おじさん山伏です

修験道の修行から見た心の散歩です。
アイヌのアシリ・レラさんからの命名です。
「キムン・マタギ」になりました。

白隠禅師はすばらしい!

2013-02-23 | 読書感想


先日、渋谷文化村の「白隠」展に行ってきました。
力強い筆の力に、圧倒され涙が出てきました。

白隠禅師の若い頃の逸話です。

江戸後期、臨済宗の中興の祖、
白隠禅師が23歳の時に富士山で
宝永の大噴火が起こりました。

白隠禅師は原の松蔭寺にいましたから、
まさに富士山のふもとであります。
その時に白隠さんは大噴火からどう身を守ったと思いますか?

大地震・大噴火が起こったとき、
白隠さんは禅堂で坐禅をしていましたが、
まわりの雲水や寺の人達もみんな外に
逃げ出してしまいました。

白隠さん一人禅堂内にあって動かず、
周りの人が
「外に出ろ出ろ!」と言っても、
坐禅をやめようとしない。

白隠さんはその時心の中でこう誓ったそうです。

「自分がもし悟りのまなこを開いて
世の中の為になるような立派な坊さんになるのなら、
この程度の大噴火でいのちを
落とすはずがない!天の神々が守るはずである。

悟り開けず、
たいしたことのない坊さんになるのなら、
今ここで死んでもかまわない!」


そう誓って坐禅をしたまま動かなかった。
自分を試した。

そして、自分のいのちを天に任せた。
しばらくして、
揺れも止んでどこにも
かすり傷一つなかったそうです。

そして、翌る年24歳の時に
大きな悟りを開きあれだけの働き、
活躍をされたのでした。



芳澤 勝弘先生の「白隠禅画をよむ」から

この本を読むと、
白隠禅師と芳澤先生の謎解きを
丁々発止と真剣勝負が伝わってきます。

禅画というものを初めて知りました。
画に描かれている文字(讃)の意味を
知らなければ、白隠禅師の言おうとしたことが
分からない。

「それらの禅画は、先行する画も賛も
複雑な背景を下敷きにしたもので、
先行する何かをふまえるところがあり、
それが重層をなしています。

その文脈は、経典や禅録、
古典漢文の故事、
そして、和歌、説話、謡曲、狂言、
浄瑠璃、流行り歌、俗謡、さらには民俗など、
じつに多岐多様です。


賛に書かれている言葉の意味が
ふまえているところを検証していけば、
そこに深い意味があることがわかってくる、
そのような画賛です。」芳澤先生は解説しています。

特に印象に残った話のひとつに



大文字屋かぼちや図があります。

大文字屋のかぼちやとて
其名は市兵衛と申します
せいはひきくてほんに猿まなこ
よひわひなふ

大文字屋というのは、江戸の新吉原京町一丁目にあった妓楼のことで、
その初代の主人は村田市兵衛という人でした。
市兵衛は頭でっかちで背が低く、
その風貌から「かぼちや」とあだ名さ
れていたのです。これをからかって、
妙な囃し唄を歌う者がいたということです。
「ひきくて」は「ひくくて」に同じ。
  ここに京町大文字屋のかぼちゃとて
  その名は市兵衛と申します
  せいが低くて、ほんに猿まなこ
  かわいいな、かわいいな

この唄が江戸で大流行したことが、
江戸時代のいくつかの書物に記録されています。
それにはいろいろな事情がありました。
子孫の四代目大文字屋市兵衛が書いた『花柳古鑑』には、
そのいきさつが詳しく書かれています。

それによれば、
市兵衛の稼業である妓楼ぱそれなりに繁昌していましたが、
そういう世界には、
「地回り」と呼ばれる用心棒稼業のような者がいます。
市兵衛はその地回りの親分と、
ちょっとした行き違いがあり、
親分から法外なことを要求されるようになった。
市兵衛がいうことをきかなかったところ、
親分は子分らに命じて、
右の唄を毎晩のように街で歌わせた。

つまり、人の欠点をあげつらう囃し唄を歌って、
一種の営業妨害をしたのです。
宝暦二年のことです。

 ところが、この市兵衛は、
この苦境を「人間万事塞翁が馬」という
心意気で乗り越え、
それを逆手にとって、
自らこれを歌って人を笑わせ、
新たに開店した大文字屋の逆宣伝に利用し、
マイナスーイメージをすっかりプラスに変え、
それによって商売が大いに繁昌したというのです。

 大田南畝の『仮名世説』にもこの話が記録され、
そこには、その頃に売り出されたという
「大文字屋かぼちや」の刷り絵の写しが載っています。
つまり、これは一種のPRソングで、
当時、刷り物にまでなって流行ったのです。
宝暦二年といえば、
白隠は六十八歳ですが、
しばしば江戸に出かけていたので、
このような同時代の風俗を知悉しており

これをリアルタイムで取り入れたものでしょう。
白隠は「かぼちや節」を直接聞いたか、
あるいはその噂を耳にしたのでしょう。
あるいは、右のような「人文字屋かぼちや」の
刷り絵を実見していたかもしれ余せん。

 ところで、白隠は何のためにこんな絵を描いたのでしょう。
自隠禅画のメッセージを知るためには、
「誰に宛てて描かれたものか」ということが、
きわめて大事なポイントになります。
しかし、この絵はいまでは収集家の手に渡ってしまっているで、
もともと誰に描き与えたものか、
その消息は杳としてわかりません。

したがって、この絵が何のために描かれたのか、
その真意は何ともうかがいしれないのですが、
その裏にはきっと
何らかの物語か教訓が秘められていたはずです。

 大文字屋市兵衛は、
醜い容貌のために、
「かぼちや」とあだ名されたのですが、
その「不風流」を見事に我が物としてサラリと受け止め、
かえって逆宣伝に用い、
家業を成功させ、
自らの戒名も「加保信士」とつけた、
当代きっての風流人であったわけです。

そこに白隠は禅機(禅的なはたらき)を見たのでしょう。

「風流ならざる処、也た風流」


という禅語がありますが、
市兵衛は見事に価値の大転換をしているのです。

 白隠下の禅僧の画賛にばいこの
「かぼちや節」を書いたものもありますので、
おそらくは参禅問答の際にも、
この「かぼちや節」が用いられていた可能性もあります。



白隠禅師の神髄は、
 「仏教のみならず、あらゆる分野を学んで、
 これを基にして、
 すべての人々を救済するために
 法を説き、
 仏道を実現せよ」と。


23日は、吉野山で遊んでいます。
久しぶりで吉野の山は雪のようです。

櫻本坊で院主さんから「前方便伝授」を24日に受けます。
白足袋、白着物、白帯です。
得度を受けて、護身法を受けないと伝授会に参加できません。

帰って来ましたら吉野山のお話を。

ありがとうございました。
 


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