あの日からもう9年も経ってしまったんですね。
ついこのあいだのことのように思えるのですが…。
この9年の間に 「グローバル・エシックス」 に関する共同研究を行いました。
すでにお伝えしたように、その成果を一昨年刊行しています。
(寺田・舟場編 『グローバル・エシックスを考える 「9.11」後の世界と倫理』、梓出版社)
そこに寄せた論文 (「カントとテロリズム」) の一部をご紹介することによって、
あの日のことを心に刻むことにしたいと思います。
まず、前書きでは次のように書きました。
一 グローバル・エシックスと9・11
思い返せば、東西冷戦が終結してから9・11に至るまでの短い期間、人類のグローバルな連帯が可能になるかもしれないという儚い希望が仄見えていた時期があったように思われる。差し迫っていた核戦争の脅威が少し遠のき、環境問題、人口問題など、国家やイデオロギーの違いを超えて連帯して取り組まねばならない課題に本腰を入れて立ち向かっていかなければならないし、また立ち向かっていける体制が少しずつ整いつつあるようにも見えたものである。
その時代に相次いで提唱されるようになってきたのが「グローバル・エシックス」であった 。ここでは寺田俊郎による暫定的定義を借りて紹介することにしよう。「グローバル・エシックスとは、さまざまな社会的相互作用が国民国家の枠を超えて地球規模で活性化した時代(グローバリゼーションの時代)において、正義にかなった世界のあり方を規定すべき規範、およびその規範を明らかにしその根拠を批判的に問う哲学的探求である」。1990年代の思潮を、グローバリゼーション(ならびにグローバリズム)の時代においてグローバルに妥当する倫理を探究する試みとして捉えることは、あながち的外れでもなかろう。
グローバル・エシックスが対峙すべき課題として、グローバルな経済、グローバルな政治、グローバルな生態系等々によって引き起こされる世界規模の根本的危機にどう立ち向かうかということが挙げられる。これらの危機に対処できるグローバルな枠組みを作ることができるのか、人類を普遍的に拘束するグローバルな倫理規範に諸文化、諸文明、諸民族、諸国家、諸宗教が合意することができるのか、そうした人類史上かつてない連帯を求めて世界が動きだそうとしているときであった。そこに9・11である。人類初の試みが抱える困難を露呈し、連帯への道を断ち切るに十分なインパクトをもってこの事件は勃発し、グローバル・エシックスへの道ではなく、テロリズムの道へと大きく軌道を旋回させることになった。
グローバル・エシックスを論じる上で、テロリズムの問題は中心的テーマではないかもしれないが、避けて通ることのできぬ問題のひとつであることは確かであろう。そこで本論では、カントの思索を手がかりにテロリズムの問題について考えてみることにしたい。
で、本論では 「テロリズム」 という語の元の意味に立ち返り、
フランス革命のときに国家の側が行った恐怖政治のことを 「テロリズム」 と呼んでいたこと、
したがって、9.11のようないわゆる 「現代的テロ行為」 ばかりでなく、
国家の側が行う 「テロリズム (恐怖政治)」 こそが人類の共存を脅かしていることを論じました。
そして、この論文の最後は、カントの政治哲学と結びつけながら以下のようにまとめました。
六 カントからの提言と私たちに残された課題
テロリズムへと大きく足を踏み出した世界を、再びグローバル・エシックスの方へと導いていくことは可能なのであろうか。この時代において、分断され恐怖によって支配されている人々を共存・連帯へともたらすことは可能なのであろうか。この問題に対するカントからの提言は、すでに紹介した「いかなる戦争もあるべからず」に収斂すると言っていいだろう。ここまで見てきた通り、この平和の定言命法は、現代的テロを禁止すると同時に、テロリズム(=恐怖政治)をも否定している。私たちは、カントのこの提言を深く胸に刻みつける必要がある。
とはいえ、「いかなる戦争もあるべからず」と繰り返すばかりでは、永遠平和という予言的歴史を現実のものに変えていく力に欠けるであろう。カントが永遠平和のための予備条項や確定条項を求めていったのと同様に、私たちは時代に合わせて平和実現のための具体的戦略(すなわち仮言命法)を練り上げていかなければならない。私たちに残された課題は山積している。近隣諸国が核兵器も含む軍備を整えている中で、いかにして自国の安全を守りつつ、時とともに軍隊を廃絶していくことができるのか。ある国家内においてある集団が抑圧されているのが明らかな場合であっても、「人道的介入」は許されないのか。せっかく成立した民主主義国家がテロリズムに堕し国民を戦争へと駆り立てる場合に、戦争を望まぬ国民はその民意をいかにして国政に反映させていくことができるのか。カントが夢見た国際連合は現実のものとなったわけだが、この組織はどの程度の強制力を保有すべきであり、様々な紛争やテロに対してどう対処していくべきなのか。グローバリズムが進行する中で、世界市民としての連帯をいかなる形で作り上げ、理性と信頼に依拠した人間たちの関係をいかにして築いていったらいいのか。私たちはテロとテロリズムがもたらす恐怖や不信に抗って、私たちの時代にふさわしい平和実現のための仮言命法を案出していかなくてはならない。
最近の私のテーマである、「平和の定言命法」 を堅持しつつ、
それを現実化するための 「平和実現のための仮言命法」 を探っていこうという提言です。
カント研究者のあいだではあまり評判よくありませんが、
私としてはもうしばらくこの方向性で研究を進めていきたいと思います。
ついこのあいだのことのように思えるのですが…。
この9年の間に 「グローバル・エシックス」 に関する共同研究を行いました。
すでにお伝えしたように、その成果を一昨年刊行しています。
(寺田・舟場編 『グローバル・エシックスを考える 「9.11」後の世界と倫理』、梓出版社)
そこに寄せた論文 (「カントとテロリズム」) の一部をご紹介することによって、
あの日のことを心に刻むことにしたいと思います。
まず、前書きでは次のように書きました。
一 グローバル・エシックスと9・11
思い返せば、東西冷戦が終結してから9・11に至るまでの短い期間、人類のグローバルな連帯が可能になるかもしれないという儚い希望が仄見えていた時期があったように思われる。差し迫っていた核戦争の脅威が少し遠のき、環境問題、人口問題など、国家やイデオロギーの違いを超えて連帯して取り組まねばならない課題に本腰を入れて立ち向かっていかなければならないし、また立ち向かっていける体制が少しずつ整いつつあるようにも見えたものである。
その時代に相次いで提唱されるようになってきたのが「グローバル・エシックス」であった 。ここでは寺田俊郎による暫定的定義を借りて紹介することにしよう。「グローバル・エシックスとは、さまざまな社会的相互作用が国民国家の枠を超えて地球規模で活性化した時代(グローバリゼーションの時代)において、正義にかなった世界のあり方を規定すべき規範、およびその規範を明らかにしその根拠を批判的に問う哲学的探求である」。1990年代の思潮を、グローバリゼーション(ならびにグローバリズム)の時代においてグローバルに妥当する倫理を探究する試みとして捉えることは、あながち的外れでもなかろう。
グローバル・エシックスが対峙すべき課題として、グローバルな経済、グローバルな政治、グローバルな生態系等々によって引き起こされる世界規模の根本的危機にどう立ち向かうかということが挙げられる。これらの危機に対処できるグローバルな枠組みを作ることができるのか、人類を普遍的に拘束するグローバルな倫理規範に諸文化、諸文明、諸民族、諸国家、諸宗教が合意することができるのか、そうした人類史上かつてない連帯を求めて世界が動きだそうとしているときであった。そこに9・11である。人類初の試みが抱える困難を露呈し、連帯への道を断ち切るに十分なインパクトをもってこの事件は勃発し、グローバル・エシックスへの道ではなく、テロリズムの道へと大きく軌道を旋回させることになった。
グローバル・エシックスを論じる上で、テロリズムの問題は中心的テーマではないかもしれないが、避けて通ることのできぬ問題のひとつであることは確かであろう。そこで本論では、カントの思索を手がかりにテロリズムの問題について考えてみることにしたい。
で、本論では 「テロリズム」 という語の元の意味に立ち返り、
フランス革命のときに国家の側が行った恐怖政治のことを 「テロリズム」 と呼んでいたこと、
したがって、9.11のようないわゆる 「現代的テロ行為」 ばかりでなく、
国家の側が行う 「テロリズム (恐怖政治)」 こそが人類の共存を脅かしていることを論じました。
そして、この論文の最後は、カントの政治哲学と結びつけながら以下のようにまとめました。
六 カントからの提言と私たちに残された課題
テロリズムへと大きく足を踏み出した世界を、再びグローバル・エシックスの方へと導いていくことは可能なのであろうか。この時代において、分断され恐怖によって支配されている人々を共存・連帯へともたらすことは可能なのであろうか。この問題に対するカントからの提言は、すでに紹介した「いかなる戦争もあるべからず」に収斂すると言っていいだろう。ここまで見てきた通り、この平和の定言命法は、現代的テロを禁止すると同時に、テロリズム(=恐怖政治)をも否定している。私たちは、カントのこの提言を深く胸に刻みつける必要がある。
とはいえ、「いかなる戦争もあるべからず」と繰り返すばかりでは、永遠平和という予言的歴史を現実のものに変えていく力に欠けるであろう。カントが永遠平和のための予備条項や確定条項を求めていったのと同様に、私たちは時代に合わせて平和実現のための具体的戦略(すなわち仮言命法)を練り上げていかなければならない。私たちに残された課題は山積している。近隣諸国が核兵器も含む軍備を整えている中で、いかにして自国の安全を守りつつ、時とともに軍隊を廃絶していくことができるのか。ある国家内においてある集団が抑圧されているのが明らかな場合であっても、「人道的介入」は許されないのか。せっかく成立した民主主義国家がテロリズムに堕し国民を戦争へと駆り立てる場合に、戦争を望まぬ国民はその民意をいかにして国政に反映させていくことができるのか。カントが夢見た国際連合は現実のものとなったわけだが、この組織はどの程度の強制力を保有すべきであり、様々な紛争やテロに対してどう対処していくべきなのか。グローバリズムが進行する中で、世界市民としての連帯をいかなる形で作り上げ、理性と信頼に依拠した人間たちの関係をいかにして築いていったらいいのか。私たちはテロとテロリズムがもたらす恐怖や不信に抗って、私たちの時代にふさわしい平和実現のための仮言命法を案出していかなくてはならない。
最近の私のテーマである、「平和の定言命法」 を堅持しつつ、
それを現実化するための 「平和実現のための仮言命法」 を探っていこうという提言です。
カント研究者のあいだではあまり評判よくありませんが、
私としてはもうしばらくこの方向性で研究を進めていきたいと思います。