・・・ 漱石と俳句 ・・・
9月9日 ☀ 折々のことば 鷲尾清一
涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣くことのできる男だという嬉しさだけの自分になる。 夏目漱石
昨日の「折々のことば」にわたしは驚く。文豪・夏目漱石が俳句を一句を作った時の苦しみの涙とは。「おれは泣くことのできる男だという嬉しさだけの自分になる」とは何ともテンションが高い。漱石は短歌は数百首も詠んでいるが俳句は百句はほどらしい。山本健吉編書「句歌歳時記・夏」には夥しい句が載っているが漱石の作品は見当たらない。彼の親友・正岡子規の作品は数多く掲載されている。「俳句には俳句の領域」と言っていた漱石は小説は書けても俳句はなかなかできなかったのか。
鷲田清一は次のように書いている。
どんな苦境も、その景色を「一幅の画」として見たり「一巻の詩」として詠めば抜け出せると、語り手の画家は言う。ありもしない不幸を描きだしそれに悶える自己を嘆くのではなく、「自分の死骸を、自分で解剖」するかのようにまずは情感を定型に象るべしと。そんな境地があるならいつか立ってみたいものだが。小説「草枕」から。
わたしの歌友に俳句も作る二刀流がいる。自由詩も作る三刀流もいる。たっぷり才能がある彼女たちが羨ましい、でも、さほど成功していない。歌人たちが切磋琢磨しているとき、守備範囲が広すぎると負担が重くなるのではないか。幅広い教養は大切だが、プロとして成功するには、あれもこれもと手を広げるのはシンドイ。漱石は小説に専念するため俳句も短歌も深入りしなかったのか。今人気の某野球選手の二刀流はカッコイイ、順調な今はピッチャーとしてホームランバッターとして活躍している。大けがをしないように、、。
9月10日 松井多絵子