現在3年生の現代文の講習をしています。その時にお話ししていることを紹介します。
[なぜ「現代文」の教科書に出てくる評論文が難しいのか]
現代文の教科書に採用されている評論文は非常に難解です。私が読んでいても「この文章は何がいいたいんだろう。」と思われる文章がたくさんあります。なぜ、国語の教科書に出てくる文章はこんなにむずかしいのでしょうか。これはおそらく大学入試のせいだと思います。特に、センター試験型の解答がすべて選択式の問題になったからです。
大昔の国語の試験問題はもちろん選択問題もありましたが、多くは記述式の問題でした。記述式の試験は受験生にとって大きな労力を強いるものです。ところが選択式の問題というのは、どれを選べばいいかを考えるだけなので、記述式の問題に比べ非常に楽なのです。解答を作り上げるという労力がないわけですし、選択肢がヒントになっていることもあります。漢字の間違いを気にする必要もなく、多くのストレスからも解消されます。私自身、センター試験の前身である、共通一次試験を受けたのですが、国語の問題がゲーム感覚でできるので、非常に楽にできるような気がしました。
このような状態ですので、大昔の記述式の現代文で扱われていた文章でセンター試験型の問題を作った場合、簡単になりすぎるという結果になってしまったのです。
私はセンター試験の国語の平均点がいくら高かろうが、別に構わないと思うのですが、大学側としては(あるいは大学入試センターとしては)、あまりに平均点が高いと、その人の力をはかることができないと考えたのだと思います。本当に力のある人も、そこまで力がない人も同じように満点近くの点数をとるので、本当に国語力のある人がわからなくなってしまうのです。(わたしはそれでもいいと思うのですが、それは別の議論となってしまいますので、ここではこれ以上追求しないでおきます。)
[センター試験を難しくするためにどうしたのか]
現代文の試験を難しくするのはかなり大変だと思います。センター試験の現代文の平均点をさげるために問題製作者が考えたことはおそらく次の二つだと思います。
- 選択肢を難しくする。
- 問題文を長く、難しいものする。
①は選択肢を長くして、大部分は正解でありながらごく一部だけ本文の内容と合致しない部分をつくることによって、受験生を惑わせようとすることです。実際のセンター試験でも、かなり意地悪な選択肢もありますが、模擬試験の問題の中には、そこまでやるかというような選択肢をよく見かけます。いくらなんでも行き過ぎです。
②についてが、この文章の取り上げるテーマなのですが、最近の国語の現代文の試験で扱っている文章が、現代思想、あるいは現代哲学の文章のような、大学というよりも、大学院で、しかも思想的な勉強を専門に扱う人が読むようなものになっているのです。はっきり言ってしまえば、高校生や大学生が読むべき文章のはるか上の文章なのです。
おそらく極端な場合、受験生はほとんど内容を理解できないまま読み進みます。しかし、選択肢を選べばいいだけなので、内容がわからなくても解答ができるのです。選択肢の間違い探しをしているような状況で試験が行われているのです。もちろん、これは極端な言い方をしているだけで、それなりに理解できる箇所もあるのですが、しかし、文章の本質的な部分は理解できないまま読み進めているのは間違いありません。
センター試験がこれだけ難しくなってくると、当然「現代文」の教科書に載る文章も難しくならざるを得ません。センター試験に対応することが国語の授業の大きな使命になってくるからです。
お断りしておきますが、そこまで難解ではない文章の年もあります。しかし、そういう難解な文章が出された年は印象に残ります。過去問を解いていてこんな問題出たらどうしようと思ってしまえば、そういう対策をしなければならない、それが受験です。教師たちは難解な文章を求めます。こうして国語の教科書にたくさんの難しい文章が出現したのです。
[難しい文章とは]
それでは現代思想的な難しい文章とはどういうものなのでしょうか。これは今私たちの常識となっていることを疑うものです。つまり、「当たり前」を疑うものです。では私たちの「当たり前」というのは何なのでしょうか。「近代」です。
日本は明治維新の後それまでの江戸時代までの常識を一変させます。日本は古い。西洋の考え方を取り入れるべきだ。西洋の考え方とは「近代思想」と呼ばれるものです。日本のそれまでの武家社会の常識が古いものと考えるようになり、西洋の「近代思想」を常識にしはじめるわけです。
西洋の「近代思想」とは、合理的で科学的な思想です。科学の力によって人間に大きな恩恵をあたえてくれます。経済的に豊かになり、人々に大きな「幸せ」が訪れるというものです。この思想が日本人の常識となります。
確かにある面では「近代思想」は正しい面もあります。しかしその「近代思想」的なものの見方に対して異を唱えるような考え方が出てきます。巨視的に見れば「近代思想」は一面的にしか見ていないのではないか、という考え方が出てくるのです。
いくつか上げてみます。
[言語論]
私たちは普通、何かモノがあるからそこに言葉が与えられると考えます。それが「近代の常識」です。私たちはそれを「当たり前」と考えます。しかし、20世紀の言語学者はそれに異を唱え始めます。「言葉」のあるから、人間はものを認識できるのだと言うのです。
そんなばかなと思うかもしれませんが、よく考えてみるとそれも1つの考え方であるとわかります。
[お金]
私たちはモノがあるからそれに値段がつくと考えます。だから良いものは高く、悪いものは安いのが普通だと考えます。しかし本当にそうでしょうか。「お金」のほうが偉くなって、高いから良いものだと考えるようになります。「お金」と「もの」が逆になってしまうのです。
[科学]
私たちは科学の発展は絶対に正しいものだと思います。科学の発展が人類にもたらした恩恵はものすごいからです。しかし科学の発展が人類に脅威を与え始めたのも事実です。原子爆弾などの人類を脅かす兵器、環境を破壊するような科学技術、クローンなどのような生命倫理の問題など、科学の発展に危惧するような事態が生じています。科学崇拝てきな「近代」の考え方がこのままでいいのかという視点の考え方が出てきます。
最近はやりのSDG`sというのはその一つです。
[身体]
「近代」の常識は精神の肉体への優位性です。それは頭がいい人間が一番偉いという思想です。現在でもそれは多くの人が感じています。しかし人間の頭の良さがそんなにいいことなのかという意見が多くみられるようになります。そもそも人間が頭と体と分けられるのかという思想が生まれてきます。身体こそが人間である。そういう思想が生まれてきます。
[子ども]
近代以前から、大人は労働力として価値のある存在ですが、子どもは体力がなく知識がたりないので労働力としては価値がないので、子どもは一人前の人格とは認められませんでした。しかしすべての人はそれぞれの人格をもっているのだからそれはおかしいというのが、現代の思想です。子どもも人格があり、その子どもの尊厳を守らなければいけないという考え方が近年高まっています。
さらに、近代的な教育は子どもの自由な発想の芽を摘んでしまっているのではないかという発想まで出てきています。
[女性]
同じような発想で、女性も考えることができます。近代以前は男は労働力として計算できるので男性上位の考え方が存在していました。そのために女性蔑視の社会が厳然として存在するようになってしまいました。その見直しが少しずつ始まっています。
同じような考え方が少数派の人々にも向けられています。障がい者や、LBGTなどに向けた視点も近代への批判から生まれてきたものです。
[グローバル]
「グローバル」も近代的な国家観の押し付けのような思想です。未開社会の国は近代化しなければいけないという発想です。しかし未開社会を無視やり近代化しなければならないのでしょうか。そもそも「グローバル」というのは、大国が自分の市場拡大のための方策ではなかったのかという疑念も生まれてきています。
本当に英語力がそんなに必要なのでしょうか。
[ネット社会]
「ネット社会」は近代の常識を現実的にどんどんぶち壊しています。情報をどのように扱うかを考えることは、現代的な大きなテーマとなっています。
[無意識]
私たちの意識の下にははるかに巨大な無意識があることがわかってきました。同時に実は人間の行動は大部分は無意識に支配されていることもわかってきました。人間は意識で行動しているつもりでも、実は無意識に行動している。そのつじつま合わせを意識が行っているという考え方も生まれてきました。だとしたら、私たちの勉強ってなんの役にたつのでしょうか。
[現代をどう考えるか]
以上のように現代文の評論文は「近代」に対する批判的な文章が多くあり、それが大学入試の「常識」となっているのです。そのことを頭にいれて、問題演習をしていると少しずつ速く文章がよめます。
ただし、試験問題は思い込みで読むと間違ってしまいます。丁寧に読むことが一番大切です。しかしわからない文章がおそらくこういうことを書いているのだろうなという推測をするときに以上のことをヒントにしてください。