Yeah man , How'ya doin'?

押入れの中を探っていたら1990年に書いたジャマイカ旅行記とインド旅行記が見つかった。

文章は1990年に書き、1994年ごろに電子データにしたものを発見したわけ。
ジャマイカ旅行記は12話、インド旅行記は18話(途中で終わってる)。
これらはある広報媒体の裏面が白紙で寂しいなぁと思い、勝手に載せていたもので、
1991年から1996年にかけて東京都の中の3000世帯くらいに勝手に送付したことになる。

今の状況は…
自転車乗れないし、ネタもないし、PCも控えなくちゃいけないし。
そんな時にありがたいものが見つかった。
まず自分が懐かしく読んだわけだけど、感性が青いッスね。
きゃっ!って感じです。
まぁ、ネタのないときにちょぼちょぼ使うようにしよう。

とりあえず、ジャマイカ旅行記-その1

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ジャマイカ旅行記INDEX


1988年ジャマイカを旅行した記録。
1990年に文章にして、恐らく1994年ごろフロッピーに保存した。
ここには当時のままの文章を載せている。
ブルーの字は1994年時点の注釈。

【INDEX】
第 1話 アフリカンマン・ンジュガ
第 2話 Respect Brother
第 3話 LONDON DEE WASHINGTON
第 4話 400years
第 5話 不法占拠
第 6話 ラスタマン・チェスター
第 7話 MO-Bay to Kingstone
第 8話 PORT ROYAL
第 9話 Accident
第10話 PINEAPPLE PLACE
第11話 Back to Mo-Bay
第12話 Good-bye JAMAICA

ジャマイカの地図は こちら から
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『アフリカンマン・ンジュガ』ジャマイカ旅行記-その1

1988年12月、厳寒のニューヨークの旅行代理店でジャマイカ行きの安チケットを手に入れた。

ジャマイカは憧れの国、カリブ海に浮かぶ島。
400年前、奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人の一部は、
ここのサトウキビ畑のプランテーションで働かされた。
黒人たちの文化を殺し、彼らに過酷な労働を強要し、
白人たちは豊かな暮らしを築き上げた。
物質至上主義、功利主義の原理が支配する世界で、
黒人たちには劣等感だけが根付いていった。
白人優位の思想、唯一白人の価値観だけが正義だという思想だ。

ところが60年代、

この島にボブ・マーリィーを始めとするレゲエという音楽を携えた表現者たちが現れた。
もちろん彼らの前にマーカス・ガーベイら偉大な思想家や音楽面での先駆者は多くいたが。
物があることが即豊かなわけじゃない。
誰もが皆愛し合い、信じ合い、助け合い生きることが豊かなことなんだ。
アフリカの黒人社会はそれを持ち、平和に生活していたのに、
そこへ白人たちが武器を片手にやってきた。

思いだそう! アフリカに帰ろう!

そんな思想を黒人独特のリズムでメッセージする。
黒人意識運動。
価値観の多様性を認めよう!
黒人意識運動の力は武器ではなく音楽。
やがてレゲエは黒人社会だけではなく世界中へ拡がっていった。
世界中を放浪する旅人やヒッピーへ。
ネパールやバンコクでも街はレゲエでいっぱいだった。
豊かな心の人には解るメッセージだから。
武器を持たない虐げられた人たちや、物質至上の世界から落ちこぼれたり、
敢えてそこから抜け出した人たちに拡がっていった。
現在の『ダンスホールレゲエ』にはメッセージ色が少ないが、
ここで書いているレゲエは『ルーツロックレゲエ』のこと

ボブ・マーリィーは1981年36歳で死んでしまった。

そのジャマイカに飛んだ。
機内でタバコを吸っていると隣に座り声をかけてきた男、
「やぁ、調子はどうだ?(Yeah man,How’ya doin’?)」
アフリカのセネガル生まれのンジュガという黒人だった。

貧しい家庭に生まれたが、独力でアメリカの大学に留学した長身の青年だった。
そのことがきっかけでこのンジュガとのジャマイカ旅行が始まった。

僕は以前、金融業界の営業をやっていた。
エリート意識の高い、その割には何の個性もない先輩、同僚ばかりがいた。
僕は、と言えば金曜土曜は新宿のレゲエのかかる飲み屋で
黒人たちや世界中から来た旅人、不法就労のアジア人たちと飲んで踊って騒いでいた。

ある日の昼休み、会社の先輩がソウルオリンピックの話題で
「黒人は結局走るしか能がないからな」と言っていた。
この人はバカじゃないのか?と思った。
彼はかつて一人でも黒人と付き合ったことがあるのだろうか。
彼が「一人の人間」として黒人に優れているものがあるのだろうか。
彼が黒人より優れていると思っているのは、
経済至上の世界でたまたま日本に生まれ、
たまたま現在の日本に住み、
その日本人の一員として物質的には黒人よりいい暮らしをしているだけ、という勘違い。
錯覚。
黒人たちには400年の理不尽な暗い歴史があった。もともとの価値観だって違う。
一対一の人間では優劣なんてない。
『日本人』を隠れ蓑に黒人を劣っていると看做す寂しい人たち…。
でも、これが大多数の日本人。知らず知らずのうちに教え込まれてきたこと。
多くが考えようとしない。だから、同じ次元でアジアの人々をも見下す。

新宿のレゲエバーで飲んでいたとき、
飲み友達のアフガニスタンの友人数人と
これまた飲み友達のジャマイカ人数人の間でちょっとした諍いがあった。
店の外に出て大声で口論を始めた。
そこへパトロールの警官がやってきた。
押し合いはしていたが殴り合いにはなっていない状況だった。
警官は不法就労の摘発か何かの目的が叶うのか、
ここで収めることをせずに本署に無線で応援を頼んだ。
その警官は何と…

「新宿2丁目路上、クロンボ同士の殴り合い発生・・・」

そう言いやがった。

これが日本の中央。
白人に道を訊ねられたら、しどろもどろでヘラヘラしちゃうくせに。

僕は黒人に憧れている。
リズム感、運動神経、創造性、ナイーブさ、明るさ…、
何をとっても今の日本人の平均よりはるかに豊かな人々のように思われる。
この青年ンジュガは7カ国語を話すことができた。
セネガルの言語、宗主国のフランス語、ドイツ語、イタリア語、
イスラムなのでアラビア語、英語、スペイン語。
僕はこの旅行でンジュガに圧倒され、多くのことを教えられた。
ンジュガといい時間を持った。
(wrote in 1990)

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『Respect. Brother.』 ジャマイカ旅行記-その2

ジャマイカのモンティゴベイ空港に降りた僕らは早速宿探しを始めた。

僕らのような旅では次の街に着いたら最初にすることが安宿探しだ。
見つからなければホームや店の軒先で野宿になってしまう。

ジャマイカはアメリカの白人たちの避寒地で、
誰のものでもないはずの海を囲って『プライベートビーチ』だ、
なんて格好つけてる高級ホテルが建ち並ぶ。
まるで今も続く植民地。
高級ホテルに泊まって「海が青くて綺麗だね」なんて言っている奴らには、
そこに住んでいる人々の生活は見えてこないようだ。
フィリピンやタイの海辺に建ち並ぶリゾートホテルとそこへ押し掛ける日本人観光客。
彼らの1ヶ月分の収入を2~3日で使って、
それでも「安いんだよ」などと言っている。

似ていると思った。

そんな中でやっと見つけた安宿Uホテル、
僕とンジュガは別々に部屋を取りアタックザックを下ろした。
ンジュガはイスラム教徒で朝5時に起き礼拝をするというので同室は勘弁願った。
何かされても困るし。
早速旅装を解き、大都会ニューヨークの汚れをシャワーで流し、
僕らはダウンタウンに繰り出した。

ダウンタウンは海から続く路の上にあった。

海は真っ青で、辺りには原色の花が咲き乱れていた。
ジャマイカの街は色と音と匂いと、そして人々の笑顔の洪水だった。
大音量でレゲエが街中に流れ、
人々は道端で座って話したり踊ったり叫んだり走ったりしていた。
インドの街に似てとても猥雑だった。
だけど東京の無表情さよりよっぽど落ち着けた。

海の方を見るといくつかの高級ホテルが見えた。
あの中にビヤ樽のようなアメリカ人夫婦がいて、
ワインで乾杯をしているのかと思うと悲しくなったね。

ンジュガと街を歩いていると人々が陽気に声をかけてくる。

「Yeah man,How’ya doin’?」

背が高く、ジャマイカ系の黒人と顔つきの違うンジュガは目立つ。

どこから来たのか訊ねられるとンジュガは言う、
「I’m African-man. From Senegal.(俺はアフリカンマンさ、セネガル生まれだ)」
そうすると彼らが必ず言うんだ。

「Respect. Brother.(尊敬するよ、ブラザー)」

やられた、という感じだった。
ジャマイカの人々は昔アフリカから強制的に連れてこられた黒人たちの子孫。
彼らのルーツはアフリカなんだ。
彼らは互いを兄弟と呼び尊敬し合う。
素敵だと思った。
僕はニューヨークの街を手ぶらでほっつき歩いていた。
そんな時よくアメリカ人から「中国人?」と聞かれた。
僕は判っているつもりでも、つい「違うよ、日本人なんだ」ときっちり訂正してしまった。
それを言ったあとで寂しい気持ちになった。
ジャマイカンのように「僕は中国人ではないけど彼らは兄弟さ」と言えたら良かった。
僕ら日本人ってのは優れた民族で、
他のアジア人の民族より上なんだと無意識に教えられてきたんだ。
幼い頃からの社会環境と教育の力かもしれない。
その考えが大戦でアジアの血と地を踏みにじり、日本で強制労働をさせ、
被曝すれば切り捨て、厄介だったと朝鮮の人々を樺太に置き去りにした。
反省もせず虐殺も慰安婦も認めず、今も続く在日韓国人、朝鮮人への差別。
アジアへ安い労働力と市場を求めてのなりふり構わぬ進出。
日本では許可されない公害工場はアジアの地へ。
彼らの大地に日本人のためのリゾートを作る山師たち。
彼らの貧しさを利用し、日本企業を一層太らせるODA。
そしてアジアの貧しさを偽善者ぶって憂う。

本当に貧しいのは誰だ?

アジアの国々を放浪していたとき、
いつも思ったのは自分自身を含めた日本人の貧しさだった。

「Respect. Brother.」
あるいは一言、
「Respect. 」

悲しい歴史を持つ黒人独特の挨拶。
それは、今の時代の日本人のあり方を考えさせてくれるきっかけになる言葉だった。

僕とンジュガはバイクで現れた少年トニーに連れられて、
ダウンタウンのはずれのレゲエバーにビールを飲みに行った。
(wrote in 1990)

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『LONDON DEE WASHINGTON』ジャマイカ旅行記-その3

朝、ンジュガのノックの音で目が覚めた。

「マーサ、コーヒー飲むか?」
ンジュガはモスリム(イスラム教徒)だから早起きだ。
トニーに連れて行かれた店『Gold Finger’s Place』で
ジャマイカ人と飲みに飲んで踊って、二日酔いだ。
ンジュガの部屋でコーヒーを飲む。
「マーサ、ダウンタウンに散歩に行こう」
元気な奴だ。
「二日酔いだよ(Hung over)、シャワーを浴びたい」
「OK、ビーチで待ってるよ」
シャワーを浴びて海岸へ出る。
ビーチと待ってると言ったって目に見える範囲が全てビーチだ。


1時間ほど探すが見つからない。アバウトな奴だと思った。
東京だったら
「○時○分に××駅東口改札の外のキヨスクの横でな。」
なんて待ち合わせをするのに、
ここでは「Beach」の一言。

実際トニーにしろ、その後に出会うビッグマンにしろ
ジャマイカ人たちと待ち合わせをするときは大抵こんな感じだった。
「いつ行けばいい?」
「夕方」
「どこで?」
「この辺にいるよ」
…結局会えなくてイライラするのは日本人。
ここには秒や分で仕切られた時間はない。
自分たちが時間を創っていくのだ。
僕らの国では時間(それも秒単位だ!)に縛られ息もつけないでいる。

こっちもンジュガ流にというか、ジャマイカ流に待ち合わせを諦める。
いいさ、夜になれば会えるだろう。
ビーチでダウンタウンから遠く流れてくるレゲエを聴きながらボーっとしていると、
「お前、日本人だな」と声をかけてきた男。
名前を聞くと「ロンドン・ディー・ワシントンだ」と言う。
ふざけすぎたニックネーム。
体格のいいTシャツの胸が張った青年だった。
2人で川沿いの止まり木だけのレゲエバーに入る。

彼らは宗教のお話が得意だ。
「お前、仏教徒か?」


「仏教徒じゃないけど仏陀は好きだよ」と答える。
インドを旅しているときに携えていた岩波の分厚い文庫「ブッダのことば(中村元著)」、
あの過酷な大地ではすんなりと胸に入ってきた。
「俺も仏陀は好きさ」
そして
「キリストも好きさ」とも言う。
彼はこんなようなことを淡々としゃべっていた。
“仏陀は本当のことを言っている。全てのものの中に神様がいるってね。
花の中、木の中、風の中、このビールの中にもね。
そして俺たちのハートの中にも神様がいて、それを見つけなさいって言ってる。"
花や木や風の中、ましてやビールの中に神様がいるとは言っていないような気がするな。
だけど1人1人の心の中に神様がいる(1人1人が即に仏である)と言ったのは
多分本当だ。

さらに言う、
「キリストの言うことも本当さ。聖書に書いてある。」
彼は続けた、
“仏教の国ジャパンやキリスト教の国アメリカはどうしてバビロンなんだ?
本当に仏陀を理解していれば、キリストを理解していれば世界は善くなっていくはずだ”
この人たちは知っていると思った。
鈴木大拙氏は禅をヨーロッパに広めたが、
彼はキリスト教も仏教も本質的には近しい宗教だと理解していたような気がする。
ボブ・マーリィーに魂を開放された人々は、僕らより幸せに生きる方法を知っていると思った。
しかし、彼らは世界を動かしていない。
世界を動かしているのは、
『金』と金を操ることだけに長けたバビロン(聖書の中の悪徳都市)の住人だ。

彼らの全人類的な悲しさやもどかしさが、彼の目から伝わってくる。

「マーサ、俺はお前に俺たちの住む街を見せてやる。ついて来いよ。」
ビールはロンドン・ディー・ワシントンがおごってくれた。
朝食も食ってなかったけど僕は興奮していて気にならなかった。
ダウンタウンを越えて、海から続く坂道を僕らは登っていった。


インドを旅した1987年4月、
某総合商社と某銀行の共同出資のリース会社
(飛行機、船舶からファックスまでの動産を所有しリースする会社)に新卒で就職。
ジャマイカ旅行は2年目の年末に16連休を取得して行ったのだが、取得までが大変だった。
特にお堅い銀行の方では波乱を呼んだのではないかな。
「金融業界の常識にない」、「新人は滅私奉公」、「前代未聞」って感じかな。
自分の部の部長が総合商社の出身で、
アフリカや南米に駐在体験があったため多少の理解が得られたのではないかと思っている。
その後、仕事の内容に対する自分自身の葛藤と旅への欲求が高まって、
ドロップアウトしてプー太郎になり酒問屋でアルバイト。
金を貯めて当時同棲中だった妻と2人でインド・ネパールなどを3ヶ月近く旅をすることになった。
(wrote in 1990)

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『400years』 ジャマイカ旅行記-その4

リッチモンドヒルホテルは海から続く坂道を登りきった小高い丘の上にあった。

避寒に訪れたアメリカの白人たちのレンタカーでパーキングは満車だった。
ホテルの門からコテージに続く長いスロープをロンドン・ディー・ワシントンと登っていく。
テラスのテーブルに腰を降ろすと青い海が一望にできた。

坂道を登り詰めて疲れていた。
汗がドッと噴き出す。
僕らはビールをオーダーした。
ボーイが恭しくビールを持ってくる。

リッチモンドヒルかぁ…。

ビールを飲み終え一息つくと彼が
「さぁ、マーサ、俺たちの住む街を見せてやるよ。」
と言って歩き出した。
勘定は今度は僕持ちだ。
ロンドン・ディー・ワシントンの背中を見ながら中庭を抜ける。
海とは反対側の斜面にでた。

そこから臨む向かいの山の斜面…

そこにはへばりつくように建っているマッチ箱のような家、家、家があった。
遠くに見える家からは炊事の煙が立ち上る。
子どもたちの声や犬の声、生活の音、
ボブ・マーリィーの歌うレゲエと一緒に風に乗ってかすかに流れてきた。

“One Love , One Heart , Let’s get together and feel al’right.”
大きな1つの愛、1つの心、みんなで一緒に共有しよう。
そうすれば心が豊かになってくる

“マーサ、俺たちは金がない。
昔(400年前のこと)、俺たちはやはり金がなかった。
だけどアフリカの大地には金がなくても豊かな暮らしがあった。
動物たちともうまくやっていた。
俺たちは奴隷として、このジャマイカに連れてこられた。
そして白人たちの建てたこんなホテルを見ながら暮らしている。
俺たちは選べなかったのに金がなくて貧乏だと言われる。
金なんて本当は必要じゃないんだ。”

こんな内容のことを彼は静かに語る。
ジャマイカ人の英語は相当に崩れていて、
例えば「俺たちは選べなかった」は「Me no choice.」なんて言う。
抑揚はないが独特のビートで単語を区切りながらしゃべるので聞き取りやすい。


リッチモンドヒル…。

僕らは金を持って何をやろうとしているのだろう。
海外の不動産に投資し、会社を買収し、
自然の豊かなところにはそれを壊してリゾート施設を建てる。
金なんて方便でしかなかったはずなのに、今は金が目的になってしまっている。
寂しい生き方だと思う。
バブル全盛期のころに書いた旅行日記です。
この2年後にバブルが崩壊していく。

僕は彼らに対する申し訳なさでいっぱいになってしまった。
しばらくロンドン・ディー・ワシントンと2人、彼らの住む街を眺めていた。
山の急勾配の斜面に不法占拠で建てられたマッチ箱のような家をシャクスと言うらしい。

「マーサ、ラスタマンに会いたくないか?」
ラスタマンとは(精神的に)故郷のアフリカに帰ろうという思想、
ラスタファリズムを信仰(?)としている人たち。
長く伸ばした髪の毛を束ねた(ドレッドロックス)風体で、
酒もタバコもやらず、加工食品も食わない。
自然の恵みを大切にし、無駄な折衝もしない。
トーキョーやニューヨークをバビロンと呼び、
そこに住む人々は悪魔に魂と人間性と時間と自然を売ってしまったのだと言う。
ボブ・マーリィーたちが現れるまでは、
彼らも叶うはずのない白人たちの暮らしを羨望し、
カメラや車、テレビに憧れ、心を奪われていたはずだった。
そんな人たちがラスタマン。

「会いたいな、連れて行って欲しい。」

“ある人種を優れているとみなし、他を劣っているとみなす、
そんな思想が最後には永久に信用を失い、捨て去られない限りは、
どこにでも戦争は起こる。
すべての国から特権階級と一般市民という違いがなくならない限りは、
人間の肌の色の違いが瞳の色の違い程度の意味しか持たなくならない限りは、
どこにでも戦争は起こる
…(略/ずっと続く)…
◆エチオピアのハイレ・セラシエ皇帝の国連での演説/ボブ・マーリィー「War」
この演説を前後して、アフリカ諸国が次々と独立国家となり、
植民地主義の鎖を400年かけて断ち切った。
また、ボブ・マーリィーは歌と思想で間接的にジンバブエ(旧ローデシア)を独立させ、
独立式典に招かれ「ジンバブエ(石の家)」を歌った。

(wrote in 1990)

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『不法占拠』 ジャマイカ旅行記-その5

「ラスタマンに会いに行こう」



ラスタマンはルーツマン(Root=根)とも呼ばれ、
(精神的に)豊かなアフリカに帰ろうという信条を持った男(女)たちのこと。
髪は切らず、数本ずつ束ねた風体。
神や自然の恵みに感謝し、自然が与えたものだけを食す(加工食品や肉食を拒む)。
バビロンのように人間性を犠牲にしながら便利さや効率を追う生活を求めるのではなく、
400年前アフリカにあった『和』を大切にする豊かな暮らしに戻ることを理想としている。
僕らの社会は物質至上主義、功利主義に毒され、今危機を迎えている。
僕らの危機、僕らだけならまだしも、
平和に自然を友とし敵としながら生きている人々の上にもそれを押しつけてしまった。
原発、オゾン層の破壊、地球の温暖化、砂漠化、彼らの食糧を奪い生活を破壊する。
彼らは何も悪いことをしていないのに…。
半径1000mで完結する生活。
僕らの住む国は本当にバビロンかも知れない。

ロンドン・ディー・ワシントンと共にジャマイカの強烈な陽射しの中を海に向かって歩き出す。
ダウンタウンを越え、いくつかの市場を通り抜ける。
どこの市場もその国の文化や人間性を表していて面白い。
大きな大きなテント小屋は人々でごった返していた。
香辛料売りのオヤジの店の隣は電器部品などのわけの分からないものを山のように置く店。
八百屋も大きなずた袋の中に野菜がドドッと入っていて量り売り。
こんな市場の中にもレゲエが流れている。

ゴチャゴチャしているけど
「一つの秩序」
という感じだった。

市場を通り抜け線路の上を歩く。


ジャマイカ唯一の鉄道は、このモンティゴベイと首都キングストンを結ぶ。
この線路の先にボブ・マーリィーの音楽を生み出した街、トレンチタウンがあるんだ。
鉄道はまるで廃線のようで、両側には草が生い茂っていた。
背丈ほどの草の合間に小屋が見えた。
竹や板切れ、トタンで造られた小屋はどれも様々に赤、黄、緑の3色で塗られていた。
ラスタカラー、アフリカの色だ。

赤は人の血、
黄色は太陽、
緑はアフリカの大地。

ロンドン・ディー・ワシントンが言う、「あそこにラスタマンが住んでいる」


線路際に建てられた小屋はもちろんどれも不法占拠だろう。
その中の一つに彼が入っていった。
僕も続いて入る。
明るすぎる強烈な太陽の下から中にはいると真っ暗で何も見えず、
板切れの隙間から午後の陽射しが洩れてきていた。
もちろん彼らの生活に電気はない。
日が昇れば起き、暗くなれば眠るのだろう。
時間が経つと目が慣れてきた。

「チェスター、調子はどうだ?」
ロンドン・ディー・ワシントンが奥へ声をかける。
「Not bad.(まあまあさ)」
姿を現した男はまさにラスタマンだ。
束ねたドレッドロックスはライオンのたてがみのようだった。
「こいつはマーサ、日本から来た」
「俺はチェスター、アフリカから来た(from Africa)。気楽にな。」
「よろしく、チェスター」
カッコよかった。
笑顔がもう最高だった。

目を覚ませ! 立ち上がれ!
自分自身の権利のために立ち上がれ!
宣教師たちよ、天国がこの地上以外にあるなんていう、そんな嘘(慰め)はやめてくれ。
人生がどれほど価値のあるものなのか、あんたたちは知らないのさ。
人生の価値が分かれば、あんたたちは自分自身でそれをこの地上で探すはず。
さぁ、啓示は受けた。自分自身の権利のために立ち上がれ!
◆Get Up Stand Up
人権が抑圧されたジャマイカ社会のアジテーションソングは、
やがて第三世界の国々へ…
(wrote in 1990)

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『ラスタマン、チェスター』 ジャマイカ旅行記-その6

竹と板切れ、トタンで造られたこの小屋は隙間だらけで、
ジャマイカの強い陽射しが洩れてくる。

編みかけの靴とガンジャを巻くチェスター

部屋の中もラスタカラーで塗られていた。
そして壁の一角には細い縄で編んだ靴がかけられている。

「日本は寒いんだろ? どこから来た?」
「東京さ、無茶苦茶寒い。」
「トーキョーか…遠いんだろ?」
「ダイレクトじゃ来られない。ニューヨーク経由で丸一日かかる。」
彼は笑って、ジャマイカまでやってきた僕のことを試すように言う。

「ニューヨークは狂っていただろう? トーキョーはどうだい?」

「まったくニューヨークさ(Just like New York.)」
「コンクリートジャングル…」
そう言いながら彼がワンフレーズ、ボブ・マーリィーの『コンクリートジャングル』。
"Instead of CONCRETE JUNGLE where the living is harder
CONCRETE JUNGLE man you got to do your best"

「そうだね、人々は怒ったような顔をして街を歩き、金、金、金ばかり探している。」
「分かるよ、行ったことないけどね。」
ここの人々は素敵だね。
僕は知らないけど日本にも素敵な文化があったんだ。
僕らは文化を捨てて金のことだけを考えるようになってしまったらしい。
チェスターが棚から編みかけの靴を取る。

「俺は靴を作っている。俺は自分で靴を作れるんだ。
新しい靴を買うために魂を売ることはない。
俺は余計に作った靴を仲間に分けている。
仲間たちはそれぞれ別のものを作っている。
余計なものは俺にくれる。」
彼は続ける。
「シンプルだろ。」

靴は彼の手によって綺麗に編まれていく。
彼らはネイチャーマンとも呼ばれている。裸足の男も多い。
自然が与える枠の中で自然と強調しながら生きている。
もちろん仲間の何人かは強弱こそあれ経済世界とのコネクションは持っているだろう。
その年の作物を収穫したあとの藁クズはロープに撚られて
チェスターの手で美しい靴に編まれていくのだ。
僕も日本に昔あったという生活を想う。
収穫後の稲藁を冬の農閑期に草鞋や長靴にする、箕のにする、笠にする。
あるいは家畜の餌になり、堆肥になる。
山林の荒廃を防ぐために山の木を間伐し、例えば小さな民芸品や箸を作る。
すべてはサイクルの中にあった。

半径1000mで完結していた生活。

人間が自然の循環に手を貸していた。鳥や虫のように…。
そして、自然はそれに対して次の年の豊かな(あるいは厳しい)生活を保証してくれた。
今はすべてがぶつ切れのシステム。ますます環境は悪くなっていく。
自然に見切りをつけられている。今、僕らはそんな日本しか知らない。
ほんの数十年前まであった生活。
生まれたときには高度経済成長下、農薬や食品添加物、合成界面活性剤が溢れていた。
自然のサイクルからはみ出した都市トーキョー、本質的なものは一切生み出せない。
金があればOKさ。
食べるものは作らない。原発もトーキョーのため。
河川をコンクリートで囲い邪魔な雨水は一日で海に流しておいて、
水不足の年には水がないと騒ぐ。
産業廃棄物は地方の野山に! 僕たちで出したゴミだけどゴミ処理施設は要らない!
牛乳は飲むけど畜産農家は都市に住むな!

…金があればOKさ。

チェスターの言う「シンプルだろ」の意味が、
彼の手によって編まれていく靴を見ているとよく理解できる。
イギリスに支配され、アメリカに土足で上がり込まれたジャマイカで
彼らはたくましかった。

「シンプル」…旅をしているとよく思う。
最初のインド旅、僕は大きな荷物を背負っていった。
次の旅はもう少し小さく。
今では機内持ち込みできるほどの荷物で何ヶ月でも旅を続けられる。
そう、その最初のインド旅のとき、1人の素敵な日本人に出会った。
彼はデイパックを一つ背負っていた。3年かけて世界を一周していた。
3年の間に彼の生活はどんどんシンプルになっていったと言う。
今は日本のどこかで手作りの家具を作っているはずの1987年当時22歳だった青年。

「何日くらいジャマイカに?」
「チケットの関係で10日したらニューヨークに戻るよ。」
「それが日本の休暇?」
「これでも大変だったんだ。日本じゃ長―い休暇なんだよ。」
「これからどうするんだ?」
「キングストンへ行く。」

「殺されるぞ。」

キングストンはジャマイカの首都。
その街のゲットー(スラム街、警察も入れない不法地帯)の一つトレンチタウンで
ボブ・マーリィーは青年時代を過ごした。レゲエが生まれた。
ゲットーは虐げられた人々のコミュニティーだ。
警察は入れないけど一つの秩序があるという。
そこに行ってみたかった。ボブ・マーリィーの街だから。
僕は支配国バビロンから来たアウトサイダー、危険なわけだ。
チェスターの「殺されるぞ」はそう言う意味。
でも、彼に出会ってなお一層行きたくなってしまった。


No Chains Around My Feet
But I'm not Free
I know I am Bound Here in Captivty
鎖には繋がれていないけど自由じゃないんだ
ここでは囚われの身なんだ
◆コンクリートジャングル(1972)
"INSTEAD of CONCRETE JUNGLE"から始まるサビ。
ボブの憂いを含んだシャウトが胸ん中にぐぐぐっと入ってくるんだよ。
(wrote in 1990)


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『Mo-Bay to Kingstone』 ジャマイカ旅行記-その7

「マーサ、俺は明日キングストンへ行くよ。車で乗せていってくれる家族があるんだ。」


ンジュガはアフリカ人だからジャマイカ人はものすごく好意的だ。
というより既に仲間だ。
憧れの地アフリカから来た陽気なやつ。
モンティゴベイからキングストンまで行く方法は3通りある。
(飛行機も含めて4通りだけど、国内線は貧乏旅行には無縁だね)
1日1本の列車、バス、そしてヒッチハイク。
アフリカンマンのンジュガならヒッチハイクでOK。
僕は金持ちの国ニッポンから来た旅行者。
いくら貧乏旅行とは言え、恐らく高くつくだろう。

「OK、僕はバスで行くよ。キングストンで会おう。」

僕らはトニーやゴールドフィンガーたちと飲んでいた。

Big Man in MO-Bay

みんな「ピストルで撃たれるな」とか「生きて会えるかな」とか言って僕をびびらせる。
ゲットー・トレンチタウンに入り込むのはンジュガと一緒でなければ無理のようだ。

12月31日、早起きしてシャワーを浴び、Uホテルをチェックアウト。
ンジュガは迎えにきた男の家族と一足先にキングストンへ。
僕は彼から渡された電話番号の書いてあるメモを片手にバススタンドへ。
顔見知りになった人々が声をかけてくる。

「ヤーマン、どこ行くんだ?」
「キングストンさ。」
「危険だよ。」
「大丈夫。」
何が大丈夫なのか分からないけど。

バススタンドと呼ばれる広場に着いた。
確かにバスが3台停まっている。
だけどそいつは日本製の9人乗りのバンだった。
しかも停まっている3台はどれも満員。
15~6人は乗っているだろう。

「キングストンへ行くバスは?(How can I get the bus to KINGSTONE?)」
「あれだよ(You get that bus.)」
指差す方にはまさにあのバスが…。
「無理だよ(No space.)」
「平気さ(No problem)」

荷物を背負ってバスへ。乗客が詰めながら
「ジャパニーズ、ここに座りな。」
何とかできたスペースにやっとのことで座る。

人数を数えてみた。

信じられないことに赤ちゃんから老人まで全員で21人!
9人乗りに21人!
潰されそうになりながら、これ以上誰も乗らないことを祈った。
汗が噴き出す。
やっと発車。
海岸通りをオチョリオスに向けて突っ走る。

21人も乗せたバスは信じられないくらいのスピードで走り続ける。
窓から入る風は気持ちいいんだけど、事故したらと思うと冷や汗もんだ。

誰かがテープレコーダーのスイッチをONにした。

大音量でレゲエ。突然バスが揺れ出す。
人々がリズムに合わせて踊っているのだ。
驚いた。
ただでさえ9人乗りに21人、その21人が歌い踊るのだ。
パワーだった、強烈なパワー。
この波に逆らうのは疲れる。僕も一緒に揺れた。
ボブ・マーリィーやジミー・クリフの曲では一緒に歌った。

You can get it if you really want,You can get it if you really want,
You can get it if you really want,but you must try,
try and try, try and try,
you'll succeed at last.

すごく開放された気持ちになった。
20人の知らぬ者と仲間になれたような気がした。
こういう経験ってなかなかないこと。

とうとうモンティゴベイからキングストンまで4時間、
ノンストップバスは人々のパワーで溢れたままだった。
夕方近くキングストンに着いた。
バスを降りるとドッと疲れたが心は軽くなっていた。
乗客が僕に声をかけて去っていく。

さぁ、宿探しだ。
右も左も分からないキングストン。取り敢えずタクシーをつかまえる。
「安い宿へ。」
「OK、マン。」
彼が連れて行ってくれたのは外国人専用ホテルだった。
もちろんホテル内では米ドルしか流通していないのだろう。
絨毯敷きのホテル。レセプションの対応もこちらをバカにしている。
「もっと安い宿があるだろ。」
「ジャマイカ人しか泊まらないよ。」
「そういう宿に泊まるつもりなんだ。」
「OK、マン。」

タクシーはハーフウェイトゥリーへ。
毛糸のラスタ帽の下には恐らくドレッドロックス。
「君はラスタマンかい?」
「いや、俺はルーツマンさ。」
そう言って彼は振り向きウィンクした。

彼も信じているのだ。
豊かなアフリカ、プロミストランド(約束の地)。

彼に連れて行ってもらった宿はMロッジ。建物の裏手は廃車置き場だった。

3畳ほどの部屋にベッドが一つ、それにトイレと水シャワーの部屋。
充分さ。
キングストンの大晦日は街中にレゲエが流れていた。
宿のボーイたちが「マーサ、レゲエのオールナイトライブに行こう!」と誘いに来た。

しかし、昼間の疲れで僕は寝てしまった。不覚!
(wrote in 1990)


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『PORT ROYAL』 ジャマイカ旅行記-その8


レゲエのオールナイトライブを見に行かず不覚にも眠り込んでしまって、
明けて1989年1月1日。
まだ朝日が昇り始めたばかりの気持ちよい朝だった。
宿のボーイたちが興奮さめやらぬ顔つきで戻ってきた。
「Happy new year!」
散歩に出る。元旦のこんな朝早くから人々は動き出していた。


笑顔で気持ちよく言葉を交わす。
本当にみんな人が良いのだ。いい顔をしている。
こんな素敵な老人になりたいなぁと思えるような人、
整ってはいないけどいいシワの刻まれた人。
日本にもいる。お百姓さんや漁師さん、自然を相手に生きている人たち。
そんな顔。

歩いて30分、キングストン港に出た。
目の前には海を隔ててポートロイヤルが見える。
ここはイギリスの海賊の砦があったところ。
黒人を平和なアフリカから奪い、武器で脅し、宗教で跪かせ、
ここでサトウキビやコーヒーを作らせた。
そしてその既得権益を他の植民地国家から守るために砦を作った。
白人は自分たちの正義と価値観を振りかざし、
アフリカや南米、アジアの民族の文化を壊してきた。


今僕たちの国も金という正義を振りかざし、白人たちの続きをやっている。

ジャマイカの海もこの辺りは汚れてしまっている。
ラスタマンたちは自然と共に生き、加工食品や工業製品なんて多くは必要としないのに、
それを必要とする国々とそのもとでお相伴に預かれる人々、
そう、奴らが彼らに海を汚させているのだ。

海を見ていると1人の白人が声をかけてきた。
ジョン・レノンのような風体で、やはり銀縁のメガネをかけていた。
ジョーと名乗った。
静かな感じの男でテキサスから来たギタリストだという。
レゲエのリズムとメッセージに惹かれてジャマイカまでやってきて、
今ラスタマンたちと一緒にゲットーに住んでいる。
彼と一緒に船に乗ってポートロイヤルへ渡った。
もの静かで何となく圧倒されてしまう。不思議な感じの人だった。
彼は様々なことを船の上で、砦の大砲の横で、砂浜の上で話してくれた。
ポツリポツリと語り出し、感情が乗るとたたみかけるように早口になり、
最後に必ず付け足した。

「You understand what I’m saying?(わかるかい?)」

「早すぎて分からないよ(Too fast to get you.)」
そう言うと何度でも説明してくれた。
道端のおばちゃんの売る魚の素揚げを囓りながら話す。


「俺たちにもWeのことをI & Iと呼ぶ心があればいいね。今必要なのはそれなんだよ。」

ラスタマンたちは『We(私たち)』のことを時として『I & I』という。
もしくは単純に『I』とか『Me』とか…。
あなたのことを自分のこと、彼のことを自分のこととして思う。
すべての人々の問題は自分の問題として考える。
アジアの戦争、南アのアパルタイト。

差別され虐げられ、今日一日生きることだけで必死なジャマイカで
ジミー・クリフが『VIETNAM』というベトナム戦争反戦の歌を全世界にメッセージした。
歌のサビの部分で彼が叫んでいる。
“誰か戦争を止めてくれ! アンゴラの、モザンビークの、南アフリカの戦争を止めてくれ!”

ボブ・マーリィーの『Redemption Song(救いの歌)』の歌い出しは、
“Old Pirates , yes they rob I.”
(昔海賊たち、そう奴らが俺たちを大陸から奪った)
彼はここで『I』と歌っている。
400年も昔、遠い自分たちの祖先のことも彼にとっては『I』なんだ。
すべての人類がお互いを「あなたと私」と区別せず、
I & Iと呼べたら世界はきっと良くなっていく。

彼の話は優しかった。
白人たちに苦しめられているこの国で黒人たちの中に入って行き、
黒人と共に世界を憂いているのだ。
1日のうちのほんの一時出会っただけで再び会うことはないだろうけど、
強烈な印象を持った人だった。テキサスのギターマン。
(wrote in 1990)


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『ACCIDENT(事故)』 ジャマイカ旅行記-その9

キングストンではとうとうゲットーにも入り込めず、
それでもレゲエを生み出した地の雰囲気は充分に感じ取ることができた。
モンティゴベイに向けて発つことにした。


ンジュガには結局会えなかった。
メモに書かれた番号は繋がらなかった。
ンジュガもそろそろモンティゴベイに向かうはずだから、また会えるだろう。

朝一番、シャワーを浴びてからチェックアウト。
アタックザックを背負ってバススタンドまで歩く。

今度のバスは20人乗りほどのマイクロバスだったが、相変わらず超満員だ。
9時30分に出発した。
このバスでもラジカセのスイッチが入って大音量のレゲエが流れる。
そしてやっぱり誰もが体を揺らし出し、それにあわせてバスが揺れる。
いつもこうなのか、ジャマイカ!って感じだ。

スパニッシュタウンを抜けて山道に入る。
ジャマイカは国土の80%以上が山で、バスは九十九折りを進む。
下を見れば遙か遠くに川面が見える。ガードレールなんてない。
そんな冷や汗もんの道をレゲエバスは信じられないくらいのスピードで走り続ける。

と、突然ものすごい衝撃。

一瞬何が起こったのか分からなかった。
対向車とすれ違いざまに事故。
それはそうだと思った。
こんな山道を舗装されてるとはいえ、アクセルを踏みっぱなしで走るのだから。
かろうじて正面衝突を避けた感じで、
バスは左の前輪を谷に浮かしながらも誰一人怪我をせず、ほっと一安心。
(運転手がどうだったのか記憶にない)

命拾いをした。

対向の白いセリカXXのドライバーも無事だった。
命拾いしたと分かると、ここはジャマイカ。
みんな何事もなかったかのようにのんびり話し出す。
もちろん話題は事故のことだと思うけど…。
どこかの国のように運転手に詰め寄ったり、怒り出す下品な人はいない。

ある者はオチョリオスに向けて歩き出す(おいおいここは山ん中だよ)。
ある者は超満員で走ってくるバスの後のバンパーに飛び乗る(おっかねー)。
ある者はバスを眺めながら道端に腰を降ろす。
そうだよね、歩けばいつかは海辺の街オチョリオスに着くだろう。
腰を降ろして夜が来るのを待てば空いてるバスも来るだろう。
何も慌てることはないんだろうね。
僕も荷物を下ろしてタバコに火をつけ、彼らの話の輪に加わる。

だけどそうもしてられないのが日本から来た旅行者だ。
何とか今日中にはモンティゴベイに着きたい。
せめてオチョリオスまでは…。
しかし、横を走り抜けるバスはどれも超満員だ。とても僕の乗るスペースはない。
時折白人たちの乗るレンタカーが走り抜ける。
減速し、事故車を面白そうにのぞき込んで再びアクセルを吹かして走り去る。
どれもこれも窓は閉めたままエアコンを効かせて、ジャマイカの風を楽しむことはない。
二人連れのカップルが多い。
バックシートには誰も乗っていないのだから、
こんな山奥に置き去りにされた人々を乗せてあげればいいのに…。
僕も荷物を背負い世界共通のヒッチハイクのサイン、親指を立てた。
しかし、1台も停まらなかった。さすがに不安になってきた。

そこへ1台の超満員バンが僕の目の前で停まった。

「お前、ツーリストか?」
「Yes」
「事故だね。」
「Yes」
「乗れよ。」
乗れよ、と言われてもそんなスペースはありそうになかった。
このバンも定員9人の倍は乗っている。
「無理だよ。」
「ここに乗れよ。」
そう言って、助手席のドアを開けた。
前座席には彼の家族らしき人が彼を含めて4人! 恐らく彼と彼の奥さんと2人の娘。
母親が妹の方を膝の上に抱き上げ、目で合図。
高校生くらいのお姉さんが一つずれて(ずれるだけの幅もないけど)、僕が乗り込んだ。
3人掛けのシートに5人だ。
アタックザックを膝の上に抱え上げるとバスは動き出した。

お姉さんの体に僕の肘が触れる。

黒いスラッとした手足の可愛く活発そうな女の子だった。
僕は一人でちょっと照れていた。
バスはフルスピード。
「ねぇ、僕は今事故に遭ったんだよ。もう少しゆっくり走って欲しいな。」
彼は「大丈夫さ」と言ってそのまま走り続けた。


国道がオチョリオスの海岸へ分岐する地点には2時頃着いた。
このまま可愛い女の子と一緒のシートでモンティゴベイまで行きたかったが、
気を遣っていたため体が痛くなり僕は降りるしかなかった。
彼と彼の家族にサヨナラを言った。
彼らはそのまま海岸線をモンティゴベイに向け走り去った。

彼ら、バスの料金を取ろうともしなかった。

(wrote in 1990)

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『Pineapple Place』 ジャマイカ旅行記-その10

ンジュガと再開するためにキングストンからバスに乗りモンティゴベイを目指したが、
そのバスが山中で事故。
僕を拾ってくれたバスは超満員で体中痛くなってしまい、
思わず降りてしまった街オチョリオス。


右も左も分からない。

まずは歩いて近くのガソリンスタンドへ。
そこでこの旅行で初めてジャマイカの地図を手に入れた。今日の宿を探さなくちゃ…。
地図を見ながら海岸へ向かう。
オチョリオスは西端のネグリルと並んでジャマイカの一大リゾート地だ。
モンティゴベイにもプライベートビーチはあったが、ここはそんなもんじゃなかった。
何と全てのビーチが柵で囲われていたのだ。
ジャマイカの人々の住むこの土地にジャマイカ人の海はなかった。
入り江にはクルーザーや大型客船が停泊している。
青い海は柵の向こうに遠く見えるだけ。
ビーチサイドの別荘の庭越しに見えるだけ。


ただそれだけ。

金を持った奴らが金で彼らの生活を規制している。
日本人がタイやフィリピンで白人のやり方を真似している。
高級ホテルの入口、
この暑いジャマイカで黒人たちがブリキの兵隊のような格好をさせられて、
直立不動の姿勢で立たされている。
なんてこった!

道行く人に訊ねながら、いつものごとく宿探し。
やっと見つけたSゲストハウス。前庭には青空スタンドバー。
早速そのバーへ。
ここはカウンターだけあって、ドアも壁もない。

そうだよ、ここはジャマイカさ。

暑い国で冷房の効いた部屋でワインなんて飲むよりも、
風の吹き抜ける(当たり前か)椰子の葉で葺いた屋根のバーで
レゲエと鳥の声を聴きながらジャマイカのビール、レッドストライプを飲む。
カウンターの中には可愛いジャマイカの女性マルシア・アンダーソン。

Marcia Anderson @ 青空スタンドバー

そろそろ夕方、飲んでいると人々が集まってくる。
ここはジャマイカ人のための飲み屋。

「お前、パイナップルプレイスには行ったか?」
「何だい、それは?」
「ダンスホール、マン」

夜眠ろうとしていると、開け放った窓からレゲエが流れてくる。
気になってもう一度服を着て部屋を出た。
いつまで歩いても音のところにたどり着かない。
いい加減歩いて、ようやく着いて驚いた。
それは教会の隣の広場にあった。海岸沿いの崖っ淵にある教会の敷地だ。
そこにコンサート用のスピーカが20個くらい積み上げられ、
そこから街中にレゲエを流していたのだ。

人々がそこで踊り、話し、歌っていた。大人から子どもまで。
ここはジャマイカ人の社交場だった。
オチョリオスではここが海から一番近い場所。

屋台で早速ビール、もちろんレッドストライプ。
近くの親子に尋ねる。

「ここは何だい?」
「パイナップルプレイスさ、マン。」

夕方バーの客が言っていたダンスホールとは青空ダンスホールだったんだ。
20個ほどのスピーカから流れるレゲエは腹を打ち、地面まで揺らしていた。
凄い!って感じで圧倒されてしまった。
人々は踊り疲れては帰り、誰かと話すためにやってくる。
夕涼みに来たおばあちゃん、駆け回っている子ども。入場料なんて要らない。
いいなぁ…幸せな気分。

踊り疲れて帰途につく。後からレゲエのリズムが追いかけてくる。
ゲストハウスの青空バーでおやすみ前のビール。

「パイナップルプレイスに行ってきたの?」
「うん。」
「どうだった?」
「ジャマイカの人たちってタフだね、本当に。」

マルシアにお休みを言って部屋へ戻る。
まだ窓からあのレゲエが聞こえてくる。
あの光景が絵のように浮かんでくる。
ジミー・クリフの『Under the sun , moon and star』を思い出した。

明日にはモンティゴベイに行かなくてはならない。
ンジュガが待っている。
この土地でジャマイカ人の海は教会の空き地の崖の下、わずかに見えるだけだった。
だけど人々はタフだった。卑屈になっていなかった。

◇翌朝訪ねたPINEAPPLE PLACE

左右に積み上げられたスピーカシステムが見える。
そして崖下にかろうじて見えるジャマイカ人の海

(wrote in 1990)

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『Back to MO-Bay』 ジャマイカ旅行記-その11

パイナップルプレイスから遠く聞こえるレゲエをBGMにぐっすりと眠って、
翌朝は気持ちよく目が覚めた。

鳥の声が聞こえる。

ジャマイカは鳥たちの楽園なのだ。気持ちも和やかになってくる。
街に散歩に出る。バザールを冷やかす。PINEAPPLE PLACEも見ておこう。


戻ってアタックザックに荷物を詰めてチェックアウト。
準備中の青空バーで朝からビール。
そしてカウンターの女の子マルシア・アンダーソンにバイバイをして
暑くなり始めた海沿いの道をバススタンドまで歩く。
たった1泊のオチョリオスだったけれど楽しかった。
あのバスの事故がなければ、この街には寄らなかっただろう。
旅はこんなもん。思い通りにならなくても全てOK。

超満員のバスに毎度のごとく無理矢理乗り込み、一路ンジュガの待つモンティゴベイへ。
レゲエの大音量の中、海岸通りを来た道とは逆に。
昼過ぎにはモンティゴベイのバススタンドに着いた。
ンジュガと待ち合わせたUホテルに行く。
フロントに訊ねるがンジュガは来ていないと言う。
おまけに満室…。フロントにメッセージを残してまた宿探しだ。

荷物を背負って歩き出すと土埃をあげて僕の前に1台の車が停まる。
「マーサ、戻ってきたんだ。」
中から出てきた男はトニーだ。運転しているのはゴールドフィンガー。
「生きてるね。」
「あぁ、トレンチタウンには入らなかったんだ。」
「それはgood、心配したよ。」
「ありがと。ンジュガは?」
「見てないね。」
「OK、また夜会おう、店に行くよ。」
「じゃ、後で!」
彼らは片手と土埃をあげて去っていった。

根性の宿探しをしてOロッジに落ち着いた。
Uホテルに電話して改めてメッセージを入れる。
ホテルのベランダで海と原っぱのようなモンティゴベイ空港を眺めながら、
世界中のバックパッカー(安宿旅行者)が残したガイドブックや
メッセージを読んでいると、後から抱きついてきた奴。
驚いて振り向くとンジュガが真っ白な歯を見せて笑っていた。
黒人の笑顔って素敵だよな。
ンジュガの後にはブロンドの女の子が2人立っていた。

「マーサ、マーサ、生きてたな~。」
「あぁ、元気だった?」
「今着いたところさ。」

「この2人はキングストンで会ったマーゴットとマヌエラだ、スイスから来た子。」
それから僕らは4人でビーチに出た。

Ndiouga Dieng & Margot & Manuela

ンジュガはトレンチタウンのゲットーに入ったらしい。
アフリカンマンの彼が羨ましかった。
彼ならトレンチタウンでも「ブラザー」だから。

マーゴットとマヌエラはスイスの製薬会社に勤めるOL。
70日の休暇を取ってジャマイカに来ていた。
僕の休みはやっとの思いで取った16日だというと、目を丸くしていた。
「いつジャパニーズは旅をするの?」
「普通はできないんだ。」
「何それ?」

本当に笑っちゃうな。
旅は金を生まない。けれどそれよりもはるかに大きなものを得るチャンスだってある。
例えばそれは旅先の安宿で病気になり寝込んだとしても、だ。
インドを旅していると、そこそこの年齢のヨーロッパ人やオーストラリア人に会う。
彼らはヒッピーというわけではない。
彼らは前の会社を辞めて来ていたりする。
生活に困らないのか、と聞くと、
旅はその人の経験として次の会社に就職するときに認められるという。
もちろん彼自身の能力なんだろうけど。
日本にはそれがない。
金拝主義、功利主義、そして保守的な日本経済界には
僕らに旅をさせるだけの余裕がない。
悲しいけど履歴書に穴が開くだけだ。

夜、僕ら4人はモンティゴベイに1軒だけある中華料理屋に繰り出した。
飯を食いながら様々な話をした。
南アフリカのアパルタイト政策から箸の使い方まで。
マーゴットとマヌエラはフランス語、ドイツ語、イタリア語は上手に話すのだが、
英語がそれほど巧くない。
と言っても僕とは格段の違いがあるが…。
お陰で僕も会話に参加できた。
例えば、イモムシを英語で何というのか思い出せず大ジェスチャー大会になってしまった。
結局ンジュガがキャタピラだと思い出した。
時々3人がニヤニヤしながらフランス語やドイツ語で話すのが悔しかったけど。
そして4人でゴールドフィンガーズプレイスに行きビールを片手にレゲエで踊った。

東洋人とアフリカ人、
そして2人のブロンドの女の子という取り合わせは随分奇妙だったかも知れない。

帰り道、信じられないくらいの星の下、
ココナッツジュースを飲みパイナップルを食う。
普段は遠く海を隔てて住んでいる人種の違う者同士が今日出会って、
並んで星空の下を歩いている。

旅っていいなぁ、と思う。

(wrote in 1990)


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『Good-Bye JAMAICA』 ジャマイカ旅行記-その12


いよいよ僕がジャマイカを去る前夜、
ンジュガ、マーゴット、マヌエラと僕の4人は『Gold Finger's Place』に踊りに行った。
トニーやゴールドフィンガー、ビッグマンたちともすっかり友達になれたのに、
もう簡単には会えないんだと思うと不思議な気持ちになる。
BigMan、大男なのでそのままそう呼ばれていたが、ンジュガの方がでかかった)

もちろんンジュガたちともそうだ。
でも、一時にせよ酒を飲んで語り合った人々が、
世界中のあちこちで今日も一日一生懸命やっているんだと思うと元気が出てくる。

また会えるかも。

ボブ・マーリィーの『No woman No cry』でマヌエラと静かに踊り、
『Get up Stand up』でンジュガと縦ノリで踊る。
0時をまわった頃、
トニーやゴールドフィンガーたちに本当のさようならを言って店を出た。
ンジュガが夜店で買ったアフリカの打楽器をバックに
僕らはボブ・マーリィーを歌いながら宿まで30分歩いた。

とても気持ちよかった。

その夜は遅くまでンジュガの部屋で語り通した。
僕は明日ニューヨークへ、彼ら3人はバスでネグリルに行く。
ンジュガは買ってきた打楽器がお気に入りのようで黒人独特のリズムを刻んでいる。

僕はブルースハープを吹く。

翌朝も気持ちよく晴れ渡っていた。
アタックザックに荷物を詰めチェックアウト。
ンジュガとマーゴットに見送られて宿を出る。
空港までマヌエラが送ってくれた、といってもロッジの目の前が空港だけど。
空港でチェックインする間際、
僕はアタックザックにつけていた『NO NUKES , ONE LOVE』のバッジを彼女に渡す。
(NO NUKES , ONE LOVE、原発は要らない、一つの愛を)
スイスに原子力発電はない。しかし、電気を原発王国フランスから買っている。
彼女はそれを悲しんでいた。

飛行機はニューヨークへ向けて飛び立った。
小さく見えるジャマイカ島に友達がいて、
あるいはジャマイカの男たちが道端に座って

「Yeah man , How’ya doooin’?」

とかやってるんだ。
レゲエで島が揺れているんだ。
またいつか来ようと思う。

ニューアーク空港へは夕方着いた。ニューヨーク島まではバスに乗る。
そしてYMCAにチェックイン。

日本に戻るまでの3日分の宿代を払い、
JFK空港までのバス代をキープすると手元に残ったのは20ドル。
ニューヨークでは死んだ振りをしているしかないな。
4ドル残して日本へ発つ前日、グリニッジビレッジまで散歩に出る。
随分寒すぎると思っていたら雪が降りだした。
ストアで中国製の傘を3ドルで買った。

情報誌「ビレッジボイス」を1ドルで買うと、とうとう一文無しになった。
公園の雪に濡れていないベンチに腰掛け、新聞を広げる。

“REGGAE on the East 10p.m. fee/$10”

ライブハウスにジャマイカのバンドが来るのだ。
夜9時手ぶら無一文でライブハウスに出掛ける。
マンハッタン島の東の外れ、333 EAST 60th STREET(BETWEEN 1st & 2nd Aves.)
人通りの少ない倉庫街にそれはあった。
人の列に紛れて金も払わず入ってしまった。
バンドは『ソウルジャー(神の魂と兵士をかけた名前)』、聞いたこともない。
みんな飲んで踊っている中、飲む金もない僕はただ聴いているだけ。

ジャマイカを思い出しながら…。

彼らが「ボブ・マーリィーに捧げます!」と言って
『I shot the sheriff』と『Get up Stand up』をやってくれた。


気持ちよかった。
結局、いくつかのバンドを聴き、明け方の4時に店を出た。
タクシーはおろか地下鉄さえ乗れない僕は、
夜中のニューヨークの街をビクビクしながら、
それでもできるだけ地元の人のような振りをしながらホテルへ戻った。
テレビをつけた。
アナウンサーが「昭和天皇が死んだ(Hirohito Dead.)」と言っていた。


ジャマイカの友達のことを思った。あの優しい笑顔が今は大切だ。
FMラジオをひねるとレゲエが流れてくる(レゲエだけを流す局がある)。
そいつを聴きながらジャマイカの太陽や星空や人々、友達のことを思いだし、
優しい気持ちで眠りについた。
空きっ腹がキューキューいってた。

Yeah man , How'ya doin'?

THE END
(wrote in 1990)

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