新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月27日 その2 広島は矢張りツキを失いかけていた

2016-10-27 08:40:20 | コラム
閃きなしで観戦した日本シリーズ第4戦:

予感なしで観戦するのも良いかと、2回から腰を据えて集中した。昨日には実績がないと言ってしまったが、見ていた記憶もあったし、日ハムの高梨は8連勝していたとテレビの画面で知らされた。お見それして失礼しました。この高梨も広島の新人(ルーキーではないよ、ルキーだ)岡田もともに大試合で先発させられ苦心惨憺の投球だったが、兎に角3回までは失点がなかったのは良かった。だが、投球数が多すぎで見ている方がだれたので困った。そこまででは何れが勝てるのかは全く感じなかった。

何分にも当方は贔屓の球団もなく、試合というか勝負の面白さと技術を楽しんでいるのだが、この試合に限っては何となく白いユニフォームの方を勝たせたいという思いが出てきた。根拠は日ハムが勝てば双方が2勝2敗となってシリーズとしても興味が増すからである。贔屓の問題ではない。そこに4回表のあの近藤の大エラーによる失点が生じた。何故か、私は「これで日ハムが勝てる目が出てきた」と閃いたのだった。後は「閃き通りに行ってくれ」と半ば願いつつ観戦していた。

因みに、あの近藤のエラーはゲスト解説だったかの巨人の阿部が指摘したように「センターが捕るべき飛球」だったと思う。そもそもは捕手だった近藤の打つ方を買って三塁だの外野だのと使ってきたのでという同情的なことを誰かが言っていたが、それは同業者として庇ったのであり、少なくとも入場料を取って見せている試合で起きてはならないセンター、セカンド、ライトの連携の失態である。

この試合で印象的だったのが既に指摘した「大谷(及び他の左打者)の左投手の外に流れるスライダーに対する弱さ」だった。大谷は責任を感じすぎたのか、右投げ投手の外(アウトサイドで良いだろう)でも空振りして4打数で2三振の空回りだった。今夜は広島がジョンソンを出すそうだから、大谷は余程工夫しないとまた封じ込められる危険性があると見た。

昨日も「中田翔は仮初めにもパシフィック・リーグの打点王」と書いたが、昨夜も打点王は6回裏に大谷の後で見事なホームランで同点に持ち込んでしまった。私は中田も大谷もソフトバンクの柳田も皆しゃくり上げるような打ち方で、言わばゴルフで言う「ダウンスウイング」ではない点に脆さがありはしないかと、野球部経験者でもないのに考えている。あの中田の一打も綺麗に下から打ち上げていったと見えた。「これで決まった」と思わせてくれたホームランだった。

私は緒方監督が判で押したようにジャクソンを出して失敗したと指摘した。その失敗をまたやってしまった。解説の衣笠は「外人の投手と打者の対決は難しい」と言った途端にあのレアードのホームランだった。外人の投手はアメリカの野球の特徴である「自分の持ち球の中の最高のもので勝負する」のであって、日本人の投手のように「コントロールで相手の打者の弱点をこれでもかと攻める」のとは全く別の文化の中で育ってきている。

それだから、ジャクソンは捕手の石原の指示もあったので、自信があったスライダーを投げてみれば制球を誤って真ん中に入ってしまったのだった。緒方監督は既にジャクソンでは失敗した経験がありながら学習できず、シーズン中の実績と彼のプライドに懸けたのだろうが、あれは私に言わせれば失態である。勝負したがる外人選手を使えば細かい日本式作戦は立たない。それは打者でも同様で、自分の個性を出して実績を挙げようとする。文化の違いは一朝一夕には変えられまい。

一度失った流れは昨夜もその通りになって出てしまった。緒方監督がそれをどのように引っ繰り返すかだが、栗山監督も同じような立場に追い込まれたかと思う。即ち、流れは日ハムに向かってきたのだ。平常心で逃がさないように出来なければ、失ってしまうだろう。緒方監督は一昨日には麻雀で言う「点棒を数えるような真似」をして2対1で逃げ切ろうとして失敗したではないか。

昨夜も9回は宮西投手は如何にして逃げ切るかを考えたいたと思って見ていた。そこであの二死満塁だったが、丸は見事に外のボールになるスライダーを空振りした。今夜は日ハムがどのようにしてジョンソンに2度はやられないように出来るのかが鍵だろう。ツキを腕で消さない工夫が必要だろうとだけ言っておく。閃きはその後のことだ。

10月26日は多忙だった

2016-10-27 08:38:28 | コラム
「引揚」って何ですか?:

暫くなりを潜めていた「じ」の状態が先週の頭から芳しくないので、早朝に電話で確認して我が家から徒歩3分のこの方面で評判が高く、長年お世話になっている東京山手メデイカルセンター(旧社会保険中央総合病院)に予約なしで駆けつけた。予約票には09:18との時刻が表示されていた。は正直なところ、かなり不安で自分の番号が呼ばれるのを待っていた。ここは何時も混んでいるし最短でも1時間半を覚悟していた。

幸運にも1時間丁度で呼ばれ、昨日は外来に出ておられた主治医のO医師に診察して頂けた。結論としては「問題はなく、大腸からの出血ではない。機械を使っての触診等でも出血がないので座薬で対応していれば十分。普通の暮らしをしていて良し。但し、刺激物を摂らないように」ということで解放された。思えば、血液サラサラや凝固を防止する薬を常用していればこうなるのには不思議はなかったことでもあるので、ホッと一安心して帰宅した。

そこから丁度手持ちがな明日でなくなる前立腺対応の薬を出して頂く為に、高田馬場のSクリニックに向かった。明日は木曜の休診日なのでこの時間帯にしか行く時間がなかったのだ。そこで受領した後で、駅前のジムまで行ってマッサージチェアで過度の緊張をほぐしてからシャワーを浴びて帰宅。昼食の後に新大久保駅前を13:51発のバスで「21世紀パラダイム研究会」の定例会に出席の為に市ヶ谷駅前に向かった。1日に4箇所を回るとは現職の頃にも余りやらなかった強行軍。

昨日の講師は1945年に小学校5年生だった方で、朝鮮半島からどのような苦労を重ねて引き揚げてこられたかを、昨日初めて引揚者だったことを口外することも含めて語られたのだった。内容はここに記すことは控えたいと思う。ただ、この方が語れた中で印象的だったのは、引揚者の会合に参加された帰路の新幹線で隣の席に座った若い女性に「引揚って何ですか?」と尋ねられ、時の流れを痛感したという辺りだった。この女性は京都大学出身者で某商社の総合職だった由。この女性にして引揚も引揚者も知らなかったのは「・・・」だったと語られた。

昨日の定例会の冒頭に私と同年齢の会員のI氏の訃報が告げられた。ガンであったことはご当人が語っておられたが、何とも言えない思いだった。と言うのは、昨日の朝、私には突然そのI氏がどうしておられるだろうかとの閃きがあったので「またか!」との思いにとらわれたのだった。去る6日に亡くなった義妹のことも、前日に家内とその後はどうしているだろうかと語り合ったばかりで、その直後に「最後の入院と医師に告げられた」と弟から電話があったのだった。

18時に定例会が終了後には朝からの緊張の1日が終わったことでもあり、恒例の喫茶店での語り合いの二次会を遠慮して18時半過ぎに当日3度目の帰宅。着替えてテレビを見れば、丁度日本シリーズ第4戦の1回の裏辺りだった。これでは得意とする閃きの時間帯は過ぎていた。試合の批評というか内容は別途。


日本シリーズ第3戦観戦記

2016-10-26 08:50:47 | コラム
緒方監督が認めた判断の誤りで試合を落とした:

今か今かと待っていた試合が始まっても何の閃きもなかった。「これは如何なること」かと思いつつ試合の展開を眺めていた。日ハムの先発投手・有原は不安な顔付きだったので「あれで良いのかな」と見ていたが、1回の表を何とか切り抜けたのは「良く出来ました」だった。一方のマスコミが褒めそやし過ぎだと思っている黒田は大谷に上手く打たれて危機(ピンチでも良いがね)を招いた。だが、中田翔が例によって力みすぎたので、1点で食い止められたのは幸運だったが後になって祟った。

広島はエルドレッドのホームランで僅か1点だけのリードで8回まで保たせたのは良かったが、その裏の大谷の敬遠策が結果的には監督の作戦の誤りとなって出た。中田翔とて打率は低くとも仮初めにもパシフィック・リーグの打点王である。外野手が取れるか取れないかギリギリと見えたほぼラインドライブ(ライナー性というカタカナ語がある)を松山が完全に判断を過て突っ込みすぎて2点を失った。

あれは解説者の誰かが指摘したように「アウトカウントを考えれば、単打で止めようと判断すべき」だった。即ち、きつい言い方をすれば松山を使ったのが裏目に出たということ。次の結果的な監督の過ちはジャクソンを順番通りに出したこと。私には「この使い方は禍根を残すことになりはしないか」と閃いた。それが当たって中田の一打となり、松山の突っ込み過ぎとなったと思っている。負ける時はこういうもので、もしかすると今日の試合でもツキがなくなっているかも知れない失態だった。

延長戦での大谷の決勝打の場面では、解説の古田も他の誰かも「日ハムの外野が後ろに下がり過ぎでその意図が不明だ」と指摘していた。勿論大谷の長打を警戒したのだろうが、頭の上を越されてはそれまでなので、西川の足の速さを考えればもっと前に出しておくべきだっただろうと思う。その通りで、大谷の一・二塁間を抜いたゴロのヒットは、外野が浅く守っていたらかなり微妙なことになっていたのかも知れないと見た。

尤も、私はあの回で大世良を続投させずに中崎を出しておいた方が良くはないのかなと思っていた。大世良は9回を切り抜けたのが精一杯程度の投手だと判断していた。従って、これも監督の判断の誤りの部類に入ると思っている。では、中崎の後に誰を出すのかと訊かれそうだが、そんなことよりもあの場では1点を取られれば試合が終わってしまうので、何としても食い止めるべきだと思っていた。相手だってろくな投手が残っていなかったのだから。

これで先が解らなくなったという説が出るだろう。私もそう思っている。それは「2対1」というリードは最も不安定で、もう一度負けると2対2になってしまうからで、ここで守りに出るか、積極的に攻めて行くのかの判断が難しいのだ。現に広島は2対1を守りに言って一度引っ繰り返されたではないか。従来通りにジャクソンを出して失敗したし、中崎を出す機会を失ったではないか。負ける時はこんなものだともう一度言っておく。

今夜は実績がない投手同士だから、またもや先が読みにくいが、流れは日ハムの方に行ってしまったかも知れない。となれば、緒方監督の采配次第ではないのだろうか。日ハムは大谷と中田翔次第かな。今夜はもしかすると試合開始までに帰宅できないかも知れない会合があるので、閃きはないと思っている。


10月25日 その2 我が偏見

2016-10-25 09:31:41 | コラム
平幹二朗さんが亡くなった:

名優と聞く平幹二朗さんが亡くなったと報じられた。兎に角ご冥福を祈ろう。この件ではマスコミはテレビ画面に特報を流すなど大騒ぎだった。それほどこの名優の死を惜しんだのだろう。遺憾ながら演劇の世界は私の守備範囲というか領域にはないので、彼の死を悼めと言われても如何ともしがたい。勿論、彼の存在を知らなかったのでもないし、佐久間良子と離婚された程度はマスコミ報道で承知していたが。

私はマスコミの映画と演劇と芸能界の誰かが亡くなると如何にも国の宝を失ったが如き姿勢で採り上げて「ともに悼め、嘆け」と言わんばかりの報じ方に辟易としている。あれは彼らと同じ村の大立て者で、彼らが相互に助け合っていたというか、その物故者の生前にはその存在を利用して盛り上げてきた経緯があるだけだと思っている。極言すれば、映画・演劇・芸能の世界に憧れ且つ心酔していたファンの為の報道姿勢であり、そうではない私のような無関心の者には無用なことではないのか。

それだけではない、私は映画・演劇・芸能の世界の人たちはその鍛え上げ磨き上げたか練り上げた芸の力で観る者、聴く者、楽しむ者に芸の力を披露して生活の糧を稼ぎ出しているのであって(屡々彼らは稼ぎすぎだが)、言うなれば我々という観衆と聴衆を楽しませて(”entertain”するのが仕事)であり、多くのファンの如くに崇め奉るべき存在ではないと認識している。私は優れたジャズの音楽家たちを好んでで聴きに行った時期があったが、彼らを礼賛する意志はなく「その日の演奏の何処が良かったかどうか」を一人で噛みしめるか、または仲間と語り合う、言わば斜に構えた聴衆の一人だっただろう。

野球でもサッカーでもフットボールでも同様で、特定のテイームを贔屓する訳ではなく(とは言っても、読売巨人軍だけは願い下げだが)、試合全体や瞬間瞬間のプレーを冷静に鑑賞して批評するのが楽しみなのである。即ち「あの場面でのあの選手の動きが良かったの悪かったの」を貶すか「あの場面でのあの選手の判断が素晴らしかった」という具合に技術や作戦や選手の起用や監督の器量を見に行くのであって、彼らを礼賛したいファンとして応援することは全く考えていない。

極言すれば、然るべき入場料を負担して「楽しませて貰い且つ批評する」のが楽しみであって、彼らを礼賛の対象としてみていないのである。少なくとも自分たちよりも上座に据えるべき者たちではないと思っている。「芸や力を売る者」と「買う者」として最低でも同列か同等であるべきで、マスコミの姿勢は「人々を誤った方向に導くか案内する」とジーニアス英和にある”mislead”の通りかと思うのだが、如何なものだろう。


表音文字と表意文字について思う

2016-10-25 08:09:41 | コラム
日本語の表音文字化を阻止したい:

24日の私の「表音文字と表意文字」の考えについて畏友佐藤隆一氏から以下のようなご意見が寄せられ、卓見であると感じたので紹介したい。

>引用開始
カタカナ語は日本語であり、英語ではない!これには100%賛成します。しかし、カタカナ語を日本語化したので、我が国ではコンピューター用語もうまく使いこなせていると感じています。中国のようにすべてを漢字表記するには限界があります。「電脳」には限界はありませんが、それを理解するまたは漢字化する「人間」には限界があります。

我が国のカタカナは9世紀から、ヲコト点として漢文の和読に使われ始めました。漢字仮名交じり文もこの頃からあったようです。

ハングルも表音文字(口の形を模した原始的で新しい文字)ですので、コンピューター用語は問題なく、使いこなせたのでしょう。ただ、伊藤氏の言われるように表意文字のない思考経路は日本人とは異なります。彼らの感情むき出しの文化にはピッタリかもしれません。

ただ、困ったのはいつも貴方が言われるように発音の問題です。カタカナ語では限界があります。無理に発音に合わせるとカタカナ語=日本語になりません。であれば、今後は漢字英語交じり文にするのもいいカナと。

日本人は表音文字も表意として扱っている可能性があります。ですので、カタカナ語が日本語になるのです。たぶん、それができるのも表意文字と深く接しているからでしょう。「グローバル」と言う文字を音にすることなく「なんだかとっても大きな規模」であることを理解するからです。

ですので、漢字英語交じり文にしても、日本人は意外に問題なく理解するのではないかと。

ただ、英語でもすべての発音ができる訳ではありません。グローバル化すればするほど、いろいろな国の言葉や発音が表面に出てきます。英語は統一的に地球では使われていますが、それでも100%ではありませんから。

漢字英語交じり文は我々がハングルの中に漢字が多用されていた戦前の新聞を読むようなもので、英語圏の人間にも日本語を理解させるいい材料になるかもしれません。

>引用終わる

これに対する私からの反応は下記の通りである。

非常に難しく且つ微妙な点の問題提起かと思います。私が絶対避けたいこと、あってはならないことと考えているのが「カタカナ語の多用による日本語の表音文字化」です。しかし、現実にはカタカナ語というか英語の単語をカタカナ表記あるいはローマ字式に発音して使う人は増える一方です。特に所謂有識者や文化人はこういう語法に頼ることを衒っているとしか思えないのです。簡単に言えば「日本式学校教育の英語の欠陥が現れて、難しい単語を知っているとのひけらかし」で、私には嫌みにしか聞こえないのです。

私は表音文字の世界で読み書きせざるを得ない生活を続けましたが、英語の困ったことは表音文字である以上一目見ただけでは完全に理解出来ないということでした。スペリングを目で追って何という言葉かが解って、更に黙読を進めて文章全体を読んで初めて何を言っているかが解るのです。具体的には会議に参加して配付された資料をその場で一読して内容を把握せねば、討論にも参加できず座っている意義がないのです。また、日常の業務でも本部の副社長、customer services、工場等から送られてくる書類を即座に理解し反応できなければ、仕事にならず使い物にならないのでした。

そこで編み出した策は先ず小さな声を出して読んでいくと何とか直ぐに解るようになると判明して、そうせざるを得ませんでした。しかし、時が経つに連れて文字というかスペリングの形を見ただけで如何なる単語かを認識出来るようになり、文章の全体を見ただけで内容を兎に角把握できるようになりました。そこまで行く間に何年かかったかの記憶はありませんが、言うなれば私なりに英語を素早く読むことに馴れて速読術をものに出来たのです。

即ち、あの世界に居続ける為に必要なことは「与えら得た文書を瞬間的に如何なる単語が使われているかを知って、前後の流れを把握し理解せよ」ということです。換言すれば、表音文字の世界に馴れるのは容易ではなかったのです。しかも、表音文字でありながら、同じ単語でも前後の流れ次第では全く異なる使われ方をするので、ウッカリしていると意味を取り違える危険性もあります。

ハングルのように「金正恩」の「キム」と「キムチ」の「キム」が同じ形だというのは困ったものだと思うのですが、英語にはこのような危険性は極めて少ないと思います。時々、私はカタカナ語を使いたくなくて英語のままで書いていることもありますから、憎んでいる「セキュリティ」ではなく「セキュアラテイー」のようにする場合もあります。だが、これは所詮は無駄な抵抗で、私が目指している「セキュリティ」のような「原語に不忠実なカタカナ表記」の改革にまではならないのです。

私がW社に転身した頃にいた、東京事務所にいたワシントン大学のMBAだった日系人BJ氏はは「前ちゃん、日本語で話している時に英語を英語の発音のままで入れるのは最低で最悪。日本にいる以上、矢張り日本式のカタカナ表記の発音で言うべきだ」と言っていました。賛成です。だが、私は死んでも「セキュリティ」とは言いたくありませんし「メジャーリーグ」もなしですし「自己ベスト」のような漢字交じりも嫌悪します。