町も


 松島 瑞巌寺前で注文した「あなご丼」・・伊達政宗の連想らしい?