『GIVE & TAKE (生キテイケル)』 印度旅行記-その8


巡礼バスツアー@RISHIKESH

ハリドワールという街はヒンドゥ教聖地の一つで、ガンジス河上流に沿ってある。
あのインド亜大陸の各地から毎日たくさんのヒンドゥ教徒が巡礼に訪れる。
僕は妻とリシケシという街からバスに乗ってこの地へきた。

リシケシはやはりヒンドゥ教の一大聖地。
ただし、こちらは修験者たちが静かに瞑想や修行をする場所。
サフラン色の僧衣をつけた無所有の聖者たちがガンジスを前に静かに瞑想をしていた。
いい景色だった。

修験者たち

5日ほどガンジスが見渡せる安宿に身を置き静かな日々を過ごしてた。
あのビートルズが修行した街がこのリシケシだ。

そこから僕らはハリドワールにやってきた。

ハリドワールのバスターミナルには夕方ついた。
僕らはアタックザックを背負ったままガンジス河に向かった。
そこには良いものがあった。
川の中程にコンクリートの中州が造られ、そこには人々が溢れていた。
物乞い、不具者、修験者、巡礼者が同じレベルでいた。
辺りには人々が歌う賛歌が響き、祈りが溢れ、ガンジスの冷たい流れに沐浴し、
ロウソクを灯した木の葉がその川面に流されていく。
1枚の絵を見ているようだった。

敬虔な世界、HARIDWAR

ヒンドゥ教の不思議な一体感に包まれていった。

宗教は愚かしいと思うかもしれない。
だけどここの人々には信じるものがあるだけでも幸せだと思えた。
宗教は生きていくための知恵だと思う。
僕らは何を信じて生きているのだろうか。
金かな? そうだとしたらあまりにも寂しい。
でも、今の日本ではカネとモノを信じて、僕らは生きている。
僕はあの光景を見てひたすら羨ましかった。

僕らはヒンドゥ巡礼宿に泊まった。
ここは旅行者もあまり来ないので、ツーリスト用の宿が少ない。
ガンジス河にほど近い、英語の通じないその宿で4日間を過ごした。

リシケシという街は静かだった。瞑想に包まれた世界。
しかし、ここハリドワール、
街には早朝から夜中まで川岸のスピーカから真言(マントラ)が流れ、
人々が祈り、歌っているのに、やはり静かな街だったと思う。
ここも瞑想に包まれていた。1つの宇宙の中にいるような静かな世界があった。

宗教だらけの街


僕は妻と2人、この街を出て首都デリーへ向かう夜行列車”42DN”を待っていた。
駅に着いたのは夕方の6時。列車は23時50分に出る。
6時間、僕らは退屈もせず列車を待った。
インドはジャマイカと同じで、時間の感覚が違うのだ。時間は僕らが創っていく。
東京では1秒という怪物に縛られ生きていた。
駅の前の広場で毛布にくるまって列車を待つ巡礼者たち。
手足の不自由な老夫婦と馬鹿話をしたり、ただボッと牛を眺めていたり、
蚊と格闘したり、1人旅のスイスの女性と話したり…。

ホームのベンチに腰掛けていると、1人の女性が近づいてきた。
脳性麻痺というのだろうか、彼女は自分の体をコントロールできなかった。
身体が痙攣していた。立つことはもちろんできずに、這いずって来る。
僕らは顔を見合わせた。
彼女は僕らの傍らに来て金を乞うだろう。どうすれば良い?
まともに見られなかった。
彼女は1mを進むのに1分ほどかけながらも着実に僕らの方に近づいてくる。
今さら立ち去ることはできない。
その間にも彼女は痙攣し、飛び跳ねていた。

つらいなあ、と思った。

数分後、彼女は僕らのところまでたどり着き、ベンチに腰掛けた。
僕らは黙してしまった。
彼女は座った途端に痙攣し、ベンチから落ちてしまった。
僕らは動けない。
彼女は自分の体をコントロールできない。
ベンチに腰掛けることを諦め、僕らの足元に座った。
しんどいなあ、と思った。大変なことになってしまったと思った。
彼女は僕らに金を乞うわけでもなかった。
宙に舞った視線の片隅で、彼女は時々痙攣していた。

そんな時だった。

駅のチャイ(紅茶)売りの青年が近づいてきて、
売り物のチャイを彼女の持っていたコップに注いだ。
そして彼は行ってしまった。
彼女はそのチャイをこぼしながらも飲み干した。
煙草売りのオヤジがやって来た。
彼女は物入れからインド煙草(ビディ)を取り出し、マッチが欲しいという仕草をした。
30パイサコインを差し出す。
彼はマッチを手渡し、受け取った30パイサコインを彼女の金受け(空き缶)に喜捨した。
彼女はやっとのことで煙草に火をつけ、それを吸った。
僕は迂闊にも涙が出てしまった。
インド社会の寛容さだと思った。
彼女はインド社会でなら生きていける。実際に生きてきたのだ。


WHO KNOWS "幸せに生きる方法"?

インドヒンドゥ教の世界は、外から見ると相互扶助社会に見えた。
布施(喜捨)をすることは功徳を積むことで、次の生で精神的に高い人生を保証する。
彼らは功徳を積む対象を必要とする。
物乞い、不具者は生きていくために金を必要とする。
彼らは生きるために互いを必要とする。
対等な関係なのだ。
彼らは「貧しい者を慮って金を恵む」という気持ちで喜捨をするほど思い上がっていない。
自分のためなのだ。
僕は日本の慈善活動に時々嫌らしさを感じてしまう。
ある種、自分の優位さを確認する作業のような気がするのだ。
同情って良い言葉じゃない。同情は優位の裏返し。
あなたの行為は自己満足だろ、と

そう、自分のためなのだ。
僕はそれを目の当たりにした。
青年は思い上がっていなかった。オヤジもそうだ。
彼女は自分を卑下していなかった。むしろ堂々としていた。
彼女は「彼女として」生きる方法を知っているのだ。
ハリドワールの駅のホームの上でなら、生キテイケル。
何もかもが自然でさりげなかった。

インドは優しい世界だったと思う。過酷だけれど優しかった。
誰も彼女を追い立てない。どこかの施設に閉じ込めようとしない。隠そうとしない。
彼女は彼女としての主体性を持って生きていけるのだ。
病気はマイナスではない。
マイナスでもプラスでもなく、ただの状況でしかない。
そう思えたときに彼女のように堂々と生きていける。
もちろんインド社会が、彼女が生きることを認めるからだ。
彼女が生きることは過酷だけれど、彼女は彼女なんだ。
僕はインド社会の寛容さを肌で感じて、涙が止まらなかった。
彼女はいつの間にかどこかに行ってしまった。

夜行列車42DNがホームに滑り込んできた。
僕らは信じられないくらい混んでいる列車に飛び乗った。
明日の朝には、この街ハリドワールから遠く離れたオールドデリーの雑踏の中。
ハリドワールは良かった。
日本人が見たら不具者も多く宗教だらけのこの街は、
貧しく、愚かしく、そんな類の街に見えるだろう。
だけど、ここには秩序があった。調和があった。
価値観が違うのだ。頭を柔らかくすればよく分る。
良いものがたくさんあった。

世界は良くなっていく。

"No English" 巡礼宿「Shiv Vishramgrih」の屋上から

(wrote in 1990)

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『ビーチゾーリ』 印度旅行記-その9

旅行中はビーチゾーリを履いていた。

ビーチゾーリ@ブータン王国寺の宿坊

日本を発つときはスニーカーを履いていたのだけれど、
インドに着いてからはもっぱらビーチゾーリを履いていた。
スニーカーは荷物になるので宿のボーイにあげてしまった。
日本製のビーチゾーリは優秀で、
あまり磨耗もせずに2ヵ月半、旅の終盤ブッダガヤーまで辿りついた。
所どころネズミが喰い千切ったように欠けてしまったけれど…。

何度もまだ暖かい牛のウンコを踏んでしまった。

陸路バスで入ったネパール、
朝夕吐く息も真っ白で寒かったけれど他に履くものもなかった僕は
ポカラで買ったウールセーターにビーチゾーリという妙な姿で旅を続けた。

靴下を履いてビーチゾーリは、なかなか難しい@NEPAL

僕と一緒に旅を続けたこのビーチゾーリには愛着があった。

そのビーチゾーリ、ブッダガヤーに着いた途端、かかとの部分が裂けてしまった。
妻は「新しいサンダルを買いなさい」と言うが、
僕は日本までこのゾーリを履いて帰りたかった。
いずれにしても履くものがない。

翌日、僕はブッダガヤーのマーケットに行った。
そこには4~5人の靴の修理屋が路傍に座り仕事をしていた。
いくつかの道具と板ゴムがあるだけだった。
人々は壊れた靴やサンダルを持ってきて修理してもらっていた。
破れた革靴、切れたチャパル(皮サンダル)…。
僕らの国ではそれ以前に「ゴミ箱直行!」というようなものばかり。

僕は1人のオヤジに裂けたビーチゾーリを見せて、修理できるかという仕草。
さすがにビーチゾーリは初めてのようで、手に取り少し考えたが、
「4Rs(当時40円)でやるよ」と言う。
インドでは4Rsは400円くらいの価値がある。
オヤジはまず裂けた部分をタコ糸で縫い合わせた。
2本の針を巧みに使い、上糸に下糸を絡ませながら…。
次に靴を直すのと同じ要領で底に板ゴムを縫い付けた。
底には切れ込みを入れ、裏から糸が見えないようにした。

最後に真ん中に釘を打ちつけて、オシマイ。
細かい作業の一つ一つが職人だった。僕はちょっと感激してしまった。

オヤジは「新しいものを買ったほうがいいよ」なんて言わず(商売だから当たり前か)、
これほどまでに汚れたビーチゾーリを見事に直してしまった。
物が溢れる国、使えるものまで捨ててしまう国ニッポンから来た僕に、
何か忘れていたことを思い出させてくれたようだった。

インドでは、ほとんどどんなものでも直して使う。

車もラジオも机もベッドも…。
町のオヤジたちがトンカントンカンやっている。
物質的には相当貧しい。けれど今の日本よりはるかに救われている。
裂けて修理したビーチゾーリは僕の宝物だ。
別の部分が裂けたとき、僕は布団屋から太い針と糸を買ってきて、
オヤジのやり方を思い出しながら修理した。
Tシャツも下着も端布を買って継ぎをあてた。

伸びきったセミビキニ

インドにいたら物を捨てるなんてできなくなる。

12月も終わりに近づいた厳寒の日本、
僕は素足に世界でたった1つの「修理したビーチゾーリ」を履いて帰ってきた。
縫いあてだらけのビーチゾーリだったけれど、僕の誇りだった。
綺麗なスニーカーや真新しい革靴の行き交う成田のロビーで、
きっと僕はみすぼらしかっただろう…。
ネパールのセーターにジーンズ、素足にビーチゾーリ、寝袋を括りつけたアタックザック。
だけど、僕は大声で笑いたいくらいだった。
このゾーリを自慢したいくらいだった。
修理したビーチゾーリ、今は大切に下駄箱の中。
3ヶ月、インド・ネパールの大地を踏んで、
インドの歴史と牛のウンコの温かさを感じてきたのだ。

(引越しを重ねていくうちにいつの間にかなくなってしまった)

(wrote in 1990)

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『KAYA インドで出逢った女の子(1)』 印度旅行記-その10

1度目のインドの旅、

バスのルーフに荷物を載せて

僕はラージギールという村(仏陀が8年住んだ岩山、霊鷲山がある)から、
2回バスを乗り継いでブッダガヤーに来た。
ここは仏陀が悟りを啓いた地。瞑想した菩提樹がある。
ラージギールで風邪を引いた僕は、超満員バスに揺られて、
たどり着いたときには疲れきっていた。
バスを降りると宿の客引きたち。
交渉するのもしんどかったから、僕はこの地唯一のホテルの名を口にして、
そこに泊まるんだと言った。
彼らを振り切り、そのホテルの方に歩き始めた。客引きたちは諦めたようだった。
リャージという1人の男を除いては…。
「あなたは泊まれないよ。」

ホテルの門をくぐると彼もついてくることはできない。
ロビーにたどり着く前にボーイが近づいてきた。
「シングルの部屋はありますか?」
「申し訳ありません、満室です。」
徹底的に疲れてしまった。
宿の客引きたちと改めて交渉することを思うとうんざりした。
門のところまで戻ると、さっきの男、リャージがいた。
日本の女性と一緒に。
「断られたでしょ。」
彼女の名前は真理という。28歳のシングルアゲインで6歳になる娘がいた。
娘の名前は草(KAYA)。
KAYAはジャマイカでは神の草・ガンジャ(大麻草)を指す。
そんな意味を含めて娘にKAYAと名づけた人、真理とその娘KAYAに僕は興味を持った。
真理に誘われて僕もリャージの宿に泊まることにした。

翌朝ノックの音で目が覚めると、ドアの外には真理とKAYAだった。
3人でチベット難民キャンプのテント食堂で朝食を摂った。
その後真理は用事でガヤの街へ。

チベタン食堂が並ぶ

僕はKAYAと一緒に菩提樹のある大塔の裏の沐浴場へ。
沐浴場は中央に座禅を組んだ仏陀像のある四角い池になっていて、
たくさんのチベット難民僧が僧衣のまま泳いでいた。
水は緑色で、小さな虫がウジャウジャいたけど、彼らにとっては有難い水なのだ。

池の端に並んで腰を掛けているとKAYAが言う。
「お兄ちゃんも泳ぐ? この水は神様の水なんだよ。」
と。
「こうやって足に水をつけるとね、虫が上がってきて足の裏につくでしょ。
それでね、体中の悪い病気を取ってくれるんだよ。」
「…」
「チベタンみたいに泳ぐんだよ。カヤも毎日泳いでいるんだよ。」
僕には、何かそれは本当のことのように思えた。
僕はKAYAと上半身裸になって池に入った。その緑色の水でうがいをした。
神様の水だから…。

ナンカオボレテイルミタイダ

チベットの少年僧たちと水遊びをした。気持ちよかった。
そして、ブッダガヤーでの日々、僕は別に身体を壊さなかった。
生水や氷の入ったバナナラッシー(バナナヨーグルトジュース)の飲み方や
サトウキビのかじり方もKAYAから教えてもらった。
娘にこういうやり方で教育できる母親は素敵だと思う。
「汚いから泳いじゃ駄目」とか
「サトウキビや生水なんて飲んだらお腹を壊すじゃないの!」とか…。
禁止、禁止の教育ではなく、
真理は娘の価値観や世界観、感性を大切にしてあげていたのだ。

昼間、真理はガヤの駅に夜行列車の予約に行っていた。
3日後の”10DOON-EXPRESS”は僕も予約を取っていた列車だった。
この時から真理とKAYAがバンコクに発つまでの10日間、僕らは一緒に過ごすことになった。


KAYA…大麻草
精神展開薬(向精神薬)に分類され、
麻薬(阿片、覚せい剤、モルヒネ、ヘロインなど)ではありません。
中毒性、依存性、ステップストーン(踏み石)性もなく、
WHO(世界保健機構)でも人体に対する害を認めていません。
インド、エジプトなどガンジャ文化(大麻文化)のある国々は
精神的に進んでいたし、観念的、哲学的です。
ジャマイカのラスタファリアンもインド人季節労働者が持ち込んだガンジャで、
精神的に「西洋文明を脱し、アフリカへ帰る」という思想の確信を得ました(ジャマイカ旅行記)。
日本人に誤解のある大麻(多くの人が麻薬だと思っている)を僕は否定しません。
ただ、日本やアメリカなどでそれらを試みるのは否定的です。
精神的に豊かでないそれらの国々で試みるのは、単なる逃避でしかないと思う。
あるいは単なるカッコつけ。
しかも、法律で禁止されているわけだし…(法律自体矛盾があるけどね)。
しかし、日本はその違いなどを含め、客観的な教育をしなくてはならないと思う。
何も知らない若者は、無害なはずの(少なくとも煙草や酒や握りこぶしより)大麻から
麻薬に進んでしまい、取り返しがつかなくなる。
ある先進国では、個人が精神的に深い思考をしたいという目的で大麻を
栽培することを個人の責任で認めている。
若者が、興味本位やカッコつけで大麻・マリファナを試すことに深い憂慮を感じる。
(wrote in 1990)


FEEL KAYA Talkin'(↓ふぉあぁさん方式で読んでください)
(僕のKAYA体験をこちらに)
ここは2006年に書いています。1987年頃の経験を日記から探り出して書いています。
"KAYA talking"、そう、ガンジャはインドやジャマイカで僕に語りかけてくれたんだ。
最初のガンジャは1987年、ブッダガヤーだった。
公園でリラックスをして試したつもりだった。
しかし、僕はグルグルと奈落に落ちていくような意識を持った。
僕に準備がなかったのだ。僕は常識に縛られていた。
吐いた。
次に試したのは、安食堂で真理がそばにいる状況。彼女に僕の全てを委ねた。
つまり安心をしていた。
最初にテーブルが紫色になった。次にテーブルの足がなくなって宙に浮いた。
その時、僕が思ったこと…。
 僕は、今までこのテーブルを茶色いと思っていた。
 だけど、今この瞬間には紫だ。
 僕がこのテーブルを紫だと思えば紫になるんだ。
 テーブルには足があるというのが常識、だけど、足がないというテーブルもある。
 足がない、そういうテーブル。
 僕が見てきた世界は僕が創ってきた世界にしか過ぎないんだ。
 僕は自由に世界を感じることができる。
 僕は世界をしっかり見なくちゃいけない。
 常識は茶色いテーブルしか僕にみせないんだ。
そんなことを考えた。
そして、そのときに何故ファーストトリップで吐いたかも分った。
自由になりたい僕と常識が綱引きをしていた。初戦は常識が勝ったわけだ。
常識を失うことを恐れた僕は常識に加担した。
そして吐いた。
2度目は信頼できる人がそばにいた。
僕は「何が本当のことなのだろう」と求めていた。
ガンジャは僕に「直感で感じること」を教えてくれた。
3度目は1988年のジャマイカ、ラスタマン・チェスターに巻いてもらったガンジャ。
その後、僕は夜のダウンタウンに繰り出した。
そしてパン屋で明日の朝食を買う。
パン屋で僕のパンを待っていると黒人たちが買い物に来る。
ここで僕は幻覚を見る。
 店に入ってくる客が白人なんだ。次の人も白人。
 こんな夜中のダウンタウン、白人なんて来るはずない。
 僕は幻覚を見ている。そして次も白人…。
 僕は次の瞬間、理解をした。
 僕は黒人を味方し、白人を理解しようとしなかった。
 黒人は歴史の被害者で…。
 店に来ているのは間違いなく黒人なのだろう、
 だけどガンジャの入った僕には白人に見える。
 そう、僕は勝手に彼らを外見で判断しているだけ。
 僕が世界を勝手に規定している、そう理解した。
 白人と黒人ではなく、一人ひとりに僕は出会わなくてはいけない。
ガンジャは僕の意識を広げてくれた。僕の潜在意識や無意識の意識を顕在化した。
幻覚を見るためでも興味本位でもなく、
「僕は世界をどう見たらいいのか」という答えを得るために試した。
でも、僕はそれ以上試そうとは思わなかった。
だってインドやジャマイカがそのまま覚醒への扉だったのだから。
※日本でやっちゃ駄目だよ。マジで逃避だからね。弱い奴は日本でやる。

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『KAYA インドで出逢った女の子(2)』 印度旅行記-その11


右からロッシーナ、KAYA、スルタナの妹...Photo by スルタナ

ブッダガヤーを夜発った蒸気機関車”10 DOON Express”は、
翌朝6時過ぎにカルカッタのハウラー駅に着いた。
僕は1人相変わらず超混雑二等寝台車にやっと自分のスペースを確保し寝袋の中で
彼女たちはレディースコンパートメント(女性用個室)で一夜を過ごした。
真理、KAYA親子と僕は駅のレストルームでチャイ(紅茶)を飲み、一息ついて街へ出た。
駅前でオートリキシャーと値段交渉をしてサダルストリートへ向かった。
(カルカッタは交通渋滞が激しく、駅前や幹線道路へのリキシャーの乗り入れは禁止)
世界で最悪の都市といわれるカルカッタの中でも最も邪悪で過酷といわれる地域、
サダルストリートに僕らの目指す安宿が星の数ほどあるのだ。
92年封切の映画『CITY OF JOY』の中で主人公は
サダルストリートのフェアローン(僕らにしては高級の部類のホテル)に泊まり、
この路上で暴漢に襲われたのだ。

ど渋滞のメインストリートを小回りの効くオートリキシャーで縫うように走り、
インド博物館の脇で僕らは降りた。

そこから直角に入る横道がサダルストリート。
路の両側には安宿が建ち並ぶ。
その路の上には「路上で生まれ路上で死ぬだけの人々」路上生活者が溢れていた。
壊れた水道管から流れ出す水で身体を洗い、炊事をする。
腕のない人、目の見えない人、足の曲がった人、腰から下のまったくない人、
クル病、らい病、象皮病…。
そんな人々が必死になって、しかし明るく生きていた。
強烈だった。
闇両替商やマリワナ売り、ポン引きたちが声をかけてくる。
「ハロー、ジャパーニ」

サダルストリートのさらに奥、モダーンロッジに僕らはダブルの部屋を取った。

1泊50Rsは25Rsずつの折半とはいえ大奮発。
(50Rsは当時600円で、インドでは6000円くらいの価値がある)

僕ら3人はブッダガヤーでもこの街でも、いつも3人でいたわけじゃなかった。
あるときは一緒、あるときは一人で、それぞれが空気のようでいて、
基本的にみんな1人旅をしていたのだ。
6歳になったばかりのKAYAも1人旅。
同じ宿にイギリス人の父娘が泊まっていた。
彼はドラムスを叩く人。少女はSkyという名前で、やはり6歳だった。

SKYと彼女のPapa

2人でパンジャビースーツ(インドの民族衣装)を着て
サダルストリートに駆け出していくのを見ると、不思議ないい気持ちになる。
KAYAは毎日少しずつ英語を覚えてくる。
Skyがどんな状況でどんな英語を話すのかを見ているのだ。
だから、KAYAは1人で僕らの煙草や彼女のアメ玉を買うことができる。

モダーンロッジの前に不可触賎民(アンタッチャブル)の住む部落がある。
アンタッチャブルとはインドの身分制度のさらに外に位置する人々。
インド人は触れることすら拒む。
カースト制度の枠にさえ入れてもらえない悲しい人々…。
KAYAはそこの子供たちとも友達なのだ。

自分で作った友達。僕もKAYAに連れられて遊びに行った。
カーストの幕に閉ざされ一生アンタッチャブルとして生きる子供たちは、
その中に入ってみると、みんな羨ましいくらい明るい子供たちだった。
◆ここの子供たちは今思えばアンタッチャブルではなかったと思う(2006)
ロッシーナは足が曲がっていた。ただそれだけのこと。
スルタナは聡明な美人で英語が少しだけ話せた。
そんな中でKAYAはすっかりインドの子供。
ヒンディ語と日本語の会話だったけれど、問題なしだった。
「お兄ちゃん、この子たち………だって言ってるよ」
本当かもしれないと思った。

ある日、部屋で昼寝をしていると、窓の外から
「オニイチャーン、カモーン!」
とインドの子供たちが僕を呼ぶ声が聞こえた。
窓を開けるとKAYAと子供たちの顔。
KAYAが言う、
「このコたちね、今からお米を買いに行くんだって。お兄ちゃんもおいでよ。」と。
果たして、曲がりくねった路地をついて行くと、それはお米屋さんだった!
僕は心から驚いてしまった。

子供たちの純粋な世界では言葉なんて必要ないのかもしれない。
大人たちの決めた身分制度や仕組みも関係ないんだよ。
それからは僕も子供たちの話すヒンディ語に耳を傾けた。
だけど、僕の感覚ではまったく駄目だったよ。
解ったことは、僕ら大人は会話を先回りして聞こうとしてしまうこと。
ハートで聞いているわけではない、ということ。

KAYAは特別だったのかな。

テレビゲームにかじりつき虚構の世界をさまよい、
あるいは、幼児教育を受け、大人の言うとおりの生活をしている日本の子供たち。
架空の世界で独り遊びをするか、
大人の論理や思考の中で生きている今の子供たち、
彼らにも分らないだろうと思う。

KAYAは風のような子供だった。
KAYAの世界や観念を大切にして、距離を置いて接する真理の育て方かな?
邪悪でタフな街・サダルストリートはKAYAの目にはどう映ったのだろう。
物乞いや不具者を見て何を思ったのだろう。
それを聞けたら、きっと僕もこの世界を理解できると思った。
大人の価値観や常識に汚された僕の感覚じゃあ理解できない。
KAYAも言葉では説明できないだろう。
言葉は大人の世界のものだから。
KAYAが何かを語った途端に、それはありきたりのものになってしまうだろう。

KAYAは毎日1人で、あるいはSkyとサダルストリートへ駆け出していった。

牛に乗ってるよ@Buddh-Gaya

(wrote in 1990)

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『KAYA インドで出逢った女の子(3)』 印度旅行記-その12

真理とKAYAがバンコクへ発つ日が近づいてきた。

前にも書いたが、僕は生水を飲んで倒れてしまった。
生水は慣れていたはずだったが、同じ夜に同宿の旅行者2人が病院に運ばれていったので、
赤痢かチフスだと思った。
40℃近い熱と、下痢と嘔吐でのた打ち回った。
倒れて3日目の朝7時、真理とKAYAは部屋を出て行った。
オレンジを置き土産に「See You.」と言ってバンコクへ行ってしまった。

いつの間にか一緒にいて、一言「See You.」と去っていった真理とKAYAはまるで
空気のようだった。
空気がなくなると苦しいもので、僕は一層のた打ち回った。
KAYAが眠りに就いたあとで、僕らはいい話をいっぱいした。
彼女は遅れてきた全共闘世代。彼女は僕の教師だった。
彼女は僕に考え方を教えてくれた。生き方を教えてくれた。
そしてガンジャの吸い方と世界の見方を教えてくれた。
KAYAは神様だったし、真理はMariaだったのだ。

真理とKAYAが僕の前から消えてしまった日、僕は自分の身体を諦めてしまった。
そして楽になれた。
僕はカルカッタの街に出た。
そこで路上のメッセンジャーに出会い、啓示を受けたことは前に書いた(第7話)。
その後僕はカーリーテンプルへ行った。

カーリーとはインド女神の分身で、血と死体を好むというもの。
それを祀ってあるのがカーリーテンプル。KAYAがよく言っていた。
「ママはね、カーリーなんだよ。怒ると恐いし、月に1回血を流すんだよ。」
真理はMariaでなければ、カーリーだったのかも知れない。

昼寝をしていると、窓の外で「KAYA! Where’s KAYA?」という声がする。
もちろん、スルタナやロッシーナたちがKAYAを呼ぶ声。
宿のマスター、ミルクティ(僕らには彼の名前が聞き取れず、そんな風に聞こえた)が
悲しそうに声をかけている。
「KAYAは日本に帰ってしまったよ」と。
そう、真理とKAYAは日本に帰ってしまった。
その日本は僕が帰る日本とは違うのだろう。
僕は変わっていくと思う。変わらなくちゃと思った。
スタイルじゃなくてスピリットを変えていくのだ。
そして、もっと素敵になれた時、インドのどこかでまた会うことができるだろう、と。

カルカッタを夜行で発つ日、僕はスルタナたちのところに遊びに行った。

スルタナは妹と2人、ベッド(木枠に縄が張ってあるだけ)の上で食事をしていた。
スルタナがノートを持ってきた。
そこにはKAYAの悪戯書きが…。
スルタナはKAYA宛てに手紙を書いて僕に渡した。
僕は、今のままでは真理とKAYAに会えないと思っていた。
いつまで僕はこの手紙を持っていなければならないのだろう…、そう思っていた。
実際は帰国後に会えたし、インドの時以上にいい思い出や仲間を作ることができたが。

真理とKAYAは愛されていたのだ。

日本の常識からするとどうだろう。
28歳、離婚、6歳の一人娘の学校を休ませてインド放浪(3ヶ月)。
「学校教育だけが教育じゃない。でも仕方ないから。」なんて言って、
誰彼同じ方法で子供を育てる日本の社会にあって、彼女は変わり者と見られるだろう。
親のエゴで育てられるKAYAは可哀相、そう思われるかもしれない。
けれどここでは素敵な人たちだった。
旅の途上、特にインドの大地では人を判断するのはその人間の出来だけ。
裸の人間の勝負になる。
学歴や経歴なんて意味ないもんね。それはただその人の上に着せる衣装。
「学校はどちらを出ましたか?」なんて意味のない質問。
そんなことを聞いて相手を判断する人は、一体どういう人なのだろう。
とにかく、真理とKAYAは他の多くの旅人たちと共に愛されていた。
風のように生きている人々は本当に素敵だった。
僕は今でもこう思っている。
彼女たちは僕に生き方を見せるためにインドにやってきた、と。

親のエゴで:
真理のように子供を育てるのが親のエゴならば、
いわゆる「普通」に育てるのもエゴだと思う。
子供が何を必要としているのかは誰にも分らないから、
親は親の価値観の中で子供を育てていくしかないような気がする。
親の価値観ってやつがない場合、世間のくだらない常識を押し付ける。
それはさらにエゴのような気がする。
結局は他の人の生き方を自分の価値観で決め付けないことだと思う。
スクエアな枠(常識)を持ち出さないことだな。
サリンジャーの短編「テディ」(ナインストーリーズ収録)の感覚かな。

(wrote in 1990)

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『聖なる地・ヴァラナシ (1)』 印度旅行記-その13

サトナーという田舎町から夜行列車"193train"に乗った(1988年1度目のインド一人旅)。

VARANASIの街に沈む夕陽 @ Trimurti Gest House

目指すはヒンドゥの一大聖地ヴァラナシ(ベナレス)、そしてガンジスの大河。
ヴァラナシは3000年の歴史を持つガンジス河沿いの街。
北はヒマラヤの麓から南はコモリン岬まで、インド各地からヒンドゥ教徒がやってくる。
金のある人は飛行機、車あるいは列車で、
金のない人は何ヶ月もかけて歩いてこの地にやってくる。
巡礼のため、ガンジス川を見るため、沐浴するため、
その聖水を家族のもとに持ち帰るため、
「せめて一生に一度でも」とやってくる。
中には(といっても結構多数だが)、
このガンジスの河辺で死ぬことを至上の目的にやってくる老人や病人、不具者もいる。
彼らはその日が来るまで『死を待つ人の家』に滞在し、
1日1杯の茶を飲み、少量の木の実などを食し、ガンジスに祈りを捧げる。

インドを旅する僕らもヒンドゥ教徒と同じように、この聖なる地ヴァラナシを目指す。
この地はインドの磁石なのだ。

きっとそこには何かがある。

明け方4時、列車はヴァラナシの駅に着いた。
荷物を背負って歩き出そうとした僕は、目の前の光景に立ち尽くしてしまった。
数基の薄暗い街灯のあるだけの駅前広場に人々が溢れかえっているのだ。

VARANASI Cantt Station at 4:00

1枚の毛布と水缶だけを持った人々が寝ていた。
足のない人の傍らには義足があった。
包帯で手のない手首を包んだ人はライ病だろうか。
とにかく誰もが無事にこの至福の地ヴァラナシにたどり着いた。
人々が寝ているその合間を縫って、牛が歩き回る。
僕もその中の空いたスペースに腰を下ろした。

ここは地獄なのだろうか。
ここは天国への入口なのだ。天国までは歩いて30分。

腰を下ろして30分、人々が徐々に動き始めた。
もうすぐ夜が明ける。
朝陽が顔を出す前にガンジスの河辺に行くのだ。
僕はリキシャーと交渉する。ガート(木浴場)までなら4Rs。
ダサシュワメナートガートはヴァラナシでは一番大きなガート。
そのガートにある貯水塔のスピーカからマントラ(真言)が街中に流れていた。
ここには駅前よりももっと多くの人がいた。
ガートに続く小道の両側には物乞いが座り金を乞うていた。
信心深い人々は自分の来世のために、ガンジスの水辺にたどり着くまでの間、
彼らの前の皿や空き缶に細かく崩したコインを喜捨し続ける。
ヒンドゥシステム、対等のシステム。
彼らの間に優劣はなかった。

このヴァラナシは強烈な街だった。

ガートの手前でリキシャーを降りて、僕は宿を探し始めた。
この街は迷路のように幅2mほどの小路が入り組んでいる。
毛細血管のようだ。
真っ暗な小路の陰から牛が突然現れる。
こちらが壁にへばりついて、牛様をやっと避ける。
迷路の中の寺院には、まだ夜も明けぬというのに参拝の人々と読経の声。
安宿の看板。見つけた宿はトリムルティゲストハウス。

Way to Trimurti Gest House

鉄格子越しに前庭のベッドで寝ている宿の人を起こし、入れてもらう。
部屋は毎度のごとく、木のベッドがぽつんと一つ。
この宿に決めたのは屋上からガンジスに昇る朝陽と、
ヴァラナシの街に沈む夕陽が見られるからだった。
後々この宿に滞在して困ったことは、散歩の帰りに何度も道に迷ってしまったこと。

とりあえず荷物を下ろした僕はガンジスの河辺に向かった。
東の空、ガンジスの対岸が明るくなってきた。
僕はガートの石段に腰を下ろした。
少し離れたところに笛売りの男が立っていた。
いつもなら旅行者に、早速しつこいくらいの厳しい勝負を仕掛けてくる笛売りの男。
その時は、自分の肩から下げた袋の中の何本もの商売道具の中から1本を取り出して、

…、ガンジスに向かって曲を吹いた。
インド独特の幻想的なメロディで、
いつもこの種の商人をうざったいと思っていた僕の偏見は吹っ飛んでしまった。
聖と俗。

ヴァラナシには何でもそのままにある。トータルな美しさだと思った。
僕らの住む社会は完璧(何が完璧かは別にして)を目指すあまり病的だと思えた。
ここは人間くさかった。
最も俗な笛売りが今の一瞬、神秘的になり、聖になり…。
だけどきっと朝陽が昇りきってしまえば、また俗になり、
ヴァラナシの街角に出て厳しい勝負を僕らに仕掛けてくるんだろうね。

「完璧」という言葉は、ある種価値観を含んでいる。
「完璧」…、ある事柄それぞれにプラスとマイナスという評価を下し、
マイナスを否定し続けていくこと。
プラスとマイナスの基準はその時のメジャーの枠組みであって、
普遍(不変)なわけじゃない。「完璧」って病的。
「トータル」は全てをありのままに認めること、理解すること。
何もよくないけど、何も悪くない。どっちもOKという態度。
インドはトータルだった。Let it be.
(第6話『多様な価値感』)

後ろを振り返ってみると、
河に沿って延々と建ち並ぶ石造りの建物が真っ赤に染まっていた。
3000年変わらない光景。

(wrote in 1990)

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『聖なる地・ヴァラナシ (2)』 印度旅行記-その14

インドの心臓、ヴァラナシのガンジス河。

河に没っしていく石段の上に腰を掛けていると、
対岸の何もない地平線から朝陽が昇ってきた。
ガンジスの東岸は不浄の地とされ誰も住まない。
空は真っ赤になり、振り返るとこの干し煉瓦造りの街並みも紅く染まっていた。
強烈過ぎる夜明けだった。
スピーカのマントラ(真言)は一層がなりたてる。
人々が石段に降り、ガンジスに身を清める。両手で水を掬い、
目の高さまで上げ、掌から流れ落ちる水を飲む。
まるで祈っているようだった。多分祈りながら飲んでいるのだろう。
ある者は故郷に待つ家族に持ち帰るための聖水を真鍮の器に汲む。
ある者は座禅を組んで小さく真言を唱える。
ある者は小さな祠に向かって一心不乱に祈る。
河の中ほどに舟を出す者。
相も変わらずインド的商売をする者。
ここには一つの宇宙(コスモス)がある。3000年変わることなく続いてきた。

太陽がすっかり地平線から姿を現した。
その時、僕の中にスッと入ってきたものがあった。

何かが廻っている、その音が聞こえた。きっと宗教的な音。
輪廻転生をも直感が受け入れたのだ。
全てのものは「廻ッテイル」。
銀河系、太陽系、地球、地球の周りの月、原子核の周りの電子…。
食物連鎖や大気の循環…。
血液。歴史。みんな廻っている。
だから僕の生も廻っているんだろうって、
何の脈絡もないけど、その時思ったのはそんなことだった。
理屈じゃない。そして、それについては一切の懐疑もなかった。

マントラ(真言)が流れ、敬虔な人々の祈りに満ちているこのヴァラナシで、
大きな真っ赤な太陽を見た僕は気が変になっていたのかも知れない。
ただ、良かった。

世界は良かった。

何かが廻っている音、
それは僕の知らぬところで廻り続ける大法輪の音だったのかも知れない。
宇宙のバランスを理解した(ような気がする)。
僕の心の中でその音を聞いたことで、
僕の中にも宇宙があることを理解した(ような気がする)。
僕の小さな杞憂もすべて、宇宙の大きなバランスなんだって思えた。
ヒンドゥ教を理解した。この思い宗教はこの大地で生まれたのだ。


朝陽がすっかり昇り空気が白くなった頃、やっと僕は立ち上がった。
ガート沿いのバザール(市場)にある安食堂でカリーを食った。
それから僕は下流へ向かって歩いた。
300mほど行ったところがマニカルニカガートだ。

マニカルニカ、

このガートは沐浴場ではない。ヒンドゥ教徒の火葬場なのだ。
白い煙が上がっていた。
井桁に組んだ薪の上で死体が燃えていた。
その横には順番を待つ死体が白い布に包まれていた。
ヒンドゥ教徒は事故死以外は焼かれ、灰はガンジスに流される。
このマニカルニカは最高の火葬場。
灰は流され、巡り巡って次の生へ…。運がよければ次の生から開放される。
衝撃的だった。
人間の死体を、その焼かれる様をこんな形で見ることに準備がなかった。
しんどかった。

死体が炎の中で原型を失いつつある頃、
焼き場の男が長い棒で、頭骨だろうか、かたまりを叩き割る。
焼け方を均すためだろう。
時々火をいじり、具合を変える。
約1時間、煙が燻りはじめると、そこには薪の燃えた炭と灰だけが残った。
その灰がほうきで河に流され、水煙が上がる。

それで終わりだった。

彼はどこへ行ってしまったのだろう。
生きて生活をしていた男は焼かれ、そのほとんどが大気やガスになり、
残ったものはガンジスの流れの中にジュッという音と共に消えた。
本当に後には何も残らなかった。
彼らには墓はない。どこへ行ってしまったのだろうか。強烈だった。

だけど、考えてみると、それは良いことだと思えた。
素敵なことだと思えた。
死体は焼かれ物になってしまった。そして一層“自由”になった。
四角い地面に埋められ、いつまでも花や物を供えられ縛られている、
それよりもいいかなぁ、なんて思った。
自分の死ではないが「死」をこんなに身近に考える機会を、僕は良いことだと思った。
死ねば死んだ者にとって、体面も金も地位も残されたものの悲しみも、
何の関係もないということが、言葉や想像ではなく理解できた。
何もなくなってしまった焼き場を見ることで、彼の死を通して理解できた。

ヴァラナシは衝撃的な街だった。
ここには何でもあるのだ。
ここには無数の啓示があるのだ。


僕はこの街に長く留まろうと思った。
その日の夕方、僕は宿の屋上に上がり、
世界各国の旅行者と一緒にヴァラナシの街に沈む夕陽を見た。
街は再び真っ赤に染まっていた。
輪廻転生と死ぬことと…。
素晴らしく啓示に満ちた1日が終わった。
(wrote in 1990)

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『聖なる地・ヴァラナシ 火葬(3)』 印度旅行記-その15

ヴァラナシ滞在中の僕の日課は、マニカルニカで人が焼かれるのをひたすら見ること。

煩悩を断つ音が聞こえる @ NEPAL

死ぬということを心の奥で理解するために、
運び込まれる死体が焼かれ、灰とガスと水蒸気になり、やがてガンジスに流される、
その様子を毎日見続けた。
執着が消えていく様子を飽きもせずに見続けた。
去っていく者、そして残された者から1つの煩悩が消えていく。

跡には何もない。

焼かれた人の灰と炭になった薪が
ほうきで河に流されるときに立てる「ジュッ」という音は、鎖を絶つ音。
解放されている。遺族に涙は既にない。

2度目のインドの旅。
僕は妻とカトマンドゥ(ネパール)のはずれの小さな村で火葬を見た。
ヒンドゥ寺院の前を南北に流れる小さな川。
両側は石段の沐浴場。西岸の中ほどにその火葬場はあった。
この川もやがてガンジスに流れ込む。聖なる河の小さな支流。
そこで見たものは良かった。


僕らがここにやってきたとき、1人の男の火葬が始まっていた。
そして、その対岸、ほんの10mほどの向こう側では
村の女たちがサリーを洗濯し、髪を洗っていた。

「生活」と「死」は隔てられていなかった。

男の体から水蒸気が昇り始めると、
村の女たちの姿が蒸気の向こうでゆらゆらと揺れだす。

約1時間、男が灰になっていく。
石段に広げたサリーが強い陽射しで乾くと、女たちは村へ帰っていく。
そして、別の女たちがやってくる。
子供の身体を石けんで洗う女たち。洗濯をする女たち。沐浴する女たち。

ヴァラナシで見たのと同じように、
焼き場の男が焼き方を均すために長い棒でかたまりを叩き割り、火を動かす。

原型のあった男の体は、今ではほとんど炭と灰になってしまった。

約2時間…。
炎が消え、白い煙が燻りはじめると、長い棒で火葬台の上の炭と灰を川に流す。
水煙とジュッという一瞬の音。

火葬が終わった。

焼き場の男たちが立ち去る。
そこには何もなかった。
そして、その向こうでは相も変わらず女たちの生活。談笑の声。

「死ぬってこんなものなのかなあ。」

彼女はこれが死を見る3度目だった。
1度目はアーグラという街での葬列。
布にくるまれた遺体を高々と担ぎ上げ、
おもちゃのような飾りをつけた30人ほどの少年たちが歌い踊る。
ガンジス河の支流、ヤムナー川の火葬場までのパレード。
そのメロディと陽射しの強烈さに悲しみは感じられなかった。
死者がガンジスに帰るのを祝うようだった。
2度目はヴァラナシ、マニカルニカガート。
僕が1度目の旅でそうしたように、彼女もいつまでも人の焼ける様を見ていた。
そして、このカトマンドゥの小さな村で3度目。
僕が死ぬことに対して感じたように彼女も感じていた。
「残された者は死者を解放してあげているんだ」

墓にも縛りつけず、この世界だけの記号である「漢字」で書かれた戒名もつけない。
お盆とかいって死者をこの世に引き戻す、そんなこともしない。
死はネガティブじゃないんだ。
生に対立することもないんだ。
生は死と共にあってトータルなんだ。
生きている者が死んだ者を思い煩う。何て不遜な考えだろう。
死んだ者の「死」は残された者の所有者じゃないんだ。
遺灰は所有物じゃない。

ガンジス河のこの聖なる地で死ぬために、インド各地から人々が集まる。
至福の土地での至福の死。
自分の心を解放するためにこのヴァラナシへやってくる。
死ぬための土地…、何となく羨ましく感じた。

3度目、妻とヴァラナシに来たときは、ちょうど祭り(プージャ)の時期だった。
ガートは真っ黒になるほどの人で埋め尽くされ、
笛とラッパとマントラ(真言)がヴァラナシの街に響き渡っていた。
笛とラッパとマントラは夜を通して街を包み、
僕らが目覚めたとき、祭りは歓喜の絶頂を迎えていた。


窓を開けるとガンジスの対岸に朝日が昇り始めていた。
(wrote in 1990)

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『下世話な話』 印度旅行記-その16


これまではインドの宗教観、死生観、宇宙観などなど、
もっともらしくエラソーに書き連ねてきたけれど、
今回はちょっと下世話にウンコの話。
今じゃインドに行ったことのない人まで知れ渡っているあの事実、
『インド人は素手で尻を拭く』についての一筆を…。
噂に聞く「そいつ」に出会ったのは夜中についたニューデリー、
ボンベイロッジの共同便所。
インド初体験のボンベイロッジについては以前にちょっと書いたけど
第4話「あぁ憧れのインド航路」)、
シングルルーム10Rs(当時120円)の安宿。
部屋にはポツンとベッドが一つ。
天井は低く、真っ直ぐ立てない。その上、窓がない。昼でも真っ暗。
で、便所は4~5部屋ごとの共同。入ってみると…、
「おーい!便器がないぞー!」
コンクリートの床には排水溝と足乗せ台。隅には汚れたプラスティックの手桶。
ウンコをした後は目の前の蛇口を捻る。
足乗せ台の周りを勢い良く水が流れ、ウンコは水と一緒に排水溝へ、という仕組み。
お尻の始末は…、まず、目の前のひび割れた手桶に水を汲み、それを右手に持つ。
その手桶の水を左手に掛けながら洗う。

で、その便所に飛び込んだ僕はどうしたか?
ジーパンのベルトに手をかけ一考。

結局また飛び出して部屋へ戻り、
アタックザックの中からトイレットペーパーを引きずり出してジャパニーズスタイル。
人心地だぁ。
次は挑戦しよう、と心に決めるのだが、
どうもひび割れに汚れの入り込んだプラスティック手桶を見ると、
まさに「フン切り」がつかなかった。
きっかけはトイレットペーパーを使い終わったときにやってきた。


My 自転車、どこまでも行こう

最初のときの感触は今でも忘れない。
自分のウンコを自分の意思で触るなんて22年間なかったわけで…。
で、感想は?と聞かれると気持ちいいのだ。病み付きになってしまうのだ。
お尻が喜んでいるぞーってのがしっかりわかってしまったのだ。
それからはずっと水派。もちろんインドの中での話ですけどね。
インドに後からやってきた新米旅行者に会うと、しきりに勧めちゃったりしてね。
うーん、やっぱ紙は汚いよ。

インドにはトイレットペーパーはやっぱりある。ちゃんと売っている。
だけど高いんだよね。
1巻で5Rs(約50円だけど、インドの物価事情では500円くらいの価値)くらい。
踏ん切りのつかない旅行者が時々トイレットペーパーを雑貨屋で買うのを見るが、
店のオヤジが汚れ物を見るような目をしていて面白い。
僕ら水派も一緒になって「汚ねぇーな」という顔をする。
うーん、やっぱり紙は汚い。絶対に尻にウンコがついている。


「そっちから先はジャングルだぁ、危ないぞ」
「うちで休んで行け」そう呼ばれて訪ねた家。

2度目のインドは当時同棲中の妻を連れていった。
で、彼女には初日から「水」を強要。
ビビッてたけどすぐに慣れたみたい。お尻の悦びが分ったみたいだね。

インドの路上には様々なウンコが落ちている。道の真ん中には牛のウンコ。
端の方には犬やサルや人間のもの。
さらには象のウンコや、ラクダのウンコ、山羊や豚や…。
ゲゲッと思うけど、まあよろしい。
でも人間のウンコにだけ紙がちょんと載っていたら、それは気持ち悪ぃーぞ。
何か平等じゃないよな。やっぱ紙は汚い。

でも日本に戻れば仕方ないね。インド式じゃトイレは水浸しだ。
ウォシュレットも姑息だよなぁ。
左手でちゃんと触らなくちゃ。確かめて安心できるんだけどね。

彼らはとても貧しく、出されたチャイ(紅茶)は見るからに汚く、
でも、僕は下痢を覚悟して飲んだよ。それが僕にできる唯一のこと

(wrote in 1990)

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『Possible on the road』 印度旅行記-その17


インドで僕が触れた動物、
・牛、馬、犬、山羊、象、ラクダ、熊(公園で芸をしていた)
半径1m以内に出会った動物、
・猿、羊、リス、バッファロー、などなど

ジャイプールという街は乾燥していた。砂と岩の町。
そこで初めてラクダを見た。
想像していたよりずっと背が高くて驚いた。のんびり優雅に草を食べていた。
僕らはスィン少年と一緒に歩いていた。
スィク教徒の名前はほとんどスィン。だからターバンを巻いている多くはスィンさんだね。
僕と妻はラクダに駆け寄り、尻をポンポン叩きながら嬉しくなってしまった。

「おー!ラクダだよ、ラクダ!」
スィン少年が言う。
「Yeah , Camel. Camel is possible on the road in your country?
(そうさ、ラクダさ。お前の国ではラクダは路上に可能か?―直訳)」
「日本にはラクダはいないよ。」と何気なく答えると、
スィン少年の興味を惹いてしまったのか、「Possible on the road」攻撃が始まった。
牛は? 豚は? 猿は? 象は?
僕は「No」としか答えられない。
辛うじて「繋がれた犬(Banded dog)がいる」と言えただけ。
スィン少年は目を丸くして「ヒュー!」と言った。

日本では猫と、鎖に繋がれた犬は見ることができても、
放されている動物はいない。
時々山から野生の動物が降りてくると、ニュースになったり、
捕獲されたり、撃ち殺されたり…。
それは日常の出来事じゃない。
街には車かバイクか自転車か…。
それは当たり前のこととして考えたこともなかった。
小さなスィン少年にとって「普通」だったのは、
車や自転車の走る同じ路上に動物たちが生きている世界だった。
動物と共存できる世界、共存する社会なんだ。

ヴァラナシのモンキーテンプルにはたくさんの猿がいて、参拝者に悪戯をする。

猿は街中にいても野生なのだ。
誰も観光の目玉にしようなんて考えないし、
猿がいることが観光の目玉になんてなり得ない。
ある人は猿と並んで腰掛け、一緒にチャパティ(ふすま粉の薄焼きパン)を食う。
というか取り合いをしている。
縁台の上で並んで寝ている。

猿は猿神ハヌマーンの象徴なので無下にはできないのだが、
猿に神様も地位を与えちゃうところがエライと思う。
馬はクリシュナ神の化身だし、
虎や牛や白鳥は神様の乗り物として崇められている。
動物愛護(保護)という言葉には人間の驕りが隠れているが、
インド人は端っから神様と人間の間に動物を入れちゃった。

道路(細かろうが太かろうが)の上には「牛様」がいる。

人や車は避けて通る。
細い路地では「牛様」が通過するのをこちらが壁にへばりついて待つのだ。
クラクションを鳴らした車の目の前の牛は、面倒臭そうに立ち上がり、
「けっ!」という視線とウンコを残して移動し、やっぱり路上に座り込む。
渋滞の大元が牛なんだよ。
野菜バザール(市場)では人々が金を払い買っている野菜を、
牛がフラフラと何の気ない素振りでやってきて、サッとくわえて食べちゃう。
せいぜい「ダッ!」と脅して追っ払うくらいだ。

動物は人間に何をしてくれるか?
プラスティック文化が入ってくる前はエコロジー、循環の大役を担っていたのだ。
牛の糞は藁に混ぜ乾燥させれば燃料になる。
また、それ自体が家を磨く磨き粉になる。
山羊や牛の乳は、そのまま、あるいはバター、ヨーグルトになって蛋白源に。
家庭から出るゴミは彼らの食料になる。彼らは街の清掃人。
列車の窓からバナナの皮を捨てると、ホームにいる牛が食べる。
で、駅は清潔。街も清潔だったのだ。

本当にありがたい動物だから、
昔のインド人は動物に人間よりエライ地位を与えていたのかも。
インドにプラスティック文化が入ってきた。
昔は列車などで飲むチャイ(紅茶)は素焼きのカップに入っていて、
窓から投げ捨てると土に還った。
インド人の感覚は今も変わらないから、
プラスチックカップも食べ物を入れるビニル袋も同じように窓から投げ捨てちゃう。
街にも捨てちゃう。
で、自然や動物はそこまで面倒を見てくれないから街はゴミだらけ。

動物と共存していた社会は、化学工業製品と大量消費文化が入ってきて、
相当ひどく壊れかけていた。
日本はその点でも末期的様相を呈している。
誰もが気付いてるはずなのに誰もやめようとしない。
自然は日本に見切りをつけている。

(wrote in 1990)


ここで終わってますねぇ。終わり方も恥ずかしいなぁ。
1990年、16年前。この後きっちりとバブルが崩壊してくれた。
つまりバブル絶頂期の異常な時代だったという理由はあるにせよ、嫌だなぁ。
「ヴァラナシ」や「KAYA」については、
当時の自分は随分真面目だったなぁと読み返しましたね。
この後の文章はないんですよね。下書きみたいな殴り書きはあるんですけどね。
今の感覚じゃ続きを書いたらインチキになっちゃう。
こんな題名で続きを書こうとしてたんですよね。

「マリアホテル、屋上で星を見ながら1泊5Rs」
  
~安宿旅行、どんなところにどんな風に泊まっていきたかの紹介的内容
「自転車を走らせた日、村はずれのクリシュナ寺院」
  
~宿で借りた自転車で村はずれを訪ね、そこでの素朴な生活についてを
   書こうとしてますね
「田舎町でガンジーが生きている、Long Live」
  
~Long Live(長生きしてください!)などの落書き、町のいたるところで
   見られるガンジーの偉大さが内容
「6本指の彼」
  
~ラージギールからのバスの中で出会った青年は指が片手に6本ずつ。
   それは何の意味もなかった。
「地獄へ行くのか天国へ行くのか~夜行列車」
  
~物乞い、宗教的な歌、煙草の煙、夜行列車はくすんだライトの小宇宙。
   チケット購入や座席確保のための闘いを書きかけてます。


今回の旅行記アップに際して、いろいろガサゴソと探していたら、
当時新興宗教に嵌っていた女の子にインドから宛てた手紙の下書きが出てきた。
年中僕を誘うわけね、○○先生の話を聞きに来て、と。
今もそうだけど、異常な時代だったこの頃、怪しげな宗教がたくさんあって、
そこに誘われる危なっかしい子がたくさんいた。まじめな子が多かったね。
余計なお世話なんだけど、どうにかしたくて書いた手紙がこっちです。
Nirgili HOTEL in Patna

まぁ、いずれにしても印度旅行記、ジャマイカ旅行記ともおしまいです。
読んでくれた人がいることを思って。
THE END

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Nilgiri Hotel in Patna

こんにちは、旅の終盤パトナーという街にいます。
そちらはどんな日々でしょうね。

インドの街っていいよ。
地上10cmから見るインドも。
地上10mから見るインドも。
寝っ転がって斜めに見るインドも。
股の間から逆さまに見るインドも。
いつまで見ていてもいい。
真剣に見るインドも。
ボンヤリ見るインドも。
ナチュラルハイで見るインドも。
ガンジャ吸いながら見るインドも。
いつまでだって見てられる。

見る人の気持ち次第で無限の表情を見せてくれる。
恐いと思えば強烈なパワーで迫ってくる。
貧しいと思えば悲しいくらい貧しい。
のどかだと思えば死ぬほど退屈そう。
幸せだと思えば羨ましいくらい笑っている。
愚かだと思えば見ちゃいられない。
過去を探せばそのものが過去。
未来を探せばそのものが未来。

インドの見方を教えてあげる。
世界の見方を教えてあげる。
一番最初に諦めてしまうこと。
インドを諦める。考えることを諦める。
自分を諦める。日本人であることも諦める。
二番目に認めてしまうこと。
インドを認める。インドの全てを認める。
自分を認める。日本人であることを認める。
怖さも貧しさものどかさも幸せも愚かさも、
過去も未来も、自分も自分の身体も、
全て諦めること。次に全て認めること。

よくなっていくよ。

自分がね、大地の大法輪、宇宙の大法輪の中で
まわっているのが感覚的に分ってくるんだ。

僕ね、Calucattaで赤痢らしいものに罹った。
高熱と下痢と嘔吐で。
一生懸命熱を下げよう、下痢を止めようとしていたときは、
大法輪の回る音が聴こえなかった。
ある日ふと諦めちゃったのね。自分の身体に。
同じ日ふと認めちゃったのね。自分の身体を。
そしたら聴こえたよ。再び良いものが見え始めた。

自分の置かれた状況、状態って
宇宙の大きなBalanceの中では悲しいくらいつまらない。
認めてしまったとき、僕は謙虚になれたよ。
世界が優しく見え始めた。
ふらつく身体に荷物を背負って僕は旅を再開した。
その頃から高熱が下がった。
下痢は相変わらず続いているけどね。
まぁ、死にはしないだろう。
成り行きまかせ。
僕のカルマ(業)、捨の精神で行こう。

でもね、諦めるっていいよ。精神の休養。
アイスキャンディも食える。生水も飲める。
沐浴場の水だって飲めるんだよ。
それで余計に身体が悪くなったら?
その悪くなった自分をそれなりに楽しむさ。
実験みたいでいいじゃん。人生なんてそんなもんかな。
警戒している間は駄目。
何も理解できないし、何も聴こえない。
素敵なことをたくさん見落としているだろうね。
ただ疲れるだけさ。

今はいいよ。とにかくいい。
インドの流れに乗っているから。
時間に乗っているから。大地のリズム。
鼓動にあっているんだろうかね。

僕らは型圧しで作られたスクエアなケーキみたいなもん。
良かれとされ作られた。
何が良かれなんだろうね。
比較するってなんだろうね。
みんな同じ顔してるじゃん。
日本って貧しい国だと思うな。悲しい国だとも思うな。
もっと風に吹かれなくちゃね。
僕も22年間スクエアに生きてきた。
今、頭の中で思い出す日本って人形劇場みたい。
誰もがゼンマイ仕掛けでコトコト動いている。

社会復帰できるかなぁ。

君が通っていいる「****」は君に目隠しをしてないか?
 ****は彼女の通っていた新興宗教
君の耳を閉ざしていないか?
そして盲導犬よろしく
 良いところへ行く道はただ一つ、
 それは私が知っている。
 私のあとに疑うことなくついてきなさい。
という。
目隠しを外せば、君には盲導犬が要らないって分るはず。
耳の覆いを取り除こうよ。
もっと感覚を大切にした方がいい。
良いところなんてどこにもないし、
探す気になればどこにだって見つけられる。
何がよいか悪いかは君が判断すること。
執着を捨てて、諦め、認め、赦すこと。
地獄の中に天国が見えるかもしれない。

ガンガーの流れは悠大で時間を超えることができたよ。
Nilgiri Hotel in Patna
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印度旅行記INDEX


1987年、1989年、1991年とインドを旅行した記録。
1989年までの記録を1990年に文章にして、
恐らく1994年ごろ1991年分を加筆してフロッピーに保存した。
ここには当時のままの文章を載せている。
ブルーの字は1994年時点の注釈。
日本語で病名や状態を指す言葉に不快感を覚える方がいるかもしれない。
ただ、文章を読めばあの頃に僕がその言葉を選んだ意図が分ると思う。
だから、敢えてそのまま…、1990年の初筆のまま。

【INDEX】
第 1話 インドで出会った日本人たち
第 2話 インドで出会った外国人たち
第 3話 どうしてインドなのだろう
第 4話 あぁ、憧れのインド航路
第 5話 リキシャーマン
第 6話 多様な価値観
第 7話 路上のメッセンジャー
第 8話 GIVE & TAKE(生キテイケル)
第 9話 ビーチゾーリ
第10話 KAYA インドで出逢った女の子 (1)
第11話 KAYA インドで出逢った女の子 (2)
第12話 KAYA インドで出逢った女の子 (3)
第13話 聖なる地・ヴァラナシ (1)
第14話 聖なる地・ヴァラナシ (2)
第15話 聖なる地・ヴァラナシ 火葬(3)
第16話 下世話な話
第17話 POSSIBLE ON THE ROAD?
第18話
このあとも書くことはいっぱいあったはずだが終わってる。
今の感性じゃもう書くことがない。

【おまけ】
新興宗教に嵌っていた女の子に宛てた手紙 from Nirgili Hotel in Patna




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『インドで出会った日本人たち』印度旅行記-その1


1990年4月、
同棲中の僕らの部屋に冨士原くんと水島さんというカップルが遊びに来た。
僕らとはインドのラージギールで出会い、
仏陀が悟りを拓いた地ブッダガヤのブータン王国の寺の宿房で1週間を過ごした。
彼は僕と同い年(当時25歳)の絵描き。
彼女は出版社に勤めていた当時28歳の人。
いろいろなことを考えている人たちだった。
僕らは毎日のようにチベット難民キャンプにあるテント小屋の食堂で
チベタン料理を食べながら何時間も話し込んだのだった。
久しぶりに会った僕らは焼肉をつつきながらビールを飲み、
あのインドの日々のように夜中まで語り合った。
彼らは僕たちがインドに入った1989年10月の1ヶ月あとにバンコクからインドに入り、
やはり1ヶ月遅れて日本へ帰る予定だった。
僕らは帰国してから彼らの連絡を待っていた。
そして、忘れた頃の4月にやっと電話があったのだ。

彼らはインドに取り憑かれ、
ビザを更新しながら3ヶ月も余計にインドに居着いてしまったらしい。
良い話をたくさんしてくれた。
アラビア海に面した街ゴアでは、砂浜近くの干しレンガの小屋を借りて1ヶ月の自炊生活。
電気もガスも水道もない部屋。
彼らが最初にしたことは庭にかまどを造ること。
朝日が昇ると朝食のためにかまどの火を焚く。
魚は目の前のバザール(市場)、米や野菜は街のバザール。
朝食ができる頃にはもう日も高い。
海の砂で鍋を洗い、井戸水で流す。
そうするともう昼だ。
同じことの繰り返しで夜になる。
汲んできた井戸水で体を洗うと一日が終わる。
彼はその繰り返しに追われるだけの毎日に嫌気が差し、
自分が造ったかまどを壊してしまった。

でも、一日経てば腹が減る。

彼はまた黙々とかまどを造り直し、再び自炊を始めた。
2週間も過ぎる頃には手際もよくなって、本を読んだり、
海に出たり、バザールを訪ねる余裕もできた。
ゴアは世界中の旅行者やヒッピーやドロップアウト組の若者たちが長期滞在する街。
彼らの作る料理を食べにやがて多くの若者たちが集まるようになった。
鍋と釜だけの部屋に。
朝市で買ったイカでスルメ干しまで作った。
「生活するってことや健康で人間的な生き方が解ったんだ。
かまどを造れて飯が炊けても、今の日本じゃまったく役に立たないけどね。」
そう言って笑っていた。
すごくいい旅をしてきたと思った。羨ましかった。

インドというのは不思議な、それでいて何かホッとする国。
様々な啓示がある。
その国で出会った旅人も皆素敵だった。


2度目のインド、1989年にネパールで会った太田くんは会社を辞めて無期限の旅に出た。
船で中国に渡り、陸路西へ進みパキスタンへ。
パキスタンからインド、ネパールに入ってきた。
その後、ネパールから再び戻ったインドで金をなくし、おまけに肝炎に罹り帰国。
今は恐らく埼玉で働いている。
もう一人の太田くんとはカルカッタの安宿で会った。
屋上で星を見ながら寝ていた(屋上には縄ベッドが並べられ、飛びきり安い宿代なのだ)。
タイ、シンガポール、マレーシアを旅行していたのだが、
出会う旅人がインド帰りだったりインドを目指していたり…。
何かあると思った。
そして、バンコクの旅行代理店でアテネまでの1年オープンチケットを買って
インドに入ってきたのだ。
村瀬さんはあの広大なインド亜大陸を自転車で旅していた。
彼女の手作りのリュックを背負っていた。
インドのヴァラナシ(ベナレス)からネパール国境まで、
デコボコ道を窓無しバスで夜中に10時間一緒に揺られた。
吐く息も白い明け方の国境で僕らはポカラ行きのバスで、
村瀬さんがカトマンドゥに向け自転車で走り去るのを見送った。
ヴァラナシからネパールへ入る国境越えの方法を教えてくれたのが村瀬さんだった。
僕らはビザも持たずに夜行バスに飛び乗った。
1987年、僕はアタックザック1つ背負って旅をしていた。
ブッダガヤであった同い年の青年はすかすかのデイパックで旅していた。
3年ほどで世界一周の旅をしていると言っていた。
荷物は下着とフィルムと歯ブラシと…そんなもんだった。
高校を卒業して大学進学は敢えてせず、
千葉港で沖仲仕をやって貯めた280万円を持ってアメリカへ飛んだ。
アメリカで働き、その分で買ったバイクで大陸を横断した。
さらにイギリスやオーストラリアで働き、金が貯まれば旅を続け3年間。
僕らが出会ったのは彼があと2ヶ月で日本へ帰るという頃だった。
3年の間に持ち物が減り、シンプルに生きる方法を学んでいった。
「また旅するの?」と聞くと、
「もう旅はいいや。旅は良かったし、答えが見えたよ。
日本に帰ったら手作りの家具でも作りたいな。
それが僕の一生の仕事になればいいよ。」
日本に帰ってしばらくして彼から葉書が届いた。
千葉の生まれた街を去り、岡山県で家具職人としての修行をしている、とあった。
桝井くんという名前だった。
1991年、3度目のインドで会った安斎さんは48歳。
会社が倒産したついでにアテネまでのオープンチケットで日本を飛び出した。
「1年も旅ができて羨ましいですね」と言って励ましてやった。

みんなどうしているだろうね。


(wrote in 1990)

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『インドで出会った外国人たち』印度旅行記-その2

1987年冬、一度目のインドの旅。

大理石の巨大な墓、タージ・マハルで有名なアーグラという街では、
ディーパックロッジという安宿に泊まっていた。
木枠に縄を張ったベッドだけがある部屋。
ある夜、庭にある共同シャワーを浴びて外に出ると、
1人の西洋人の女の子が中庭で空を見上げていた。

インドの夜は灯りがない。だけど信じられないくらいの星が輝いているのだ。
まさに星が降ってくるよう。
それもワッと言う感じで。見上げると目眩がするのだ。
その女の子に声をかける。
「How’s your friend?」
「部屋でギターを弾いているわ。」
僕はブルースハープを持っていた。
早速彼の部屋に訪ねた。
彼はボブ・ディランの"Blowin' in the wind(風に吹かれて)"を弾いてくれた。僕はハープを吹く。
30年近く前、ディランの歌うこのメッセージは
システムに傷ついた若者、
ベトナム反戦を叫ぶ若者、
物質中心の世界に背を向け人間主義に理想を見て世界に散らばって行ったヒッピーたち、
彼らの間に拡がっていった。
やがて多くの有名アーティストのカバーと共に世界中で歌われた。
インドを旅するバックパッカーたちは皆この歌を知っているだろう。

彼は次にストーンズの"Waiting on the friend(友を待つ)"を歌ってくれた。
僕もギターを借りて美空ひばりの「悲しい酒」を弾いたが解らなかったみたい。
ジョン・レノンの"Imagin"を弾く。
想像してみてよ。すべての1人1人が平和な世界に生きていることを…。
君は僕を夢想家だと言うだろう。だけど僕1人じゃないんだよ。
いつか君もそう思って欲しい…やがて世界は一つになるんだ

こうやって違った国の人と1本のギターで一緒に歌うと
ジョンのこのメッセージがよく分かる。
彼は次から次に歌ってくれた。
彼女は彼の傍ら、ベッドに腰をかけて本を読んでいた。
いいカップルだった。彼はカナダ人。彼女はポルトガル人。
2人はギターと本を持って5年も世界を旅し続けていた。
いずれ彼の国カナダに戻り結婚するという。
僕らは最後にストーンズの名曲"Time is on my side(時が僕の見方)"を歌った。


「Time is on my side , Yes it is.」
お休みを言って部屋を出るとき、彼が言う、
「いつか日本でギターを弾くよ」
「東京で?」
「No. On the street.(路上でさ)」
格好よかったよ、ストリートシンガー。

1989年の冬、今の妻と2人、インド(ヴァラナシ)からネパール(ポカラ)へ。
バスで24時間の国境越えをした。
ポカラという村はヒマラヤがパノラマのように見える湖のほとりにある。
そこでステファンというスイスの青年に会った。
そしてポカラからバスで10時間揺られて着いた首都カトマンドゥ。
その街の安宿街で僕らは再会した。茶屋で話した。
彼は結婚していた。職を辞めてインド・ネパールを放浪しているという。
彼女が彼と結婚する前に1人インドを旅したそうだ。
そしてインドはいいよと言う。
それを確かめようと今度は彼1人がインドに来たのだ。

ガンジス上流の街、ヒンドゥ聖地リシケシで会ったスイスの女性は、
もう何度も1人でインドに来ていた。
時刻表片手の旅。
彼女が僕の妻に言った。「あなたはインドに必ず戻ってくるわよ」と。
実際僕らはその2年後、インドに「戻った」。

パトナの駅の待合室で夜行2等列車を待っているときに会ったフランスの女の子。

彼女は自分の軌跡をインドの地図にボールペンで記していた。
見ると彼女の日焼けと同じくらい真っ黒になっていた。
2年もインド・ネパールを旅していた。

ブッダガヤの安食堂で一緒にブルースハープを吹いたイギリスの老俳優。

仏教遺跡のある小さな村サールナートで頭を丸め、
サフラン色の僧衣に身を包み、仏教を学んでいたドイツの女の子。

彼女はチベットからの難民僧たちと一緒にいた。

イスラエルの青年は内戦の続く祖国で反イスラエルの立場、
つまりパレスチナサイドに立った。
そして祖国には帰れなくなった。
国に残してきた彼女に毎日のように宿の屋上で葉書を書いていた。
僕はカジュラーホの宿の屋上で地平線に沈む夕日を見ながらハープを吹いていた。
ディランの「風に吹かれて」を吹いていた。
旅を始めて1ヶ月目。
「How many roads かい?」、そう言って彼が屋上へ上がってきた。
僕は「蛍の光」を吹いた。
「その歌を知ってるよ。イスラエルでは朝ラジオから流れてくるんだ。
始まりの歌だよ。」
「日本ではお終いの歌なんだ。明日ヴァラナシへ行く。」
「じゃあ、ヨギロッジで会おう。」
僕は結局ヨギロッジには泊まらず、彼と再会することもできなかった。

ガンジス川中流のインド最大のヒンドゥ聖地ヴァラナシでは、
南アフリカ生まれのイギリス人と、
中国人の母とオーストラリア人の父親を持つ青年の2人と茶屋で一緒になった。
イギリス人の彼はアパルタイト政策に反対して祖国南アを捨てた。
もう一人の青年は母親が死んで中国を出た。
父親は軍人で彼が生まれたときに既に彼のもとにいなかった、つまりそう言うこと。
インドに永住するつもりだという。
インドと中国は難しい関係で、もう中国には帰ることができないだろう、と。
二度と祖国の地を踏めない2人の青年だった。

他にもたくさんの素敵な旅人がいて、ここには書ききれないよ。

(wrote in 1990)

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『どうしてインドなのだろう』印度旅行記-その3

1987年の年明け、卒業旅行でインドへ飛んだ。

仲間はハワイやヨーロッパへ行ってしまった。
何故インドなんかへ行くんだ、とよく聞かれた。
今でもきっかけはわからない。

大学生活はありきたりの学生のように学校にもあまり行かず、
バイトと麻雀とブランドの服と女の子のことだけだった。
就職はどうしたはずみか金融業界に決まった(3年次までに『優』は5個しかなかったけど)。
でも僕はいつも「何か面白くないナ」と感じていたのだ。
僕が「インド」に最初に出会ったのは、三島由紀夫の『暁の寺』の中だった。
けれど仲間たちと当時流行のカフェバーや雀荘に行くのに忙しかった僕は、
あまりインドのことを気に留めなかった。

大学3年の夏休みが終わって、
友達ではなかったがクラスメートの1人が一人旅から帰ってきた。
普段は無口のあまり友達のいなかった彼は、7月にトルコに飛び、
それからイラン、アフガニスタン、パキスタンを列車、バス、ヒッチハイクで通り抜け、
陸路インドに入り日本に帰ってきたと言っていた。
彼は相変わらず無口で友達も少なかったが、僕は強烈に彼を意識するようになった。

大学時代、
僕は時間があるとバイトで買った中古の軽自動車で1人、日本のあちこちを回っていた。

 17万円で買ったスバルR2、
 後ろにエンジンを載っけていた。
 エアコンなんてないし、
 東名高速を飛ばすと前輪が浮いた。
 2年後に18万円で売れた。

能登半島や神戸の街や…。
眠るのは車の中か、あまりに暑い日は駐車場の車の陰。
身体が汚れると夜中の学校に忍び込み、校庭で素っ裸になって身体を洗った。
ついでに洗濯をして神社の境内の干したり…。
何かをするわけでもなく、できるだけ長く旅行を続けるために1日の出費を切りつめた。
そして「明日はどこへ行こうかなぁ」なんて。
あの頃は何故こんなことをやってるのだろうと思うときもあったが、
今になってみればできない経験で懐かしいよね。
僕の大好きな人たちが住む漁師町、能登半島の先端にある珠洲市は
今、原発建設で分裂してしまった。
都会の人間の利便性と金を儲けたい山師たちのために犠牲になった人たち…。
出会った人やツーリングをしていた人々は元気だろうか。

片道2時間の通学だった僕は本もよく読んだ。
1ヶ月2万円くらいが書籍代に消えた。
無口なクラスメートの話を聞いてからは、
何故か手にする本の中に「インド」という文字が出てくるようになった。
インドには何かあるのかも知れないと思うようになった。
漠然とインドに行きたいと思った。
それが徐々に「行かなくちゃ」という思いに変わっていった。
決定的だったのは、横尾忠則の『インドへ』という紀行文の中、
三島由紀夫が横尾に「インドには、人それぞれに行く時期が自然と訪れる」という場面。

その瞬間だった。

僕はもう一度『豊饒の海・暁の寺』を読み返した。インドに行かなくては…。
就職も決まって卒業の目処も立ったので、僕は躊躇わずインド行きのチケットを買った。

今は、あのインド一人旅が転機だったと思っている。

Bus to CHHATARPUR、チャタプールは僕の地図にも載っていない小さな街だった

あの時インドに出会わなければ、皆と同じスーツを着て、
皆と同じ列車に皆と同じ無表情で乗り込み、
それで僕の一生は終わっていたかもしれないと思う。
高い給料と保証された生活の中で、ぬるま湯に首まで浸かり出られなくなっていただろう。
世界中の旅人にも会えなかっただろう。
サラリーマン生活は2年ほど経験したのだが、それは別に悪いものではなかった。
しかし、その世界で出会えた人よりも、
一晩安宿のドミトリー(大部屋、ベッドだけがたくさんある部屋)で一緒に過ごした旅人や、
街中の食堂で茶を飲みながら話した旅人から、
生きることについてより多くを学んだし、インパクトが強かった。

まして、インドというのは僕にとって特殊な国だった。
一人旅をしていると否応なしに考えさせられてしまう。
インドの旅というのは
「僕は誰なんだろう」、
「僕はどういう風に生きていけばいいんだろう」、
という問いかけが常に聞こえる内面への旅だった。

特等席は、On the Roof

インドは万華鏡世界で、旅をした人はその断面しか見られない。
しかし、求める人にはその人にあった答えを用意してくれるのだと思う。
ひとこと言えるのは、インドを旅したあとには2種類の人間ができるということ。
1つはインド大嫌い人間。
彼は日本の政治家、あるいは官僚にでもなれるだろう。
もう1つは僕のように何度もインドに戻ってしまう人間。
中間の人はいないらしい(観光旅行は別だけど)。
(wrote in 1990)

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