まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

看護教員養成講座@郡山 ・終了!

2016-06-24 17:10:18 | 教育のエチカ
先々週から行ってきた郡山での看護教員養成講座が昨日終了しました。

先々週と先週は午前3時間、午後3時間、今週は午前の3時間のみ、計15時間の講座でした。

90分授業に換算すると10コマ分に当たりますが、

午前と午後の3時間というのは90分×2コマというふうに分かれているわけではなく、

休憩時間が含まれていませんので、とはいえさすがに3時間ぶっ続けでやるのもお互いにムリで、

途中で休憩を入れなくてはなりませんから、1コマあたり80~85分ぐらいということになります。

その短い時間のなかで、看護学校での90分×15コマ分の授業をコンパクトに再現しつつ、

授業の意図や工夫、留意点などを解説していくという慌ただしい展開でした。

しかしながら、過去2回に比べると今回は非常にいい感じに終えることができたのではないでしょうか。

なぜうまく行ったのか自分でもあまりよくわかっていないのですが、

別の機会に作ったパワーポイントのプレゼンを使って何回か分の授業をまとめて行ったり、

相馬の看護学校で昨年度から始めた 「病気が教えてくれたこと」 のワークを取り込んだりなど、

マイナーチェンジを施したのがよかったのかもしれません。

それと、朝3時間、午後3時間と丸1日いっぺんにやれたのも、たいへん疲れはしましたが、

間延びがせずにすんでよかったのかもしれません。

というわけで15時間の講座を終えて、最後に皆さんに授業全体の学び、感想を書いてもらいました。

哲学の講義内容それ自体と、私の授業方法に関して書いていただきました。

いくつかご紹介していきましょう。

●哲学の授業=難しいと思っていた。1日哲学の授業を受けると、精神的にすごく疲労があった。学生の時の哲学の授業は全く思い出す事が出来ないが、今回新たな気持ちで受講し、人間とは、生とは、死とは、とても深く考えさせられた。他者の考えを聞く事で多種多様な考え方がある事を知った。今まで10数年間看護師として働き、自分本位に考え、物事を進めてきてしまった事を反省した。いろいろな観があってあたり前であり、正解はないという事がわかった。先生が哲学を学んで生きるのが楽になったとおっしゃっていたが、その意味が少しだけわかった気がした。先生の授業方法は、まず初回の導入で哲学は難しくない…という思いにさせていただいた。先生の人柄や服装など全体からの雰囲気でとても楽な気持ちで受ける事が出来た。ワークシートも考えさせ → 学習のまとめになっており、学生自らが学んだ事を知識にする事ができると思う。書く事、とても大変だったが、その時間をふりかえることで、何となく…という思いが明確になる事ができたと思う。プリントのコピーの仕方、私も参考にさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

●先生の講義を受ける前の哲学に対するイメージは、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等、世界史の授業で学習した思い出しかなく、莫大な書物や難しい問題という思いしかありませんでした。この講義全体を通し、看護教員の講習ということで、私達の身近な題材を取り入れて講義していただいたことで哲学は遠い存在ではなく身近なところにあるんだと感じることができました。死に対すること、病気に対すること等、仕事をしていると時々考えることがありましたが、自分の死や病気に対する思いを考えたことで、今、現在生きていることの有り難さを感じることができました。哲学とは疑問に思うこと、考えていくことなのではないかと思いました。授業中に、プリントの作り方や板書の仕方、パワーポイントの使い方を説明していたことが印象深いです。とても便利な方法で私も活用しよう!!と思いました。ですが……、これは教員が授業をやりやすいかどうかではなく、学生が学びやすいかどうかなんだということが分かりました。どんな方法で授業するか、どんな資料を活用するか、学生が学べる授業とは何か、考えつづけたいです。

●小野原先生の講義がはじまる前は、哲学が看護になんで関係するのだろう? 関係ないのではないかと思っていたが、講義を受けていくうちに看護の対象である人間とは何か? 生きるとは何か? 死とは何か? 病とは何か??などを、深く考えるきっかけになりとても感謝しています。病院で働きながら患者様や生死、病とたくさん向きあってきたのに今回の講義ほど深く考えられていなかったことに後悔した。しかし、今回考えたことを活かしながら、今後も考え続け、患者様にとって納得する生や死を迎えられるようサポートしていきたいと強く思った。また、当たり前のことは何一つないことを気付くことが出来た。生命も身体も健康も人それぞれの考えも何一つ当たり前ではないため、自分とも相手ともきちんと向き合って生きていきたいと思った。死の教育者であるはずの私がきちんと死について考えられていなかった。今回の学びや今までの学び、今後の学びを通して死の教育が出来るよう考え続けていきたい。先生の講義、ワークシート全てが計算されつくしていて講義を受けていてとても充実していた。先生のように講義が出来たら、きっと学生も学びが深まると感じた。すぐに先生のように行うことは難しいと思うが、意図的な問いを投げ考えさせることを大切にした講義が出来るようになりたいと思いました。

●最初、哲学は難しく固いイメージがありました。看護と哲学にどのような関係があるのかと思っていましたが、講義を受け、人間とは、生とは、死とはと考えていくことで、看護師として、日頃の生活に関係がとても深いものだということが分かりました。まず、自分で考え、その後グループで話し合っていくことで、自分の考えだけでなく他の人の意見を含めつなげて考えることができました。脳死や臓器移植、植物状態など、日頃の現場で関わっていることなのに、きちんと考えていない自分に気づきました。自分を知れました。家族との話し合いや自分自身考え続けないといけないと感じました。哲学の授業はとにかく沢山考えて、ワークシートで自分の考えを表に出す。とても疲れますが、考えを表に出す、伝えることは大事だと思いました。答えのないことを考え続ける看護師として、きちんと伝える、患者さん家族の自己決定を尊重し、望むケア関わりをしっかりしていきたいと思いました。授業づくりでは、ワークシートを出すタイミングや、評価の仕方、興味をもてるような導入の仕方、プリント作り、沢山学ぶことがありました。板書が多かったですが書き留めることの意図やワークシートのねらい、授業を聞く態度にさせることなど、又、言い回しで答えやすかったり難しかったりするため、問いの出し方の大切さを知れました。相手 (生徒) の立場になってホワイトボードの見え方や位置など、今後自分も相手の立場に立って行動していけるよう努めていきたいと思いました。

●哲学とは答えのない問いを考え続けていくことであり、看護と通じるところがあるなと思いました。よく看護では人間とは何かを考えさせられることがあります。哲学の授業で、人間とは何かを時間をかけて考えることができ、授業を受けてよかったと思っています。(今までは人間とは何かを考えてもあいまいでよくわからないことが多かったですが、初めてちゃんとわかったと感じている。) 今では自分を知ることが人間を知ることなんだなと思います。死生観について1日時間をとってもらい、重いテーマで嫌になるなと思ったことも事実ですが、改めて考えることができて自分の色々な 「観」 について見直すことができました。自分がこれでいいと思っていることを、他者の意見を取り入れて新しくすることができました。これから看護師を続けていく上で大事な柱となる部分なので、自分の考えが明確になったのはありがたいと思います。ありがたいことは当たり前ではないことにも気づけて良かったです。授業の方法についても、ワークシートの使い方や板書の良さ、板書するときの時間の考慮、問いの仕方、問いの持つ力について、グループでの学習の仕方、何を目的として授業や活動を行っているかなどたくさんのことを学ぶことができました。哲学の授業は眠くなりそうだと思っていましたが、先生自体がおもしろく授業にも興味がわきました。学んでみて多くの学びがあったので自分の内で期待以上でした。ずっと続けての授業お疲れさまでした。

●はじまりの 「人間とは?」 という問いが、人間として生きること、死ぬことを考える時にことごとく蘇った。人間とは何か? を考えた時の答えは、他の生物にはできなくて人間だけにできることを探したが、その後、人間として生きるためにも、死ぬ時にも失いたくないもの、について気付くことになった。人間として生きることは、何と欲張りで、我がままで、複雑なことだろうかと思い知らされた。その上でなお自分は看護師として、教員として、どうあるべきかを追求しようとしている。人間として生きるだけでもいろいろとめんどうが多いのにさらにめんどうな仕事をしようとしているなあと思う。小野原先生が、哲学を学んで 「生きることが楽になった」 と話されたことが強く印象に残って一生忘れないと思うが、私はこの15時間の哲学の講義を受講して大変に生きるのがめんどくさくなった。考えることが多くなり、複雑化したからである。しかしただでさえ複雑でめんどうな人間という生き物に生まれているので、せっかくなら哲学という学問について更に学びを深めもっと多くを深く考えつづける看護師であり教員でいたいと思う。それが最も大きな学びである。

●現在、医療現場で働いており、cure の方が大半で care はほとんど少なくなっているのが現状である。でも、その少しの care の中でも日々考えたり、考えさせられたりして看護を考えていた。今回、授業を通して、ゆっくり自分の中で自分と向き合いながら ”人間とは何か”、”病気とは”、”死とは” 考える機会を与えていただき、今まで業務の中で考えてた事、感じた事はほんのわずかな思考にすぎなかった事に気付かされた。人間を看る事、生と死、病気になることの思考は答えがないからこそ、これからも絶えず考えていかなくてはならないことであり、それを誰かに話したり、誰かの意見を聴いたりし、自分に吸収させていかないといけない、そして、自分もこれから教員として学生に投げかけなければいけない、それが看護の質を向上させるための要素になると考える。授業について、パワーポイントを使わず板書の授業が久しぶりであったが、先生の書くスピード、書く文字の量が本当にちょうどよくて、書いてから説明が入るので先生の説明を集中して聴く事ができた。(他の教科で、資料を渡さず、パワーポイントで表示し (文字数多い)、板書している間に説明するので、書きながら聞くことが大変な授業があった。) ワークシートを活用することで学生に考えさせ、振り返らせ、参加型の授業であったし、口に出しては言えない事も書く事で内面の思い (本音) も出せるのだと思った。資料の印刷の仕方も本の開きのようになっていて、コピーする方は手間だと思うが見る方は楽であり、工夫がすごいし、学生が学びやすいように手間をかけ配慮してくださったことに感謝します。

●「どんな理想の看護師になりたいのか?」 日々の業務をこなすことに精一杯で (10年も働いてきたので業務をこなすことは簡単にできるのに忙しさのせいにしていた) ここ数年、こんな大切なことを忘れて働いてきていた自分に気付くことができた。私は今までこうあるべきといった自分の考えが強くあったが、この講義を通して、あたり前のことはない、他者は様々なすばらしい考えを持っていることを知ることができて、これから看護教員として働いていく上での視野を広げるきっかけになった。看護教員の中には今年の国家試験合格率は○○%だった (不合格者が○○人もいた) にこだわる方もいる。学生に対し、ただ国家試験に合格することがゴールではなく、どんな理想の看護師になりたいかが大切ということを伝えることができるようになるために、私ももう一度どんな理想の看護師になりたいのかについて考え、看護観を深めていきたい。哲学の講義のはじめの頃は答えのないことを考えることがものすごく大変だったが、今は、答えのない問いを考えることが自分の成長につながるのだと思うことができ、大きな学びとなった。哲学が面白く興味のある分野になった。今まで書店に行っても哲学の本に手がのびることがなかったが、最近は目がいってしまう。この15時間で終わらせず、哲学を身近に感じていきたいと思う。

●人間とは何か、死ぬとはどういうことなのか、死、病から教えられたこと。哲学は答えのない問いを考えて行きます。最後にも先生が説明したように、看護師は哲学者であると私も思います。でも、人間である以上、死を覚悟しており、病気や死もさけて通ることは出来ません。そう考えると、身近な学問なのだと感じました。私は子供達に命はあたり前ではない、とか、普通でいる幸せとか、子供からみたら、うるさい母親だなと思われているのでしょうか。死の教育で学んだように、親の役目だと知り、伝えつづけて行こうと思いました。また、自分自身も答えのない問いを問いつづけて行こうと思います。授業では論文からも分かるように、学生にいかに考えさせるか、記憶に残る方法を考えている先生のアドバイスもありました。関連づけていくことの大切さ。黒板の書き方、グループワークのあり方、問いかけの仕方と、先生がいかに学生を思っているのかも感じました。評価は自分がどうおしえたのかの振りかえりとなります。これから先、教員として、学生を導いていく存在にならなくてはいけません。共に成長することもあるのだと思いますが、そのためにも、学生にとっての学びの場を考えて行けること。また、そのためには、相手を知る、受けとめることのできる教員でいたいとの理想がみえました。講習始めに先生の日程がくまれている意図はこのためなのかと思います。これから理想を持ちつづける存在でありたいと思うことが出来ました。お忙しい中、御講義くださりまして、ありがとうございました。

●最近の授業は、パワーポイントを重視して授業を進めている傾向があるし、また、学生にとってもわかりやすい事だと思っていた。しかし、プリントや板書、参考資料の使い方によって授業の流れを作り、時間を有意義に使えることを学んだ。そのためには、一方的な教授者の考えを押し通すのではなく、学生の反応や場の空気、板書の見え方、声のトーンなどを、提供する者として配慮することで、相手も受け入れることができるのだと感じた。哲学は、教育の基礎と講義で学んだが、実際、この哲学の授業を通してそう思えるようになった。それは、教育は人間を育て成長していくことを助けていくため必要で、その根本にある人間をまず知らなくてはいけないと思った。人間とは何であるかの概念を考えたとき、言葉にしてみると、動物とは違う特別な能力と心を持ち、文化を作ってきた生き物であり、その能力ははかりしれないが、その反面、壊れやすい一面を持つ弱い所を持っている。そして社会という場で共存して生活している。これから教える立場となるが、哲学で学んだ、人間とは、生きるとはなど、言葉で考え、特に医療職は死へと直接的に関わることが多いため、自分なりの考えを持ち、学習を重ねて成長していくことが重要なことだと思う。気持ちがブレたりする時は、授業の中で学んだ、生きることや死ぬことなどの 「観」 を思い出していきたい。

●昨年度、精神看護学を担当し、それなりではあったがやり遂せた。授業をする中で、あるいは実習に同行する中で、どうも話の柱がないことに少しずつ気づきはじめた。何なんだろう。それは、カリキュラムや講義方法、発問の仕方と不足していることは満載なのだが、もっともっとそのしんが足りない。それが、教員自身の死生観や病観、直接的には看護観、教育観ではないかと思う。今回の授業では触れられなかったが 「教える」 とはどういうことだろうといったあたりも授業の中でみんなと一緒に考えられると良かったと思う。「観」 をしっかり持っていると、発言に確信が出てくる。また学生との何気ない会話の中で、実は学生が欲しがっているのは、自身の 「観」 にかかわってくる現場の看護師や教員の言葉ににじみ出る 「観」 なのかもしれないと思う。「教育観」 は教育の場における自分の立ち位置を左右すると思う。どう学生の学びに立ち合うのか、そういうことを明確にしていくと教員という仕事が少し楽になるのかもしれない。学生にとって教員はどうあったらいいのだろう。哲学していきたい。

●哲学の講義をうけて、普段の日常生活では考えないような物事について考えさせられた。死生観や疾病観などを考えて、言葉にすることにより、自分ってこんな風に考えているんだなと、客観的に自分について知る事ができた。疾病観については、仕事で病人を対象にしているにもかかわらず、自分の身近な人達が健康を維持できているからと、病気に関してはどこか他人事のように考えていたなと恥ずかしく思った。健康でいられることはとても有り難いことで、感謝しなければいけない。しかし、病気になったからといってすべてが不幸なわけではない。病気になることで教わること、感じることが増え、その事に病人は喜びを感じる一面もあるのだということがわかった。講義中に何度もグループワークしたことで、皆それぞれ考え方、感じ方が違うのだと改めて知ることができた。その人その人で考えが違うから個別性のある看護ができるのだと思う。目の前の技術や知識に目が行きがちで、看護観など普段はあまり考えることはない。しかし、自分だけの看護観が、多忙で精神的にも辛いことが多い看護師という仕事を続けていける大きな柱になっていると思う。これからは医療現場ではなく学校で働くことになるが、自分の経験や看護観、看護の楽しさ、素晴らしさを学生に伝え、学生が少しでも自らの看護観を構築していけるよう努めていきたいと思う。

皆さん、最後まで私の授業にお付き合いくださりありがとうございました。

皆さんからいただいた質問にはこの先も少しずつお答えしていきますし、

皆さんが書いてくれた 「病気が教えてくれたこと」 エッセイに関しても、

各グループの代表作品や、まさおさまセレクトを順次発表していきたいと思います。

というわけで授業の最後に言い忘れてしまいましたが、

「哲学」 の授業は終わってしまいましたが、時にはこのブログも見に来てください。

また、宣伝しようと思っていたのにそれもすっかり忘れていましたが、

私は月に1回、主に福島市で 「てつがくカフェ@ふくしま」 を開いています。

一般市民の方々が集ってその時々のテーマに関して専門用語は用いずに、

互いに対等な立場で自由に語り合うのんびりした会です。

たまたま日程が空いていたり、近くに来ることがあったり、

テーマに興味をもたれた場合には、ぜひお気軽にご参加ください。

こんなテーマならぜひ出てみたいとかの希望があったら、メッセージを通してお知らせいただければ、

毎回のテーマを考えるのに困り果てていますので、すぐ採用させていただきます。

何かの機会にまたお会いできることを期待しております。

看護教員養成講座、まだまだ長丁場ですね。

眠い授業もあるでしょうが何とかアンテナを立てて最後までがんばってください