まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

グローバル・エシックスと 「9.11」

2010-09-11 08:46:00 | グローバル・エシックス
あの日からもう9年も経ってしまったんですね。
ついこのあいだのことのように思えるのですが…。
この9年の間に 「グローバル・エシックス」 に関する共同研究を行いました。
すでにお伝えしたように、その成果を一昨年刊行しています。
寺田・舟場編 『グローバル・エシックスを考える 「9.11」後の世界と倫理』、梓出版社
そこに寄せた論文 (「カントとテロリズム」) の一部をご紹介することによって、
あの日のことを心に刻むことにしたいと思います。
まず、前書きでは次のように書きました。



一 グローバル・エシックスと9・11

 思い返せば、東西冷戦が終結してから9・11に至るまでの短い期間、人類のグローバルな連帯が可能になるかもしれないという儚い希望が仄見えていた時期があったように思われる。差し迫っていた核戦争の脅威が少し遠のき、環境問題、人口問題など、国家やイデオロギーの違いを超えて連帯して取り組まねばならない課題に本腰を入れて立ち向かっていかなければならないし、また立ち向かっていける体制が少しずつ整いつつあるようにも見えたものである。
 その時代に相次いで提唱されるようになってきたのが「グローバル・エシックス」であった 。ここでは寺田俊郎による暫定的定義を借りて紹介することにしよう。「グローバル・エシックスとは、さまざまな社会的相互作用が国民国家の枠を超えて地球規模で活性化した時代(グローバリゼーションの時代)において、正義にかなった世界のあり方を規定すべき規範、およびその規範を明らかにしその根拠を批判的に問う哲学的探求である」。1990年代の思潮を、グローバリゼーション(ならびにグローバリズム)の時代においてグローバルに妥当する倫理を探究する試みとして捉えることは、あながち的外れでもなかろう。
 グローバル・エシックスが対峙すべき課題として、グローバルな経済、グローバルな政治、グローバルな生態系等々によって引き起こされる世界規模の根本的危機にどう立ち向かうかということが挙げられる。これらの危機に対処できるグローバルな枠組みを作ることができるのか、人類を普遍的に拘束するグローバルな倫理規範に諸文化、諸文明、諸民族、諸国家、諸宗教が合意することができるのか、そうした人類史上かつてない連帯を求めて世界が動きだそうとしているときであった。そこに9・11である。人類初の試みが抱える困難を露呈し、連帯への道を断ち切るに十分なインパクトをもってこの事件は勃発し、グローバル・エシックスへの道ではなく、テロリズムの道へと大きく軌道を旋回させることになった。
 グローバル・エシックスを論じる上で、テロリズムの問題は中心的テーマではないかもしれないが、避けて通ることのできぬ問題のひとつであることは確かであろう。そこで本論では、カントの思索を手がかりにテロリズムの問題について考えてみることにしたい。



で、本論では 「テロリズム」 という語の元の意味に立ち返り、
フランス革命のときに国家の側が行った恐怖政治のことを 「テロリズム」 と呼んでいたこと、
したがって、9.11のようないわゆる 「現代的テロ行為」 ばかりでなく、
国家の側が行う 「テロリズム (恐怖政治)」 こそが人類の共存を脅かしていることを論じました。
そして、この論文の最後は、カントの政治哲学と結びつけながら以下のようにまとめました。



六 カントからの提言と私たちに残された課題

 テロリズムへと大きく足を踏み出した世界を、再びグローバル・エシックスの方へと導いていくことは可能なのであろうか。この時代において、分断され恐怖によって支配されている人々を共存・連帯へともたらすことは可能なのであろうか。この問題に対するカントからの提言は、すでに紹介した「いかなる戦争もあるべからず」に収斂すると言っていいだろう。ここまで見てきた通り、この平和の定言命法は、現代的テロを禁止すると同時に、テロリズム(=恐怖政治)をも否定している。私たちは、カントのこの提言を深く胸に刻みつける必要がある。
 とはいえ、「いかなる戦争もあるべからず」と繰り返すばかりでは、永遠平和という予言的歴史を現実のものに変えていく力に欠けるであろう。カントが永遠平和のための予備条項や確定条項を求めていったのと同様に、私たちは時代に合わせて平和実現のための具体的戦略(すなわち仮言命法)を練り上げていかなければならない。私たちに残された課題は山積している。近隣諸国が核兵器も含む軍備を整えている中で、いかにして自国の安全を守りつつ、時とともに軍隊を廃絶していくことができるのか。ある国家内においてある集団が抑圧されているのが明らかな場合であっても、「人道的介入」は許されないのか。せっかく成立した民主主義国家がテロリズムに堕し国民を戦争へと駆り立てる場合に、戦争を望まぬ国民はその民意をいかにして国政に反映させていくことができるのか。カントが夢見た国際連合は現実のものとなったわけだが、この組織はどの程度の強制力を保有すべきであり、様々な紛争やテロに対してどう対処していくべきなのか。グローバリズムが進行する中で、世界市民としての連帯をいかなる形で作り上げ、理性と信頼に依拠した人間たちの関係をいかにして築いていったらいいのか。私たちはテロとテロリズムがもたらす恐怖や不信に抗って、私たちの時代にふさわしい平和実現のための仮言命法を案出していかなくてはならない。



最近の私のテーマである、「平和の定言命法」 を堅持しつつ、
それを現実化するための 「平和実現のための仮言命法」 を探っていこうという提言です。
カント研究者のあいだではあまり評判よくありませんが、
私としてはもうしばらくこの方向性で研究を進めていきたいと思います。

痛い思い出

2010-09-10 16:21:59 | 生老病死の倫理学
私は1994年に福島大学に来ました。
その年の6月に生まれて初めて骨折してしまいました。
当時自転車で駅まで通っていたのですが、
官舎の裏手にあるS字クランクをいつもより少しスピードを上げて通り抜けようとしたところ、
タイヤがズルッとすべって自転車ごと左側に倒れてしまいました。
ペダルから足を離して身体を支える暇 (いとま) もなく、
左膝からアスファルトの道に激突し、ヒザのお皿がパッカリと割れてしまったのです。
骨折したのが初めてだったので、翌日病院で手当を受けて驚いたのは、
骨折ってなにか治療らしい治療をするわけではないんですね。
要するに、ギプスで固定するだけ。
あとは骨が勝手に自己再生してくっつくのを時間をかけて待つだけなんですね。
私の場合はヒザを曲げることができないように、
太ももから足首までのギプスをはめられて、松葉杖生活が始まりました。

そして残念なことに、その同じ6月に父が亡くなってしまったのです。
そうなんです。
私は父のお通夜や告別式のあいだじゅう、
親族代表としてご挨拶を申し述べるときも、
さらには九州嬉野のお墓に納骨に行くときもずっと、
ギプスと松葉杖姿のままだったのです。
これはけっこうたいへんでしたねぇ。
よりによってなんでこんな時に、と自分の愚かしさを呪い、
父のタイミングの悪さにも毒づいたりしていたものでした。

で、もう記憶が薄れてしまったのであやふやなのですが、
たしか葬儀場から火葬場への移動の時だったと思います。
ものすごく痛い思い出がひとつあるのです。
葬式のときってクルマに乗らなきゃいけないことが多いですね。
ところが私はギプス&松葉杖状態ですから、
クルマの乗り降りがものすごく不自由でした。
左脚はギプスで固められまったく曲がりませんし、
左脚に体重をかけることもできません。
その場合そもそもどうやってクルマに座ればいいのでしょうか。
これはもう福島でも大学の同僚たちにずいぶんお世話になっていましたので、
乗り方は確立しています。
ちょっと大きめのクルマなら、助手席をめいっぱい下げてそこに座ることもできますが、
たいていの場合は、後部座席全部を占拠して、
左脚を横に投げ出すようにして横座りするのです。

しかしながら、クルマの外に2本の松葉杖を使って立っている状態から、
その横座りの体勢までどうやって移行したらいいのか、
これを習得するにはかなりの時間がかかりました。
まずは左の松葉杖をクルマの中に入れ、左手で開いたドアのルーフの部分をつかみます (①)。
わかりますか?
ドラマとかで警官が犯人をクルマに乗せるとき、
犯人の頭がぶつからないように頭を下げさせながら犯人をクルマの中に押し込みますね。
あの頭がぶつかりそうになる部分のことです。
あそこを左手でガシッと握るのです。
親指は車内に、他の4指は屋根の上にかける感じになります。
その左手と右脚で体重を支えながら、右の松葉杖もクルマの中にしまいます (②)。
そうしたら右手で後部座席の背もたれのあたりをもち、
まずはギプスで固められた左脚を後部座席に投げ出します (③)。
そこからは両手で全体重を支えつつ、
右脚を後部座席のシート部分にヒザをつくようにして折り入れていきます (④)。
さらに両手で身体を持ち上げながら、
折り入れたヒザを伸ばしつつお尻で座れるように体勢を整えていきます (⑤)。
横座りの体勢が確保できたら、両手を離して乗車完了です (⑥)。
ドアはめいっぱい開いている状態ですから、この状態で自力でドアを閉めるのは不可能です。
誰かに閉めてもらうしかないでしょう。
下りるときはこの逆をやらなくてはならないのです。

とまあ、こんなつらいエクササイズをクルマに乗り降りするたびやっていたわけです。
そして悲劇が訪れます。
たぶん火葬場に向かおうというときだったと思うのですが、
いつものように私は一連の手順を踏んでクルマに乗り込もうとしておりました。
で、⑤の部分まで来て、両手で体重を支えながら体勢を整えようとがんばっていたのです。
ところがその最中に、外に立っていた妹がバターンと思いっきりドアを閉めてしまったのです。
このときまだ私の左手は 「ルーフ」 を 「ガシッと握り」、
「親指は車内に、他の4指は屋根の上にかける感じ」 になっているんですよっ
なのにあいつはドアを思いっきり閉めやがったのです
私は本当に 「ギャーッ」 と叫んでしまいました。
驚いたことにドアは完全に閉まったのです。
普通だったら私の左手に阻まれてドアクローズに失敗し、
再び開いてしまったりしてもよさそうじゃないですか。
ところが、あいつはどれだけ力いっぱい閉めたんだか、
ドアは私の左手をはさんだままちゃんと閉まり、室内灯も消えたのです。

私の叫び声に気づいた妹はしかし私がなぜ叫んだのかには気づいておらず、
私がドアの窓越しにやつを睨みつけながら、
「手ぇ、手ぇ」 と繰り返したらやっと事態が呑み込めたようで、
あわててドアを開けてくれました。
ドアを開けながらやつは爆笑していました。
完全に閉まったドアから私の4本の指が出ている絵柄がよっぽどおかしかったようです。
私はその爆笑を咎める元気もなく、
ジーンとし横一線赤く腫れている左手の甲を見ながら、
今度は左手骨折かあと呆然としていました。
しかし幸いなことに骨折はしていなかったようで、
その日のうちに痛みも腫れもひいてきましたので、病院にも行かずにすみました。
それにしても、あの完全に閉まったドアと、妹の高笑いは未だに鮮明に覚えています。
父の命日のたびに甦ってきます。
いつか妹が脚を骨折しないかなあ、
そうしたらクルマの乗り降り手伝ってあげるのになあと楽しみにしている今日この頃でした。

可逆的秋?

2010-09-08 18:59:08 | グローバル・エシックス
今日は久しぶりに暑さが和らぎましたね。

というか涼しいくらいでした。

いつ以来でしょうか、研究室でエアコンを使わなかったのは。

まあでもこれは台風9号の影響による一時的な現象にすぎなくて、

台風一過はまた暑さがぶり返すのでしょうね。

あまり、これであの猛暑が去ったんだなんてぬか喜びはしないようにしようと思います。

とはいえ、スーパーの果物売り場などを歩いていると、

秋が確実に近づきつつあることを感じさせられます。

先日はもう、なし (梨) が並んでいました。



なし好きの私としては、これだけ暑い日々が続いていたとしても、

ちゃーんとなしの季節がやってくるのはありがたいです。

さっそく買ってみました。

あの心地よい歯触りはあいかわらずたまりませんが、

まだまだ甘みは十分ではありません。

桃と異なり、なしの場合は暑いだけでは甘みは熟さず、

秋の涼しさが必要なのでしょう。

とするとしばらくはまだ本来のなしの味を楽しむことはできないかもしれませんが、

あのシャクシャク感とみずみずしさだけは今のうちから楽しんでおきたいと思います。

おっと、いつの間にかもう94例目

2010-09-07 12:53:57 | 生老病死の倫理学
今日ふと気づいたらこんなニュースが流れていました。

「家族承諾で7例目移植へ=成人男性、関東甲信越の病院」

いつの間に94例目になってしまっていたんだっ

たしか8月23日に 「もう3例目」 という記事を書いたばかり。

その3例目まではインターネット・ニュースのヘッドラインで目についたので、

そのつど記事にしていましたが、4例目から6例目まではすっかり見落としていました。

今調べてみたら、ちゃんと報道はされていたようです。


「臓器移植のニュース一覧 ― Yahooニュース」


ちなみにこれ↑は便利なので、遅ればせながら 「お気に入り」 に登録しておきました。

毎日ここをチェックするようにすれば、見落とすことはなくなるでしょう。

あまりにも急な展開なので、ここで一度整理しておくことにしましょう。


【2010年7月以降の推移】

7月17日 改正臓器移植法施行

8月 9日 改正後1例目 (通算87例目) 書面はないが本人は口頭で意思表示

8月19日 改正後2例目 (通算88例目) 書面でも口頭でも本人意思不明

8月22日 改正後3例目 (通算89例目) 本人意思不明

8月28日 改正後4例目 (通算90例目) ドナーカードによる本人の意思表示あり

8月28日 改正後5例目 (通算91例目) 本人意思不明

9月 1日 改正後6例目 (通算92例目) 本人意思不明

9月 4日 改正後7例目 (通算93例目) 本人意思不明 ・ 東北初

9月 6日 改正後8例目 (通算94例目) 本人意思不明

   ※日付は2回目の脳死判定が終了し、脳死が確定した時点


冒頭のニュースで 「家族承諾で7例目」 とあるのは、

90例目の方がドナーカードで意思表示をしていらっしゃったために、

「改正後○例目」 と 「家族承諾○例目」 が1つずれてしまったわけです。

だから私が見落としていたのは家族承諾4例目から6例目までだけでなく、

改正後4例目から7例目までだったのですね。

それにしてもものすごいペースです。

法律が改正されていなければ7月以降1例しか脳死・臓器移植は行われていなかったはずが、

法律が改正されたおかげで8例も行うことができたということになります。

はたしてこれを成果・前進と捉えるべきか、愚挙・危険と捉えるべきか、

慎重な検討が必要となるでしょう。

地下駐車場のエコ

2010-09-06 17:16:33 | グローバル・エシックス
9月に入ったというのに暑いですね。
なんだかまだまだ残暑は続きそうです。
さて、標題で 「地下駐車場」 と書きましたが、正確な言い方ではありません。
以前に書いたように、私は立体駐車場の一番下段を借りています。
ふだんは私のクルマは地下部分に格納されていますので、
そのことを指して 「地下駐車場」 と呼んでみたわけです。
「地下駐車場」 はなんといっても出発したり帰ってきたりしたときに、
ボタンを押し続けて自分の格納場所をいったん出し、
クルマを出し入れしてから再び地下に沈めるということをしなければなりませんので、
時間がかかってとっても不便です。
最下段の場合だいたい片道で90秒くらいかかりますから、
毎回3分、クルマを動かすのにかかる時間も含めると5分弱のロスタイムが生じます。
これが 「地下駐車場」 の最大のデメリットと言っていいでしょう。
他にデメリットとしては、前回書いたような浸水の可能性も挙げられるでしょう。

しかしながら 「地下駐車場」 にはメリットもあります。
ひとつは料金が安いということ。
うちの場合、上段は16,000円、中段は12,000円、下段は10,000円となっています。
月に6,000円も違うというのは大きいですね。
またこれも前回書いたように、クルマの出し入れが面倒なのであまりクルマを気軽に使わなくなる、
ということも私としてはメリットと捉えていますが、
まあこういうのは普通はメリットには数え入れないかもしれません。
それよりも、やはり下段を借りようと決めたときに明らかにメリットだと思っていたのは、
出発前にクルマの雪下ろしをしなくてすむ、ということでした。
福島のような雪国に住んでいると、冬のあいだの雪対策というのは大問題になるわけですが、
朝出かけるときに、一晩降り積もった雪の中からクルマをかき出す手間が要らないというのは、
大きなメリットであると言えるでしょう。

そして、借りる当時は気づいていなかったのですが、
冬だけでなく夏場にも 「地下駐車場」 にはいいことがあるのでした。
出かけるときにクルマの中が暑くないのです。
夏に日なたにクルマを停めておくと車内温度がハンパないことになっているじゃないですか。
うちの駐車場はすべて日なたに位置していますので、
上段を借りている人たちは、出発してしばらくは窓全開、エアコン最強にしておいても、
どうしようもないほどの灼熱地獄に苦しめられているだろうと思うのです。
ところが 「地下駐車場」 に格納されていたうちのクルマは、
朝から非常に快適な状態に保たれているのです。
だいたいどんな暑い日でも、クルマについている温度計は25度以上を示していたことはありません。

昨日なんて福島もものすごい快晴で、お昼に 「丸亀製麺」 で讃岐うどんを食べたのですが、
とろ玉うどん (大) を食べるほんのちょっとのあいだ炎天下の駐車場に停めておいただけで、
温度計は45.5度を指していました。
うちのクルマの温度計は車内温度ではなく車外の温度を測定しているはずですので、
直射日光の当たるアスファルト上はどれだけ暑くなっているんだという話ですが、
車外でそれだけあるんだとすると、車内はどれほどの温度になっているか、
想像もしたくないくらいです。
平面駐車場を利用している人たちはこの地獄を毎朝味わっているのですね。
それに比べると 「地下駐車場」 から出てきたうちの愛車の車内はパラダイスなわけです。
カーエアコンのファンベルトを回すためにもガソリンは使われていますので、
毎朝エアコンの最強運転をしなくていい分、エコにも貢献しているのではないでしょうか。
というわけで 「地下駐車場」 は家計に優しいばかりでなく、環境にも優しいというお話でした。


P.S.
立体駐車場+最大クルマ3台分の重量を毎回上下動させるエネルギーがどれくらいになるのか、
ということは今回はまったく考慮に入れないまま論じてみました。

朝立ちではなく夜立ち

2010-09-05 04:46:03 | 性愛の倫理学
男性の皆さんは、朝起きると陰茎が勃起しているということをよく経験されていると思います。

いわゆる 「朝立ち」 というやつですが、

その原因は、寝ている間にオシッコが膀胱にたまり前立腺を刺激するからだと聞かされて、

その説を私は48年間ずっと信じていました。

ところがこの3月にダンス部の卒業生追い出しコンパに行ったときに、

学生から、この説が間違っていたということを初めて知らされたのです。

そもそも 「朝立ち」 の正式名称は 「夜間陰茎勃起現象」 なんだそうです。

つまり、「朝立ち」 ではなく 「夜立ち」 なのです。

ヘェ~と思ってさっそくインターネットで調べてみると、

ウィキペディアごときにもちゃんと書いてありました。

皆さんもぜひ読んでみてください。


ウィキペディアで 「朝立ち (生理現象)」 を読む


うーん、ビックリです。

性的興奮ともなんの関係もなく、ただレム睡眠のときに立つようになっているんですね。

したがって夜中、立ったり萎んだりを繰り返しているんですか。

我がこととはいえまったく知りませんでした。

そんな陰ながらがんばっていたなんて。

皆さんはご存知だったでしょうか?

ちなみにウィキペディアの中では 「女性の朝立ち」 についても触れられていましたが、

ここではこれ以上その問題について掘り下げるのはやめておきたいと思います。

ピンオケ

2010-09-03 08:26:41 | 人間文化論
年をとってくると新しい文化についていけなくなってくるものです。
まったくわけわからないできたてほやほやの文化なら、
まあ自分には関係ないから 「ふーん、そんなのあるんだ」 くらいですみますが、
自分もやっていることを、自分とはちがうやり方でやるのが流行りだしてくると、
「許せんっ」 という気になってしまいます。
カラオケは私も昔からよくやっていたのですが、
私にとってカラオケとは飲み会の後にみんなでワイワイと二次会とかで行くようなものでした。
つまり、お酒を飲んで酔っぱらってからでないとカラオケをやる気にはならないのです。
もちろん、カラオケの最中もお酒を頼み続けます。
アルコールとカラオケ、この2つは切っても切れないものだったのです。
ところが、福島大学に来て驚いたのは、学生たちってお酒なくともカラオケができるんですね。
カラオケに行ってもお酒を注文せずにすぐに歌い出してしまうし、
飲み会に行く前にとりあえずカラオケに行って歌うなんてこともできてしまいます。
「酒も飲まずにただ歌うのかぁ、許せんっ」 という気になってしまうじゃありませんか。

ところがもっと許せない話を聞いてしまいました。
最近、ピンオケというのが流行っているそうなのです。
1人でカラオケに行って歌うんだそうです。
なぜ1人で歌うっ
そんなこと考えたこともありませんでしたが、
みんなでワイワイとカラオケは、アルコールとカラオケよりもはるかに、
切っても切れない関係であるはずじゃないですかっ
みんなの前で披露するために1人黙々と練習しているということなのでしょうか。
だったらまだ許せるかもしれません。
私だってクルマの中で福山の歌を練習したりしていますから。
でも、ピンオケってそういうことじゃないんだそうです。

以下はある方から聞いた実話です。
エグゼクティブ・コーチをやっている女性が、
自分のクライアントである中小企業の社長さんとそのお友だちの社長さん仲間3名、
全部で5名で食事に行ったんだそうです。
とても素敵な小料理屋に連れて行ってもらい、
料理も美味しく、話も盛り上がって楽しいひとときを過ごしたのだそうです。
そこを出て、よぉーし次はカラオケに行こうということになり、
みんなでカラオケボックスに入っていきました。
ところが受付のときに驚愕の事態が
5部屋申し込んでいるんだそうです。
そうです、1人1ボックスなのです。
みんなでそれぞれピンオケを楽しもうということだったそうなのです。
その女性は急用を思い出したとかなんとか言って、
ひとりその場を立ち去ったそうです。
私もまったく意味がわかりません。
友だち同士が集まってるにもかかわらず、なぜわざわざピンオケ
許せんっ

セックスジョーク

2010-09-02 16:44:11 | 性愛の倫理学
ミクシィにはいろいろなコミュニティがあって、
同好の士が集い情報交換をしあっています。
私もいくつかのコミュニティに入っていますが、
軽いお笑い系のものが多いです。
そのなかで 「ブラックジョーク」 というコミュニティがあり、
皆さんがそれぞれ得意のネタを披露されています。
そのコミュニティのなかはさらに細かく、
「お国柄ジョーク」 とか 「時事ジョーク」 などのスレッドが立っているのですが、
そのうちのひとつに 「みんな大好き・セックスジョーク」 というスレッドがあります。
みんなが大好きってことは当然私も大好きなので時々のぞいていますが、
ちょっとここではご紹介できないようなきわどいジョークがたくさん並んでいます。
その中で、比較的穏健なのをひとつご紹介しましょう。
穏健とはいえそこそこエゲツないので、この手の話があまり好きでない方は御遠慮ください。



    「昇進願い」

件名:昇進願い
送信者:ナニ

私『ナニ』は、以下の理由により昇進を希望します。

どうぞご検討のほど、よろしくお願いいたします。


昇進を希望する理由

(1) ずっと肉体労働である

(2) かなり奥深いところまで仕事をする

(3) 何事も頭から身を挺して突っ込む

(4) 土日祝日も関係なく働く

(5) 残業手当はない

(6) 作業環境は湿気だらけ

(7) 換気装置もない暗闇で働く

(8) 高温状態

(9) 仕事上、病気がうつることがある




━━━━━━━━━━━━━━━━
件名:Re:昇進願い
送信者:アソコ

ナニ様


昇進願いを拝見し、あなたの昇進を検討しました。

しかし今回は残念ながら、昇進は見送ることになりました。理由は以下の通りです。



昇進を見送る理由

(1) 連続して8時間働くことはできない

(2) ほんの短時間の仕事でも、そのあと寝る

(3) 相手先の要求注文にいつも応じられるわけではない

(4) 決められた場所ではなく、勝手に別の場所で仕事をすることがある

(5) 仕事を始めるには外部の刺激が必要で、仕事の主導権を握れない

(6) 正しく保護衣を着用するという規定を時々守らない

(7) 仕事場周辺をちらかす

(8) 2交代制で働けない

(9) 65歳より前に退職してしまう

邦画ディクテーション

2010-09-01 12:29:30 | 人間文化論
黒澤明監督の 『用心棒』 をツタヤでレンタルして見ました。
先月だか先々月の 『トランヴェール』(新幹線の中に置いてあるやつ) の巻頭特集で、
生誕100周年ということで黒澤明監督が取り上げられていて、
影響されやすい私はちょっと見てみようかなという気になったのです。
逆に言うと今までほとんど見たことがないんです、黒澤映画。
『デルス・ウザーラ』『七人の侍』 くらいですかねぇ、見たことあるのは。
ハリウッド・アクションやラブ・コメディが基本の私には、
『デルス・ウザーラ』 は重すぎるし、『七人の侍』 はハマってもよさそうなんですが、
長すぎたためでしょうか、あまり鮮烈な印象を残すことはありませんでした。
牧田先生 (映画狂) にこんなこと言ったら滔々と説教されてしまうかもしれませんが、
こういうのは趣味の問題なのでしかたないですね。
というわけで久々の黒澤映画・再チャレンジです。

ところが、映画が始まってすぐの場面で、なぜ黒澤映画が苦手だったのかよーくわかりました。
黒澤映画というよりも邦画全般、特に時代劇ものに共通して言えることかもしれませんが、
役者が何言ってるか、ほとんど聞き取れないのです。
三船敏郎や女優さんたちが言ってることはほぼちゃんとわかるのですが、
脇役の男優陣のセリフがさっぱりわかりません。
例えば冒頭、百姓一家の息子が博打打ちになるために家を出ていくというシーンがあるのですが、
百姓のオヤジのセリフが何一つ聞き取れないのです。
すぐに巻き戻して (DVDだから巻き戻すわけではないが) ボリュームを上げて見直しますが、
まったくダメです。
全編通じてこんな感じなのです。
途中あんまりにもわけわからなくてうつらうつら眠ってしまったりもしてしまいました。
けっきょく全セリフのうちの半分くらいしか聞き取れなかったのではないでしょうか。
これではストーリーや人物像やセリフの妙味を十分に堪能することはできません。
つまり黒澤映画の魅力を味わい尽くすことができないわけですから、
今まで黒澤映画の虜にならなかったのも無理ないのです。

こんな感じで、見終わってもなんかこう残尿感というかやり残した感というか、
スッキリしない気分でいました。
だから邦画ってキライなんだよなあ、セリフが全然聞き取れないんだもん。
よっぽど洋画で字幕ついているほうが内容が理解できていいよ。
などとグチグチ考えていたのです。
で、なんということはなしにDVDに特典映像とかついてないのかなあとか思って、
リモコンのスイッチをあれこれいじっていたら、「設定」 の画面に飛んでしまいました。
なんとそこには 「日本語字幕」 という選択肢があるではないですか
そうか、DVDって邦画も字幕つきで見られるのかぁ
こんなこと、今まで知らなかったなんて本当に不覚でした。
今見終わったばかりというのに、さっそく字幕つきでもう一度見始めてしまいました。

するとまあ面白いのなんの。
このオヤジこんなこと言ってたのかあとか、
この人はこういう人だったのかあなどと新しい発見の連続です。
聞き取れなかったのにはだいたい2種類の原因があったことがわかってきました。
ひとつは、俳優の滑舌が悪い、ないしは、早口すぎてセリフが上手く聞き取れない場合。
もうひとつは、時代劇用のセリフが日本語としてあまりにも馴染みがなくて、
音をちゃんと聞き取れたとしても、それだけでは何のことかまったく想像できない場合。
後者のタイプも字幕で文字として見るとだいたい意味はわかってきますので、
さっき見ていた映画と同じ映画とは思えないくらい、
ストーリーの細かい部分に感情移入しながら見ることができました。
同じ映画を2回続けて見てもう遅い時間になってしまっているというのに、
2回目は途中で眠くなることもなく、一気に最後まで見通してしまいました。
邦画を日本語字幕つきで楽しめるなんて、DVDさまさまです。

それにしても、こんなことでいいのでしょうか。
日本人が邦画を見てセリフを聞き取れないなんて。
しかもこちとら今どきの若者なんかではなく、いちおうアラフィフの文化人です。
その人間が聞いて意味がわからないなんて。
黒澤くん、リアリズムを追求するのもいいけれど、
お客さんは台本片手に映画を見るわけじゃないんだから、
もうちょっとセリフがちゃんと伝わるかどうかにこだわろうよ。
ま、これからは黒澤作品をはじめ時代劇ものをDVDで見るときは、
邦画だからと気を抜くことなく、あたかも洋画を見るつもりで、
最初から日本語字幕の設定をして見るようにしたいと思います。