〔一人称小説と三人称小説〕
「語り」に視点を置くと、小説にはふたつの種類があります。「羅生門」のような作品を三人称小説といいます。しかし小説にはもう一つの語りの小説があります。それは一人称小説です。これは語り手が「私」になる小説です。たとえば「おじいさん」が語り手だったらどうなるでしょう。
妻は洗濯にでかけた。私は家にひとりになった。何もすることがない。ひまだ。ひまだからと言って、何もしないわけにはいかない。ひまなときに何もしないと、ひまが私を苦しめ始めるからだ。年を取るとその苦しみが一番つらい。だから無理やり仕事を見つける必要があった。山に柴刈りにいくことにした。とは言え、一冬分の柴はすでにある。これ以上の柴はもういらない。柴の山が夢に出てくるのもつらい。しかしそれは「ひま」よりはマシだ。「しば」は「ひま」よりまし。私の一日はそれを考えているだけだ。
こういうのが一人称小説です。この一人称小説は視点がはっきりしているという特徴があります。右の場合、おじいさんが見えるものしか描けません。だからおばあさんの心情は書けなくなります。
では三人称小説ではどうなるのでしょうか。三人称小説は神の視点です。ですからどの人物の心理も描くことは可能です。しかし「羅生門」を思い出してください。「羅生門」においては心理が描かれているのは下人だけで、老婆の心理は描かれていません。三人称小説においてはどの人物に視点を置くかは決まりはないのです。その視点の置かれている人物の心理を描くかも決まりはありません。どこに視点を置くかは作者の意図によっています。
逆説的になりますが、小説がなぜおもしろいのか考えたとき、謎があるからです。謎というのは描かれていないことです。つまり語り手の視点が外れたところが謎になり、その謎を知りたいと思うから読者はその小説を読み進めるのです。だから小説において大切なのは見えないものをつくるとも言えます。
作者はそれを考えて語りの形を作り上げているのです。
〔プロットとストーリー〕
「ナラトロジー」でもう一つ大きなテーマとなるのは、時間と「語り」の関係です。例えば「山月記」を思い出してください。山月記では虎になった李徴と袁傪が出会った場面の中で、過去の李徴の思い出が語られます。語りの時間が現在だとすると、現在の時間の中で過去が語られ始めるのです。つまり出来事順と語りの順が違うのです。
出来事順のことを「ストーリー」と言います。その「ストーリー」をより面白くするため順番を出来事順ではなくしたものを「プロット」といいます。小説では「ストーリー」がおもしろいものもありますし、「プロット」がおもしろいものもあります。もちろんどちらも優れているものもあります。小説の作者は「ストーリー」とともに「プロット」を考えます。
〔小説の時間〕
そのように小説の時間を考えていくと面白いことがたくさん見えてきます。
「こころ」の場合は、みなさんが教科書で読んだものは、「下 先生の遺書」の一部です。しかし「上」「中」は読んだでしょうか。まったく違う時間が流れていました。「先生」と出会った青年の手記であり、その手記はストーリーとしては、「下 先生の遺書」に書かれている部分よりも後の出来事が書かれているのです。「上」「中」と「下」の時間が逆転しているのです。これは何を意図しているのでしょう。興味のある人は考えてみてください。
あるいは時間を省略する場合もあります。映画で言う「カットバック」ですね。場面の展開にとても効果的な技法です。
あるいは同じ時間に起きたことを、別の人間がそれぞれ語るということもあります。推理小説でよく使われる手法です。一番有名なのは芥川龍之介の「藪の中」です。1つの事件を3人が語ります。そして3人がそれぞれ別の結論を言うのです。だから真相はわかりません。「真相は藪の中」という言葉を聞いたことがあると思いますが、この言葉の語源となっている小説なのです。
〔作者は総合プロデューサー〕
時間も「語り手」が関わります。どのように「語り」を順序だてていくかが小説の面白さを作り上げていくのです。
語り手が筋(ストーリー)にどのように介入していくかは、作者が決めているのです。小説家の作者というのは、語り手に筋(ストーリー)の語り方を演出していく総合プロデューサー的な役割をしていることがわかります。逆に言えば、語り手の介入の仕方に作者の意図が表れると言っていいのです。