ブログ用の写真がなくなり雪模様のなかに
円覚寺、東慶寺、小町通り、長谷寺にお参り。
円覚寺に9時ごろ着いたのですが、
さすがに参詣客は誰もいません。
軽い小雨が降っていました。
弓道場は閉していました。
ありがとうございました。
故杉本秀太郎先生の花ごよみ「冬」から「冬薔薇」
以下の杉本先生の文は、誰もいない静かな円覚寺の雰囲気と繋がっているような感じがします。
十一月もおわる頃、小春日和にさそわれたのか、薔薇が一輪。
ほのかに紅をさしたクリーム色。葉は霜に焼けて紫をおび、数もとぼしく、茎、とげも黒ずんでいる。
咲くことはなさそうに思えた固いつぼみだったのに、おちょぼぐちに先がほどけて、壷形に花を咲かせた。
ついに花びらはほどけ切らず、壷花のままで、先のほうから凍傷にかかっていった。
切り花にすれば開き切ったかもしれない。
茶ばんで、小首をかしげたまま、黙り込んだしまった花を私は摘み取った。
ここに引く詩は、冬薔薇を歌っているわけではないが、
九月の返り咲きを待たれている薔薇は、私の庭に咲いた冬薔薇のように控え目な、
さびしい花でなければ似つかねような気がする。
これはヴェルレーヌの獄中詩を集めた「知恵」(1875年刊)の
なかの無題のソネ(十四行詩)一篇。試みに訳して見る。
待たれる日がほのかに光っている、厩に落ちている一本の麦わらしべのように。
めくら滅法とびまわっている雀蜂を、そんなにこわがらなくてもいいの。
ほら、羽風に舞い立った埃が、節穴から射しこむ日光に浮き立って、やっぱりよく見えるじやないの。
うつらうつら、居眠りしていればよかったのに、テ-ブルに肘をついたまま。
やっれて、かわいそうに。せめてこのつめたい井戸水を
飲んでからお休みなさい。ここに居てあげますよ。
そしておまえの午睡の夢をあやしていてあげるから、
幼い頃のように、かわいい寝ごとを聞かせておくれ。
正午を告げるお寺の鐘が鳴っておりますぞ。奥さん、どうか
お引き取りねがいます。
もうよく眠っておりますな。ご婦人の足音は禁物なのです。
あわれな男囚どもは、それは耳敏いので。
ほんと、正午の鐘だわ。床に水を打たせておきましたよ。
では、おまえ、お休み。待たれる日が光ってる。床の隙間の砂利も光ってる。
ああ、九月のいつ頃、薔薇は返り咲いてくれるのかしら。
このとき独房を訪問したのは、詩人の母であったか、聖マリアであったか。
思案の仕どころである。人も知るとおり、
ヴェルレーヌは獄中で神の「知恵」に触れ、
カトリックに回心する。