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松永史談会11月例会のご案内-第一報-

2023年11月01日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会11月例会のご案内-第一報-

開催の日時と場所
11月24日 喫茶「蔵」2階
話題 網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの手始めとして、11月例会では 環シナ海経済文化圏に関わる問題を提起。

○渡邊 誠 「胎蔵寺本尊胎内施入の元版本『大乗妙法蓮華教』について」芸備地方史研究303 2016の吟味を兼ねて、瀬戸内地方でのInter-regional( 相互地域的)な視角のあり方について考えていく。渡辺には本論攷の続編:渡邊 誠  「備後国の臨済宗法燈派(安国寺・常興寺・善昌寺)についての補訂」芸備地方史研究309,2018、1-16頁がある。ここでは宗派図を増補し、招来した経典類を一般輸入品としてではなく留学僧の持ち帰りもの(一種の土産物)と言いたげである。なお、山手三宝寺(伝杉原一族の墓が少々)の話題は登場するが、大檀那杉原氏(坊さんたちのスポンサー達)自体の動向に関しては沈黙。

参考事項)福山市北吉津町・胎蔵寺胎内施入物 

真言宗大覚寺派胎蔵寺(地図)について(全文引用↓

「胎蔵寺は、正式には「松熊山(しょうゆうざん) 阿釈迦院(あしゃかいん) 胎蔵寺(たいぞうじ)」と称し、京都・嵯峨野の 大本山大覚寺を本山とする、真言宗大覚寺派の寺院です。現在の広島県庄原市西城町に創建された寺で、中世には七坊を数える大寺院であったとされています。現在その地は「胎蔵寺跡」として庄原市の史跡となっています。胎蔵寺山門の屋根を支える蛙股の中に刻まれている紋は、西城に居城した宮氏のもので、胎蔵寺が西城より移建されたことがうかがえます。江戸時代初頭の慶長年間(1596~1615)、福島正則の時代に西城町から福山市神辺町へ寺地を移転し、福島丹波の祈願寺とされました。」『水野記』(寛永期社寺温改めの結果)には吉津に移転し、そこでは一向宗・成興寺、本尊は釈迦三尊と記載、その後寺の名称が胎蔵寺に変更され現在に至るようだ。本堂にまつられる本尊は、胎蔵寺の本尊ではなく、福山城地に築城以前にあった「常興寺」の本尊を胎蔵寺の本尊として移されたもの。毛利氏以後の大名たちによる寺院つぶしの強引なやり方が痛感されよう。つまり、現在の胎蔵寺の本尊は今はなき常興寺のご本尊という謎(転用・廃物利用)を秘めた代物だ。なお、鞆安国寺のご本尊(善光寺式阿弥陀三尊)は1273年に造られた元金宝寺のご本尊。ここでは胎蔵寺のケースと異なり、足利尊氏の時代(1339年)に寺の名前だけを安国寺に変更したらしい。松永史談会の関連記事、例えば「新庄つる木浦新考」(2022年11月例会)
中世塩浜考-「文安3(1446)年備後国藁江庄社家分塩浜帳」を巡る比較文化論-(2020年1月例会)
(「法人類学視点から見たオランダ領インドネシアの中国銭についてーインドネシアの慣習法典(Buku awig awig subak)を読むー」2023年2月例会)

続「中世歌島荘研究の成果と課題」(2023年5月例会)庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-(2023年6月例会)
古くは「『戊子入明記(ぼしにゅうみんき)』を読む”」(2018年8月例会)

◎宮本常一「瀬戸内海文化の基盤」、民族学研究26-4、1962、237-257頁(→貴重な成果だが、かなり陳腐化)。

草戸千軒遺跡から出土した舶来陶磁器事例と胎蔵寺(旧深津郡椙原保・常興禅寺本尊)仏像胎内施入経典の印刷先(浙江省杭州)、寧波は尾道発の日明貿易船(15世紀)の中国側入港先。

杭州龍興寺の刊経活動

杭州@googlemap、天台山国清寺

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