新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月25日 その2 我が偏見

2016-10-25 09:31:41 | コラム
平幹二朗さんが亡くなった:

名優と聞く平幹二朗さんが亡くなったと報じられた。兎に角ご冥福を祈ろう。この件ではマスコミはテレビ画面に特報を流すなど大騒ぎだった。それほどこの名優の死を惜しんだのだろう。遺憾ながら演劇の世界は私の守備範囲というか領域にはないので、彼の死を悼めと言われても如何ともしがたい。勿論、彼の存在を知らなかったのでもないし、佐久間良子と離婚された程度はマスコミ報道で承知していたが。

私はマスコミの映画と演劇と芸能界の誰かが亡くなると如何にも国の宝を失ったが如き姿勢で採り上げて「ともに悼め、嘆け」と言わんばかりの報じ方に辟易としている。あれは彼らと同じ村の大立て者で、彼らが相互に助け合っていたというか、その物故者の生前にはその存在を利用して盛り上げてきた経緯があるだけだと思っている。極言すれば、映画・演劇・芸能の世界に憧れ且つ心酔していたファンの為の報道姿勢であり、そうではない私のような無関心の者には無用なことではないのか。

それだけではない、私は映画・演劇・芸能の世界の人たちはその鍛え上げ磨き上げたか練り上げた芸の力で観る者、聴く者、楽しむ者に芸の力を披露して生活の糧を稼ぎ出しているのであって(屡々彼らは稼ぎすぎだが)、言うなれば我々という観衆と聴衆を楽しませて(”entertain”するのが仕事)であり、多くのファンの如くに崇め奉るべき存在ではないと認識している。私は優れたジャズの音楽家たちを好んでで聴きに行った時期があったが、彼らを礼賛する意志はなく「その日の演奏の何処が良かったかどうか」を一人で噛みしめるか、または仲間と語り合う、言わば斜に構えた聴衆の一人だっただろう。

野球でもサッカーでもフットボールでも同様で、特定のテイームを贔屓する訳ではなく(とは言っても、読売巨人軍だけは願い下げだが)、試合全体や瞬間瞬間のプレーを冷静に鑑賞して批評するのが楽しみなのである。即ち「あの場面でのあの選手の動きが良かったの悪かったの」を貶すか「あの場面でのあの選手の判断が素晴らしかった」という具合に技術や作戦や選手の起用や監督の器量を見に行くのであって、彼らを礼賛したいファンとして応援することは全く考えていない。

極言すれば、然るべき入場料を負担して「楽しませて貰い且つ批評する」のが楽しみであって、彼らを礼賛の対象としてみていないのである。少なくとも自分たちよりも上座に据えるべき者たちではないと思っている。「芸や力を売る者」と「買う者」として最低でも同列か同等であるべきで、マスコミの姿勢は「人々を誤った方向に導くか案内する」とジーニアス英和にある”mislead”の通りかと思うのだが、如何なものだろう。


表音文字と表意文字について思う

2016-10-25 08:09:41 | コラム
日本語の表音文字化を阻止したい:

24日の私の「表音文字と表意文字」の考えについて畏友佐藤隆一氏から以下のようなご意見が寄せられ、卓見であると感じたので紹介したい。

>引用開始
カタカナ語は日本語であり、英語ではない!これには100%賛成します。しかし、カタカナ語を日本語化したので、我が国ではコンピューター用語もうまく使いこなせていると感じています。中国のようにすべてを漢字表記するには限界があります。「電脳」には限界はありませんが、それを理解するまたは漢字化する「人間」には限界があります。

我が国のカタカナは9世紀から、ヲコト点として漢文の和読に使われ始めました。漢字仮名交じり文もこの頃からあったようです。

ハングルも表音文字(口の形を模した原始的で新しい文字)ですので、コンピューター用語は問題なく、使いこなせたのでしょう。ただ、伊藤氏の言われるように表意文字のない思考経路は日本人とは異なります。彼らの感情むき出しの文化にはピッタリかもしれません。

ただ、困ったのはいつも貴方が言われるように発音の問題です。カタカナ語では限界があります。無理に発音に合わせるとカタカナ語=日本語になりません。であれば、今後は漢字英語交じり文にするのもいいカナと。

日本人は表音文字も表意として扱っている可能性があります。ですので、カタカナ語が日本語になるのです。たぶん、それができるのも表意文字と深く接しているからでしょう。「グローバル」と言う文字を音にすることなく「なんだかとっても大きな規模」であることを理解するからです。

ですので、漢字英語交じり文にしても、日本人は意外に問題なく理解するのではないかと。

ただ、英語でもすべての発音ができる訳ではありません。グローバル化すればするほど、いろいろな国の言葉や発音が表面に出てきます。英語は統一的に地球では使われていますが、それでも100%ではありませんから。

漢字英語交じり文は我々がハングルの中に漢字が多用されていた戦前の新聞を読むようなもので、英語圏の人間にも日本語を理解させるいい材料になるかもしれません。

>引用終わる

これに対する私からの反応は下記の通りである。

非常に難しく且つ微妙な点の問題提起かと思います。私が絶対避けたいこと、あってはならないことと考えているのが「カタカナ語の多用による日本語の表音文字化」です。しかし、現実にはカタカナ語というか英語の単語をカタカナ表記あるいはローマ字式に発音して使う人は増える一方です。特に所謂有識者や文化人はこういう語法に頼ることを衒っているとしか思えないのです。簡単に言えば「日本式学校教育の英語の欠陥が現れて、難しい単語を知っているとのひけらかし」で、私には嫌みにしか聞こえないのです。

私は表音文字の世界で読み書きせざるを得ない生活を続けましたが、英語の困ったことは表音文字である以上一目見ただけでは完全に理解出来ないということでした。スペリングを目で追って何という言葉かが解って、更に黙読を進めて文章全体を読んで初めて何を言っているかが解るのです。具体的には会議に参加して配付された資料をその場で一読して内容を把握せねば、討論にも参加できず座っている意義がないのです。また、日常の業務でも本部の副社長、customer services、工場等から送られてくる書類を即座に理解し反応できなければ、仕事にならず使い物にならないのでした。

そこで編み出した策は先ず小さな声を出して読んでいくと何とか直ぐに解るようになると判明して、そうせざるを得ませんでした。しかし、時が経つに連れて文字というかスペリングの形を見ただけで如何なる単語かを認識出来るようになり、文章の全体を見ただけで内容を兎に角把握できるようになりました。そこまで行く間に何年かかったかの記憶はありませんが、言うなれば私なりに英語を素早く読むことに馴れて速読術をものに出来たのです。

即ち、あの世界に居続ける為に必要なことは「与えら得た文書を瞬間的に如何なる単語が使われているかを知って、前後の流れを把握し理解せよ」ということです。換言すれば、表音文字の世界に馴れるのは容易ではなかったのです。しかも、表音文字でありながら、同じ単語でも前後の流れ次第では全く異なる使われ方をするので、ウッカリしていると意味を取り違える危険性もあります。

ハングルのように「金正恩」の「キム」と「キムチ」の「キム」が同じ形だというのは困ったものだと思うのですが、英語にはこのような危険性は極めて少ないと思います。時々、私はカタカナ語を使いたくなくて英語のままで書いていることもありますから、憎んでいる「セキュリティ」ではなく「セキュアラテイー」のようにする場合もあります。だが、これは所詮は無駄な抵抗で、私が目指している「セキュリティ」のような「原語に不忠実なカタカナ表記」の改革にまではならないのです。

私がW社に転身した頃にいた、東京事務所にいたワシントン大学のMBAだった日系人BJ氏はは「前ちゃん、日本語で話している時に英語を英語の発音のままで入れるのは最低で最悪。日本にいる以上、矢張り日本式のカタカナ表記の発音で言うべきだ」と言っていました。賛成です。だが、私は死んでも「セキュリティ」とは言いたくありませんし「メジャーリーグ」もなしですし「自己ベスト」のような漢字交じりも嫌悪します。