以前も押富さんのことをブログに載せましたが、今回もいいお話でしたのでブログに載せました。
押富さんが挑んだバリアー<2> (中)親孝行って… 安藤明夫(編集委員)
2022年1月23日
母校の日本福祉大高浜専門学校の卒後研修会で講演した押富さん(中央)=2012年5月、名古屋市内で

昨年四月に亡くなったNPO法人ピース・トレランス代表理事押富俊恵さん=享年三十九、愛知県尾張旭市=は、二〇一二年四月、母たつ江さんの六十歳の誕生日に「親孝行って」と題したブログを記した。
【発病してから、どれだけ、親不孝をしてきたんだろう…(中略)とくに、この二年間は親不孝といえることをしている私。
なにが親不孝かって…
「今回の肺炎はとても危険です」
「血圧が下がっていて危ない状態です」
敗血症になって、何度もICU(集中治療室)に入ったこの二年間。そのたびに、両親は医師から「危険な状態」という説明を受けてきた。
自分の子供のそんな病状を受け止めさせなければならなかったこと。
それは、とんでもなく親不孝なことだと最近分かるようになった。】
長生きできないけど
この時期の押富さんは、しばしば感染性の肺炎を起こして右肺が真っ白になり、全身に炎症が広がる敗血症も併発していた。
「死」を身近に感じながら、翌月の母校・日本福祉大高浜専門学校の卒後研修会での講演準備に励む日々だった。
【自分はそんなに長生きはしないと思う。
きっと両親より先に死んじゃうと思う。
でも、介護が必要な子供を残して死んじゃうより、先にいなくなったほうがきっと両親の心残りにはならないだろう…
本気でそう思っていた。
親より先に死ぬなんて親不孝だっていうのは、健康な人がいうことだって思ってた。】
「親より先に死にたい」は、神経難病の患者に多い感情だ。体が動かなくなるつらさから、怒りや悔しさを医療者にぶつけたりした時期もあった。
だが、作業療法士として、自分の状況や両親の思いを客観的に見ることで、精神的なピンチを乗り越えた。
【やっぱり、自分の子供が死ぬかもしれないって現実を突きつけるのはいけないことだって思う。
どんなに頑張ったって、介護が必要なのには変わりない。
だけど、両親がいなくたって、生きていける。
そう、大丈夫だって思わせてあげられることができたら…
それが一番の親孝行になるのかな…なんて漠然と考える。
病気や障害はあるけど、元気でいること。毎日、楽しく笑って過ごしていられること。
それくらいしかできないけど…
両親が元気な間、もう、子供の死の覚悟みたいなことをさせないでいられたらいいな。
親より先に死なない。
できる保証はないけど…
だけど、いつも元気で笑って過ごしていられたら…
そうしたら、きっと両親だって喜んでくれるはず。】
私は、押富さんと知り合ったのが一九年で、最後の二年間しか知らない。
いつも笑顔で精力的に活動し、忙しさを楽しむ姿を尊敬していた。
昨年四月に亡くなってから、過去のブログをたどって、この一文に出会い、強さの根源を理解できた。
楽しむことは、彼女にとっての親孝行であり、人工呼吸器を着けて「生きる意味」だったのだ。
父・忍さんは一六年に亡くなったが、たつ江さんは十五年に及ぶ娘の闘病を間近で見てきた。どう受け止めていたのか。
押富さんが亡くなって一カ月後に自宅へうかがうと、娘を語る口調の弾むような明るさに驚いた。
「一緒にいて、本当におもしろい人ですよね。いつも楽しそうだし、たまに真剣な表情をしてるときは、何かいたずらを考えてる」
みとった時の話になっても「短くても自分でやりたいことを見つけて、中身の濃い人生を送ってほしいと思っていました。
やりたいことがあるから頑張れる。よく今まで生きたって思いますよ」と、声に陰りはなかった。
最後まで前を向いて
最後の入院時は、右肺がつぶれ、左肺からも出血し、救命の見込みはなかった。
心臓マッサージなどの延命治療は望んでいなかったが、ICUに入るときに医師に「もう少し頑張ってみようかな」と、治療を続ける意思を伝え、最後まで前を向いた。 仲間とメールで仕事のやりとりもした。
「私は何もしなかったけど、自分のことは全部自分で引き受けて、恐れ入りますって感じ」。
たつ江さんの笑顔に、娘の“親孝行作戦”の成功を感じた。
一二年の押富さんのブログは、こう続く。
【なにが幸せかなんてわからない。
幸せは、見つけるものじゃなくて感じるものだから。
いまの生活を幸せに感じること。
当たり前の生活が幸せだってこと。
それが、一番の親孝行なんじゃないかなって思ったり。】
「いのちの歌」竹内まりや