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『姑獲鳥の夏』読了!(ネタバレ必至)

2008年01月09日 22時53分20秒 | おすすめ
先週末から読み始めていた『姑獲鳥の夏』を読み終えた。本当はもっと時間を掛けて読むつもりだったのであるが、あまりの面白さに時間が経つのも忘れて読みふけってしまった。

これを読もうと思ったきっかけは、昨年末に池ぴょんさんたちと見に行った映画『魍魎の匣』を見た時に作品の完成度の高さに恐れおののき、原作を読んでみたくなったのであるが、どうせ読むならと処女作である『姑獲鳥の夏』から読み始めたというわけである。

『姑獲鳥の夏』も映画は既に見ているので、「憑物落し(つきものおとし)」である中尊寺秋彦こと京極堂が主人公であることは知っていたが、ここまで奥の深い小説だとは想像だにしていなかったので正直言って驚かされた。


物語の前半部分においては、専ら関口と京極堂のやりとりが中心に進んでいくのであるが、ここで語られる「脳と心の話」は「記憶」「仮想現実」「記録」「事実」「存在」という幾つものキーワードによって、ダラダラと語り続けられている。

そして、一見無意味に思われる2人の問答こそが実はこの物語の全編において、まるで通奏低音のように現れる主題そのものなのである。しかしながら、周到に用意された幾多のパラドックスにより隠蔽され、物語の最後の最後になってその仕掛けに気付かされる。そこに気がつかされた瞬間の爽快感は筆舌に尽くし難いほどの衝撃が脳内を走り抜けるのであった。

ここでいう幾多のパラドックスとは、本来、密室にあるべきはずの死体が存在しないという密室トリックにおける「不在」のパラドックスであり、見えないものを見る能力のある榎木津と見えないものを見る能力がない関口による「可視不可視」のパラドックスであり、物語中盤で事件が解決しているはずなのに、読者にはその理由が明らかにされず後半になってその事由を知るも、まだその時点に於いては衝撃の真実が明らかになっていないという「事件解決」のパラドックスである。

特に後半、全ての謎が一気に解き明かされる部分は、おぞましくも鮮やかであるし、二重人格ならぬ多重人格はコインの裏表で人格が形成されているのではなく上位構成によって形成されているというところは見事だと思う。それぞれの不在の立場における「視覚と記憶」の関係こそが、まさに、この物語のベースとなっている「心と脳」との相関関係そのものを投影しているのである。

しかも、それらの人格相互における「視覚と記憶」の齟齬は「可視」と「不可視」によって見事に整合性が図られ、この事件の全容を複雑なものに仕立て上げている。だからこそ、事件の依頼人がその事件の犯人であることが可能になるのだろう。これもまたパラドックスなのである。


・・・ちょっとまた書き過ぎたかも。


最後の最後になって、「姑獲鳥」は実は二十月もの間子供を身籠っていた梗子ではなく姉の涼子であるということが明らかになる。

『姑獲鳥はうぶめになった』

この一文で、それまでのテンションは一気に解かれ、我々読者は関口巽と共に平和な日常世界に向けて少しずつ歩き出すのである。

奇しくも、私がこの物語を読了した今日1月9日という日は、事件の鍵となった藤野牧朗が失踪したその日であり、牧朗が死亡したその日なのである。これは、ただの偶然なんだけれど、何となく『ああ、57年前の今日かぁ』と無意味な感傷に浸ってしまったりしているのである。

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