とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

1年前シリーズ 日野照正さんのビンタと日本の教育事情

2018-09-02 18:20:52 | 1年前シリーズ
 1年前に次のような文章を書いていた。

 日野皓正さんが中学生をビンタしたことが話題になっている。私はそれほどのこととは思わなかったのだが、やはりマスコミは大騒ぎして、例のごとくみんなが「持論を展開」している。

 教育の現場にいる人間にとって「体罰」はいけないというのはもはや十分わかっている。そしてさらに「ことばの暴力」もいけないとなってきた。厳しく教え諭すことは認められてても、生徒の心を傷つけるようなことを言ってはいけないという。ここまでくるともはやなんにも言えなくなる。生徒によっては些細な言葉でも傷ついてしまうからだ。教師も生活がかかっているし、やはり日々のストレスの中厳しいことを言わないほうが楽なのは当然である。自主規制と忖度が働き、生徒に対して決して厳しく言わなくなり、学校はレジャーランドのようになってしまう。

 家庭に教育力がある場合はそれでも問題はないものと思われる。学校は勉強をする場であり、人間形成は家庭に任せておけばいいならば、それでかまわない。しかし、日本では学校に人間形成まで任せている。そのような中で、こんなに甘やかされてしまって本当に大丈夫なのか。自己主張はするが、それに見合う努力をしない人間ばかりになってしまうのではないか。日本の現状の教育状況は未来に大きなつけを残そうとしているのではなかろうか。

 今回の日野さんの件は、大切なことを考えさせる契機となっている。建前で終わらず、もっとよく考えてみるべきことだ。単純なバッシングでおわるようなことだけはやめてほしい。


 現在、スポーツ界でパワハラが問題になっている。私はスポーツにおいてはほめてのばすことは大いに賛成である。しかし厳しいことを言うことも大切だと思っている。もちろん昔のような体罰や人格を否定するような言動は現在はやってはいけない。しかし同じ失敗を繰り返したり、やってはいけないことをした生徒に厳しいことを言うのは当たり前のことである。

 大切なのは指導者がその子の為になるという確信をもって指導することである。自分や組織のために子どもを指導してしまえば、どんな言動でも間違いである。言葉遣いが丁寧でも「パワハラ」である。

 もちろんその子のためになるのか、自分のためなのかというのはそんなに簡単に見分けられるものではない。だから教育はむずかしいのだ。
コメント
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