がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

障害児教育 「共に学ぶ」環境作りは可能か(12月31日付・読売社説)

2011年01月02日 | Weblog
2010年12月31日 22時09分18秒

URL http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20101230-OYT1T00667.htm



「障害のある子どもが障害のない子どもと一緒に授業を受ける。そんな教室の風景を障害児教育の原則にしようという議論が、内閣府を中心に進められている。

 障害の程度に応じ、特別支援学校などで専門教育を行ってきたこれまでの枠組みが、将来大きく変わることになるのだろうか。

 障害児と健常児が共に学ぶことを理念とする教育は、「インクルーシブ(包容する)教育」と呼ばれ、国連で採択された障害者権利条約にうたわれている。

 日本は2007年に署名し、現在、内閣府の「障がい者制度改革推進会議」が、批准に向けて国内法の整備を検討している。このほどまとめた意見書では、「お互いを尊重する土壌を形成する」と、その必要性を強調している。

 インクルーシブ教育は、多様性を認め合う社会を築く上で目指すべき方向ではあるのだろう。

 しかし、実現するためには、専門教員の養成や施設の充実、それに伴う多額の予算確保など課題が山積していることも確かだ。

 現在、障害の重い子は特別支援学校で専門性の高い教育を受け、比較的軽い子は、小中学校に設けられた特別支援学級で学んだり、通常の学級に在籍しながら、一定の時間、別の教室などで専門の指導を受けたりしている。

 仮に、障害のある子をすべて地域の小中学校で受け入れることになれば、担任を補助する教員や医療的なサポートをする看護師らの配置が必要となる。40人を上限とする1クラスの人数も大幅に減らさねば対応できないだろう。

 文部科学省の試算では、教員らの増員に2兆円、施設整備に10兆円のコストがかかるという。こうした条件をただちに整えることは難しいと言わざるを得ない。

 中央教育審議会の特別委員会は今月、現行の枠組みを維持する方向で意見を集約した。

 教育条件が大きく改善されない中で、個々の子どもの障害の状態などを考慮せずに同じ場で学ばせることは、「適切に教育を受ける機会を平等に与えることにはならない」との理由からだ。

 現行の専門的教育に対するニーズは高い。特別支援学校などの在籍者数は増え続け、教室が不足するところも出ている。

 一方、インクルーシブ教育導入による教室の学習環境の変化を懸念する教育関係者の声もある。

 その導入の適否については、現行の障害児教育を着実に充実させる中で、慎重に議論したい。

(2010年12月31日01時16分 読売新聞)」

「40人を上限とする1クラスの人数も大幅に減らさねば対応できないだろう。」

そもそも40人というのが多過ぎるんだから、早急に25人くらいにしてもらいたいね。民主党もそんなこと言ってなかったっけ。やるやる詐欺だね。

「文部科学省の試算では、教員らの増員に2兆円、施設整備に10兆円のコストがかかるという。こうした条件をただちに整えることは難しいと言わざるを得ない。」

ホントにこんなにかかるのかねえ。

「インクルーシブ教育導入による教室の学習環境の変化を懸念する教育関係者の声もある。」

問題はここだよね。教育関係者のみならず、健常児の保護者が、障害児を受け入れる姿勢を示せるか否かだよね。

自分の子供が障害児と一緒に学ぶとなったら、反対しそうな保護者が結構いそうだからね。

爪切り無罪、刑事補償を請求…拘束102日

2011年01月02日 | Weblog
2010年12月29日 14時04分31秒

URL http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101229-OYT1T00174.htm



「入院患者の爪の処置を巡って傷害罪に問われ、福岡高裁で逆転無罪が確定した北九州八幡東病院(北九州市)の元看護課長・上田里美さん(44)が、身柄拘束されていた102日間に対する刑事補償として、約127万円を同高裁に請求していたことがわかった。

 上田さんの弁護団によると、請求は今月7日付。

 刑事補償法は、無罪が確定した場合、元被告の拘束日数に応じて1日当たり1000~1万2500円を補償すると定めている。

 上田さん側は、「長期間の身柄拘束で受けた経済的、精神的損失は大きく、最高額での補償が相当」と主張、2007年7月2日に傷害容疑で逮捕されてから、1審・福岡地裁小倉支部での初公判後の同年10月11日に保釈されるまでの102日間の補償として、1日あたり1万2500円、計127万5000円を請求した。

 上田さんは09年3月の1審判決で、「爪を切った行為はケアではなく、傷害にあたる」などとして懲役6月、執行猶予3年の有罪判決を受け、福岡高裁に控訴。高裁は今年9月、「正当な看護行為であり、傷害罪は成立しない。捜査段階の自白は捜査官による誘導の疑いが残る」として逆転無罪を言い渡し、確定した。

(2010年12月29日11時25分 読売新聞)」

この金は、起訴後の勾留を請求した検察官と、令状を発布した裁判官に払ってもらいたいよね。起訴後も勾留し続ける理由はあったのかね。逃亡の虞も罪証隠滅の虞もなかったような気がするけど。こういう時こそ読売は、刑事訴訟規則を持ち出して、検察庁・裁判所を批判するべきだけど、しないんだよな。海保の職員はかばうけど。


人質司法を見直さないと、刑事補償や国家賠償で無駄な税金が使われるだけなんだけど。見直そうという機運は全く盛り上がらないよね。どうしたことかね。

読売新聞 12月26日付 編集手帳

2011年01月02日 | Weblog
2010年12月28日 18時16分28秒

URL http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20101225-OYT1T00775.htm



「「検察庁の看板に真っ黄色のペンキがかけられたその光景を、今でも忘れられない」。検察取材の長い本紙記者が中公新書『ドキュメント検察官』(読売新聞社会部著)に書いている◆金丸信・元自民党副総裁の聴取もせず、5億円違法献金事件を罰金で済ませた検察に怒る男の仕業だった。市民の元副総裁への告発も4万件超、とまどう幹部を見て記者は「検察の考える『正義』が揺らぐ」を実感した◆1992年のこの騒動が、今では「特捜神話」崩壊の序章のように見えなくもない。大阪地検特捜部の捜査資料改ざん・隠蔽事件で神話が最終章を迎える中、最高検は検証結果を公表した。身内調査を甘いとみれば、法相の私的諮問機関「検察の在り方検討会議」は厳しい注文をつけるだろう◆ただし角を矯めて牛を殺すな、である。全面可視化で否認が増え、検事の取り調べ能力も劣化すれば真の犯罪者を取り逃がす。特捜部「解体」に至っては、ほくそ笑むのは巨悪である◆本紙に載った弁護士の話。「特捜部が目を光らせ、それでも事件がないのが幸福な社会」。そこではペンキが飛ぶこともないだろう。

(2010年12月26日01時20分 読売新聞)」


同日の読売新聞朝刊24面では、最高検の検証アドバイザーを務めた元特捜検事の高井康行弁護士の「全面可視化が導入されれば、巨悪を摘発できなくなる」とのコメントを紹介している。

読売新聞は、事ここに至っても、相変わらず全面可視化に絶対反対のようである。



しかし、ここで我々が考えなければならないのは、何が「巨悪」であるかである。求めるべき「正義」とは何かである。

ある政治家が特定の企業から5億円の賄賂を受け取っていたとする。しかし、読売が言うように、取り調べの全面可視化がなされたことにより、供述を取ることが困難となり、この政治家の有罪立証が出来ず、取り逃がすことになってしまったとする。



他方、ある無実の人がやってもいない強盗殺人の嫌疑をかけられていたとする。取り調べの全面可視化がなされていなかったため、捜査機関による供述の誘導、調書の捏造、物的証拠の捏造が行われ、この無実の人には死刑判決が下り、死刑が執行されたとする。

特定の企業から5億円の賄賂を受け取った政治家と、供述の誘導、調書の捏造、物的証拠の捏造を行った捜査機関のどちらが「巨悪」であるのか。



賄賂を受け取る政治家を取り逃がさないことと、無実の人を間違っても処罰しないことのどちらが、我々が求めるべき「正義」であるのか。


私にとっては、供述の誘導、調書の捏造、物的証拠の捏造を行った捜査機関が「巨悪」であり、無実の人を間違っても処罰しないことが「正義」である。


もちろん、賄賂を受け取る政治家も取り逃がさず、無実の人を間違っても処罰しない司法手続きがベストであることは言うまでもないが、現実はそうはなっていない。無実の人が処罰を受けた事例は多数ある。
その現実を見た時に我々は、無実の人に対して「残念だったね。だけど、『巨悪』を処罰するためには、仕方がないんだよ。」と言ってもいいのだろうか。無実の人が、間違っても処罰されない方法を探らなくてもいいのだろうか。

読売は、「全面可視化で否認が増え、検事の取り調べ能力も劣化すれば真の犯罪者を取り逃がす。特捜部「解体」に至っては、ほくそ笑むのは巨悪である」と書いている。


こういう考え方を「必罰主義」という。いくつかの冤罪を生み出したとしても、犯罪者を処罰することの方が大切だという考え方である。


それに対置される考え方を「無辜の不処罰」という。真犯人を何人取り逃がしたとしても、無実の人を決して処罰してはいけないという考え方である。もちろん、私はこの考え方である。


読売をはじめとした、「必罰主義」を採用している者達には、その考え方を、自分の配偶者が、子が、孫が、無実の罪で処刑されても変えないな、と問いたい。






最後に、東京新聞の2010年5月23日付社説を紹介しておく。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2010052302000073.html

週のはじめに考える 『無辜の不処罰』めざし

「裁判員制度が始まって一年。「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則は国民に知られ、浸透しつつあるのですが、あらためて整理し、考え直してみます。
 まず、こんなクイズはどうでしょう。被告と被告人は同じか違うのか?

 答えは、法律用語のうえでは違う、です。被告は民事訴訟での原告の相手、被告人は検察官から刑罰を科すべきだとして公訴を提起されている者を指します。



◆被告人の相手は国家



 そうです。被告人の相手は国なのです。新聞は被告と略称していますが、憲法などには被告人と書いてあります。一人の人間が国を相手にすれば必ず大きな不利があり、従って黙秘権が保障され、疑わしきは被告人の利益にという刑事裁判の鉄則もあるわけです。

 少々古い話ですが、英国で「冤罪(えんざい)」で死刑が執行された有名な事件がありました。一九四九年、ロンドンでのこと。下町のアパート最上階に住むトラック運転手ティモシー・エヴァンズ(25)の妻(20)と娘(1つ)の死体が裏庭の屋外洗面所から発見されます。警察がエヴァンズを調べると「妻が無断で借金し、責めたらけんかとなり絞め殺した。二日後、娘も殺した」と供述。治安判事に犯行を認めた。しかし法廷では一転、アパート階下に住むジョン・クリスティー(51)という男が犯人だと自白を翻したのです。

 裁判は陪審でした。彼の否認は退け、重いものを引きずる音や目撃証言などから有罪評決を下し、上訴も棄却。翌年エヴァンズは絞首刑に処せられたのでした。

 ところがその後、壁板の裏や床下、庭からクリスティーの妻を含む女性の死体が次々見つかったのです。エヴァンズ裁判の誤判は濃厚となり、のちに英国政府は誤りを認めました(クリスティーは自分の妻殺害の罪で死刑執行)。



◆英国事件と足利事件



 この誤判を機に英国は死刑廃止へと向かうのですが、当時の専門家は、エヴァンズの虚偽自白について、普通の人には理解しにくいだろうが、取り調べを終わらせたい気持ちなどから迎合したようだと分析しています。

 半世紀以上も前のことですが、最近の足利事件のケースなどをつい思い出してしまいます。違う国で時を経て似たような過ちが起きるのは、それが構造的であり、しかも一般には理解しにくいからではないでしょうか。

 構造的というのは、密室での取り調べはやはり威圧的に感じさせるものであり、自白すれば帰してやるなどという“誘導”に人は弱く、取調官は一定の見込みをもって自白を取ろうとしていることなどです。理解しにくいというのは例えば、やっていない人がやったと言うはずがないという“常識”が社会では固く信じられていることです。

 日弁連の調査によると、富山県氷見市の強姦(ごうかん)等冤罪事件では男性はパンと牛乳の昼食だけで丸一日調べられ、帰宅後、死んだ方がましと除草剤を牛乳に混ぜて飲んだといいます。鹿児島県志布志市の選挙違反事件ではやはり連日長時間の取り調べに耐えかね、多人数が「自白」しました。自白調書があると、法廷でいくら否認しても裁判官は、罪を逃れようとしている、と逆の印象へ向かうことがあるそうです。

 三重県名張市の毒ぶどう酒事件(一九六一年発生、五人殺害)では、奥西勝死刑囚(84)が再審請求中です。逮捕当時、警察署内でマスコミが行った会見で彼は「大きな事件をちょっとした気持ちから起こし、何とお詫(わ)びしたらいいかわからない」と答えました。後に刑事のメモを暗記して話したと述べています。一審は証拠や証言の不自然さから無罪としたが、高裁では死刑に逆転、最高裁は上告を棄却しました。

 会見した元記者は「なぜあんなことを言ったのか、目を見てもう一度聞きたい」と述懐したそうですが、極限の人間心理の不合理は説明不能かもしれません。

 誤判防止には、取り調べの全面可視化と証拠の全面開示がまず必要です。自白は本当か、証拠に矛盾はないか。つまり疑わしきは被告人の利益に、を実現するためです。もう一つ言い換えるなら、十人の真犯人を逃がしても一人の無辜(むこ)の人間を罰してはならない、という英国の格言になります。



◆司法不信を招くより

 諸外国に比べ、日本は凶悪犯罪がまだ少ない方です(日本の殺人発生件数は英独仏の約三分の一、米国の約六分の一=二〇〇七年統計、犯罪白書から)。社会の秩序と治安を真に守ろうとするなら、真犯人を逃すことよりも、無辜の人を罰して司法の不信を招くことをより恐れるべきです。英国の苦い体験は、いつ思い起こしてもいいのではないでしょうか。」