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団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

思いが違うでしょうね。

2016-06-20 06:30:28 | 日記
また中日新聞の記事で申し訳ないです。
エンタと言うコラム欄があって、今はさだまさしさんが受け持たれています。
はっきり覚えはないですが、月に一度くらい書かれていると思います。

 今回は「オバマ米大統領の広島訪問」というタイトルで書かれています。


 原爆投下からわずか七年後に長崎市内の、しかも爆心地近くで生まれた僕は、
米国大統領の「歴史的」広島訪問を複雑な気持ちで見ていた。

 敵からの襲撃に備え、二機のヘリコプターを使って大統領搭乗機を
特定されぬようにし、地上にも二台の専用車を用意して敵の目をくらます。
史記に記された秦の始皇帝の行幸シーンを見る思いで、
「権力者の行動は二千年以上変わらないものだな」といささか冷ややかに見ていた。

 ところが大統領が平和記念公園に足を踏み入れた瞬間、突如としてこぼれる涙に困った。
「感動」という性質のものでもなく、もちろん「感謝」や「感激」とは異質の
人生で初めて味わう不可思議な涙だった。

 叔母、叔父ら被爆者を肉親に持つ僕は子どものころ、
故郷に原子爆弾を落としたアメリカが嫌いだった。

 新生児は全てABCC(原爆障害調査委員会)に運ばれて身体検査をされた。
僕はなぜか三度の検査。
 小学生のころは米国の巡洋艦や戦艦が長崎港に寄港することがあって、
仲間たちは「ギブミー」という呪文でチョコレートをもらえる、と興奮した。
 一度”ブロビデンス”という船が寄港した折、仲間と見物に出掛けた。
艦内で、チョコでポケットを膨らませた友達に会うと、彼は手ぶらの僕に向かってハーシーの
板チョコを一枚、放ってよこした。
 弟妹の笑顔を想像して一瞬嬉しかったけれども、原爆を落とした国の兵士から
物を恵んでもらう自分が惨めに思え、かといって捨てるのも冥利が悪く、
帰宅途中、トーマス・グラバーの敷いた線路の欄干に置いて帰った。
そんな子どもだった。

 大人になるにつれて僕の視野も少しは広がり、国同士のあり方や、
戦争そのものについてのさまざまな立場やその本質を見つめながら
平和について考えるようになった。

 その原爆投下から七十一年。
爆心地広島に現職の米大統領が初めて訪問をし、慰霊碑に花をささげた。
翌日の新聞には「謝罪せず」という文字が見られたが「謝罪の言葉」
を口にすることと「謝罪する」ことは違う。

 少年時代、母に「謝りなさいっ!」と言われて
「ごめんって言った!」と言い返したために「謝罪とは何か」について
こんこんと説教されたことを思い出した。

 広島にウラニウム爆弾、長崎にプルトニウム爆弾という二種類の爆弾を
投下した米国の「当時の思惑」は別にして、「現職大統領の献花」は
僕には「謝罪の心」を忖度できた。

 もちろん「謝罪について」のご意見はさまざまだろうが、
僕はあの日ほろほろとこぼれた自分の涙の正体について
これから考えようと思っているところだ。


  以上です。

 私はオバマ大統領の広島訪問のシーンをテレビなどで見ていません。
さださんは原爆投下された長崎に生まれられたし、叔母、叔父さんは被爆されている。
自分もABCC(原爆障害調査委員会)に運ばれて、3度も身体検査をされた。
思いが違うでしょうね。

 私はオバマ大統領は、被爆して亡くなられた方を、慰霊の気持ちを持って献花されたように思います。
「謝罪の心」は別にして。

話は変わりますが、私が小学校の頃は講堂で月に1回ぐらい全校集会がありました。
そこで「原爆を許すまじ」という歌を歌わされました。

ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を
われらの街に

ふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を
われらの海に

4番まであるようですが、2番まで書きました。
この歌を全校集会で歌っているなんて、やはり私は戦後まもない生徒だったでしょうね。(苦笑)






哀しみの終わりに レーモン・ルフェーブル La maison est en ruine