難波博孝氏の『やさしくわかる論理の授業』を読みました。日常語の論理についてわかりやすく説明してくれる名著です。国語教師必読の書です。
私は論理というと、大学で勉強した論理哲学を思い出してしまいます。数学と言ってもいい。大切なものですが、日常言語では数学のような論理は不可能です。日常言語では言葉の意味もあいまいですし、厳密な数学的な論理もありません。その結果、同じ前提からも違う主張が生まれてくるという場面がよくあります。
例えば新型コロナウイルスの感染者が増加しているということを事実に対して、感染拡大防止のために休業要請をすべきだという主張もありうるし、休業要請をできるだけすべきではないというまったく反対の主張をすることはできます。これはどちらかが間違っているというものではありません。こういうことを考えると、日常言語の論理なんてただのつじつま合わせでしかないのではないかとも思えてしまいます。
しかし、やはり論理は大切です。ここには日常言語の論理がしっかりとあるのです。それをすべての人が理解している必要があるのです。
先ほどの例を用いて説明します。
日常言語の論理というのは「事実」と「理由付け」と「主張」によって成り立っています。先ほどの例で言えば、「事実」は
「新型コロナウイルスの感染者が増加している。」
です。それに対しての「主張」は、
①「感染拡大防止のために休業要請をすべきだ。」
②「休業要請をできるだけすべきではない。」
です。そしてそれぞれに「理由付け」はこうなるでしょう。
①「感染拡大防止のためには、『密』をさける必要がある。」
②「感染拡大を防止ばかりしていては、経済が回らなくなり、生活できなくなる人が増加するだけであり、より深刻な問題となる。」
この論理は両者ともに成立しています。この論理のどちららを選べばいいのか。実はこれは受け手側の問題なのです。これがこの本によって明確に説明されているのです。
筆者はこの受け手側の問題を次のように説明しています。
そのことばがわかるということ、あるいは論理的であるということには、以下の4つの次元がある、ということになります。
ある言葉が論理的である、ある言葉がわかるとは、
●ある言葉が、ある学問レベルの妥当性を有している。
=トゥルミンモデル的妥当性にかなっているのがわかる
●ある言葉が、私の、日常レベルの妥当性を有している
=三段論法と事実の妥当性に適っていることがわかる
●ある言葉に納得する
=私のもっている、優勢な(代表化された)信念に合致している
●ある言葉に説得される
=私のもっている、代表化されない信念に響いている
この4つの次元を区別することは、国語科では重要です。
この説明は腑に落ちます。論理性は発信者側だけではなく、受信者側も支えなければいけないのです。そしてそれがどのレベルなのかを弁別しなければいけないのです。これができるために国語教育が必要なのです。
うまい説明にまだなっていませんが、もっと深く学び、もっとうまく伝えられるようになりたいと思います。