古典の授業の話です。古文では敬語の指導が重要です。敬語では「敬意の対象」を教えます。敬意の対象というのは、ある敬語について、この敬語が誰から誰に敬意を示しているのかというものです。この「誰から」の部分が次元の違う話に突然行ってしまうのです。
現代語で考えたほうがわかりやすいので、現代語の例を上げます。
「その日源氏の君は、帝のもとに参上なさりました。」
という文があったとします。この中の「参上」は「行く」の謙譲語、「なさり」は尊敬の補助動詞です。ここでこの二つの敬語の「敬意の対象」は誰から誰に対するものでしょう、という問題が出題されます。
謙譲語は動作の受け手に対する敬意を示すものです。だから「参上」は源氏が参上した相手、つまり帝に対する敬意になります。また尊敬語は動作主に対する敬意を示すものなので、「なさり」は源氏の君に対する敬意です。
それでは「誰から」はどうなるのでしょうか。これが大きな問題です。この答えはどちらも「物語の語り手」(正確ではないかもしれませんが、高校の勉強では「作者」でも許されます。)になります。ここに次元の違いが出現します。つまり「物語」の次元を超えて、「語りの場」を理解しなければならなくなるのです。「物語の構造」の理解が必要になり、「ナラトロジー」の基礎につながります。これは古文だけの問題ではなくなり、小説の読み方につながります。
「物語の構造」を学ぶ単元を構成していくことが可能になります。