新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月24日 その2 「負けに不思議なし」の日ハムの敗戦

2016-10-24 08:23:30 | コラム
達川の予言通りだった日ハムの敗戦:

昨夜の日本シリーズ第2戦は解説が江本、達川、大矢とあって安心して見ていられるだろうと予測していた。ところが、中継が始まったと同時「これは何だ!」と驚かされたほど日ハムの敗戦以外の閃きが全くなかったのだった。即ち、広島の優勢だけを感じさせられていたのだ。日ハムが勝てる感じは全く画面から伝わってこなかった。

達川の予言通りに広島は強かったが、そこには勝負の大原則である「ついているついていないも腕のうち」の通りで、補欠扱いだった選手会長を前日に当たっていた安部の代わりに起用すれば、試合を決めたと思わせる先取点のヒットを打ってしまうのだから、緒方監督の腕は冴えていた。シーズンでは16勝3敗と最多勝に輝いた野村も起用に応えて、6回まで菊地のエラーの1失点に抑えたのだから、日ハムには勝てる気配がなかった。

6回のヴィデオ判定でセーフとされた田中の好走塁というか、菊地のシグナルを無視したという強行作戦も全て上手く行ってしまった辺りは「ついているのも腕のうち」の典型的な例だっただろう。私は広島のOBである達川があのヴィデオ判定を評して「これでは折角の西川の好返球が何にもならなくなってしまったし、野球の面白味がなくなるし、主審が何の為にいるかのという意義が失われる」と言ったのが印象的だった。

私にはヴィデオ判定の導入は相撲の行司の判定を力士上がりの検査役が引っ繰り返すのと同じかと思っているのだ。あの判定で日ハムは完全に試合を失ってしまった。その後の失点などはほとんど無意味に近いこと。代打で出た大谷の三振もあの流れの中では仕方がなかっただろう。大谷で第1戦を落とした以上、もうこのシリーズ中に「大谷投手」を使える機会がないだろうと思わせるほど広島は好調だった。

明日には札幌に戻って第3戦となるのだが、有原で広島の勢いを止められるのかと疑問に感じざるを得ないし、全く役に立っていない田中賢介を使ってチャンスを潰し続けたことを栗山監督がどう考えているのかも訊いてみたい気さえする。但し、アメリカ発祥の球技はほぼ全てが「モメンタムのスポーツ」なので、日ハムが何時何処で勢いを取り戻すかは予測不能だ。

広島もここまで何らのミスもなく過ごしてきたのが実力だったのか、それとも単に勢いだけだったかは解らない。その勢いを「腕でつきを失う」ような何らかの失策があれば失いかねないのが野球なのだ。だが、全体の流れは達川の言を借りないでも「広島優勢」と出ている。明日の試合開始前の閃きが楽しみだ。


衆議院議員伊藤信太郎氏の指摘

2016-10-24 07:42:59 | コラム
表音文字と表意文字:

去る22日に開催された武藤記念講座の東京大会の議題が「改憲」であったこともあって昨日は採り上げなかったが、ハーバードの修士号を持つ伊藤氏が「スマホなどの普及により若者がメール等の発信に際してローマ字流力を行うので、本来は漢字を使う表意文字の文化であった日本語が表音文字化していく」との懸念を示されたのには大いなる関心があった。伊藤氏はカタカナ語多用による日本語の変化の兆しを語られ、それが思考体系に与える影響を採り上げておられたと記憶する。

この点については更に漢字の使用を排除していった韓国語、即ちハングルが表音文字であり、ここでも漢字文化が消えていったと私は考えている。去る18日にも「イベントキーワードチャレンジでありリアルにインパクトがあってパワーを感じるのでシリアスにコメントすることは出来ない」とのカタカナ語ばかりの例文を作って採り上げたように、我が国の親愛なるマスコミは漢字文化の排除に熱心なのである。いや、所謂文化人とて同様だ。カタカナ語を使うことが知性を示すとでも思っておいでなのだろう。

思うに、彼らは視聴者には漢字を理解する能力が欠如していると配慮しているのだろうが「余計なお世話」以上に余計なことで寧ろ悪事だ。上記の例文が現在のマスコミ用語なのだが、これが果たして本当の日本語なのだろうかと私は極めて遺憾に思っている。

私は長い間カタカナ語の排斥に努めてきたが、残念ながら既に日本語化して戸籍を得てしまった言葉が余りにも多くなったので「お使いになりたければどうぞご勝手に。但し、その種の言葉の99%は本当の英語(乃至は他の外国語)にはない言葉であり、使い方も何も全て誤りであるので、間違っても英会話などの中でお使いにならないように」とだけは言って、カタカナ語使用を阻止する意欲はないと述べてきた。

私はまさか国会議員の中にそういう問題に関心を持っておられる方がおられるとは、正直に言って夢にも思っていなかったので、伊藤氏の説には一人密かに感動していたのだった。そこで慌てて検索して、その存在すら知らなかった彼の経歴、就中学歴を知ったのだった。パネリストとしての発言を聞いていてもやや学究的だったので、自民党にもこういう代議士がいたのかと、寧ろ奇異の感すら覚えていた。

結局言いたかったことは、伊藤氏の言を借りて「何処かでこのカタカナ語の濫用を止めよう。漢字文化を守ろう。正しい英語を教え且つ学ばせよう」だったのだ。


10月23日 その2 武藤記念講座 東京大会

2016-10-23 10:39:39 | コラム
「現国際情勢に鑑みて改憲の是非を問う」:

1,000回を超えているこの故武藤山治氏を記念する公益財団法人 国民会館主催のシンポジウムが、22日午後に六本木の国際文化会館で開催された。今回は特別な企画でパネラーに自民党衆議院議員・伊藤信太郎氏と民進党衆議院議員・近藤洋介氏が参加され、更に第2部には慶応大学弁論部の学生が5名参加して「若者の声を聴く会」となっていた。

合計3時間にも及んだ討論と質疑応答の全容を記憶できるほど当方の記憶力が健在である訳でもないので、「改憲」について如何なる意見が出たかだけでもここに記しておくかと考えた次第だ。最も議論が集中したのが「第九条・第二項」だったのは予測の範囲内だった。その中でも「戦力」との表現は現状に相応しくないとの意見が多かったのも当然だろう。そこを解釈改憲で乗り切れるのではないかと声もあったが、大勢を支配するものではなかったと聞こえた。

学生の中からは「改憲と一口に言うがそれでは不明確で、前文から何条のどの文言をどのように変えるか」を論議してこそ改憲論であるとの声も上がっていた。学生たちも準備して出席したのだろうから、かなり弁舌爽やかに論じていたのは「今時の若者は云々」等という陳腐な批判をはねつけるだけの内容だってことは歓迎すべきことかと思って聴いていた。

討論の中には中国の九段線への無法な進出振りや世界最大級の軍備と軍事への予算の膨張も採り上げられたが、これは我が国の安全保障と非常に密接に繋がっている案件である以上当然だっただろう。だが、「改憲」を論じる会合だった以上、そこが主たる話題には発展せず、出席者全員が中国の勢力拡張とアメリカとの対立(アメリカの相対的弱体化)等が重大な問題と捉えていたものと察していた。

達川の予言通りだった日ハムの敗戦

2016-10-23 10:07:42 | コラム
日本シリーズ第1戦は予感通りの結果だった:

去る16日のTBSの「喝」の時間に登場した元広島の達川が「広島が勝つ。今の広島の強さは嘗てなかったもので、ニッポンハムは及ばない」と断言したのが多少は意識下に残ってはいたが、昨夜はある、会合から試合開始ギリギリの時刻に戻ってテレビの画面を見ると薄暗くてまるで日ハムには分がないように見えたのだった。そこで、「なるほど、達川はこういうことを言っていたのか」と感じていた。

マスコミ大騒ぎで登場した大谷は私には緊張の極にあった顔色に見えたし、元々良くない立ち上がりでは投球フォームにも力が入り過ぎに見えたし、肝腎のリリース・ポイントが定まっておらず、そもそもコントロールで勝負する投手ではないので、不安だらけに見えた。それにも拘わらず1回の裏から速球が全て150 km台とあっては飛ばしすぎではないかと懸念した。

日ハムの敗因の第一はあの2回裏のダブル・ステイール阻止に失敗したサイン(本当は「シグナル」なんだがね)の確認ミスで、今朝の「喝」の時間では山田が大谷のミスと指摘したのが正解だと思った。私はこの1点でほぼ試合の流れが決まったと見たほど重大な失態だった。第2の敗因は中田翔がジョンソンに軽く牛耳られたことだろう。あれでは4番打者失格だ。第3には発熱で先発を外された近藤を挙げたい。大事な試合を前にして3番打者が自己管理が不行き届きだったとは言語道断。

広島は打つ手が全て当たっていた感があったほど上手く行っていた。安打数だって日ハムより少なかったが、その中に2本のホームランを大谷から打っていたのが効果的だった。何故シーズン中にあれほど懸命にやっていた新井を外したかの説明を聞き損なったが、代役の松山が大谷からホームランを打ってしまったのには恐れ入った次第だった。鈴木誠也が当たらなかったが、田中康輔も打ったし、リリーフ陣も中崎も期待通りでは、栗山監督も付け入る隙を見出せなかっただろう。

私は頭から日ハムに分がない試合だとは見ていたが、何しろCSではソフトバンクを相手にして0:4の試合を引っ繰り返した実績があったので、「もしかすると」というかすかな希望的観測で最後まで見ていた。だが、矢張り達川の予言通り「広島はもしかすると本当に日ハムよりも強いのではないか」と思わせられた結果に終わった。私は大谷にはCSの疲れが見えるように感じているが、栗山監督がここから先に彼をどのように活かす作戦を立てるかが、このシリーズの行方を決めるだろうと思う。

それは何れにせよ、日ハムは大谷の出来と使われ方次第のテイームであると思っているからだ。それだけではない、就任2年目(だったか?)で広島をあれだけの人材を揃えたテイームに仕立て上げた緒方幸市監督の手腕は並ではないから。達川は確か4勝2敗で広島と言ったが、昨夜の勢いでは4勝1敗もあり得るかと感じた。


アメリカの会社に勤めて思うこと

2016-10-22 09:59:22 | コラム
名店街に出店していた感があった:

この掲題をより具体的に言えば「ウエアーハウザーという巨大なショッピングモールの中に1区画を借りて、自分の店を張っていたようなものだった」とでもなるだろうか。その店は言わば法人化されていて自分で社長兼CEOでありながら、営業・経理・総務等の全てを担当者として兼務し、全責任を負って運営していると思って」懸命に働いていた。それは、もしも売上高も利益も家主に申告していた線を全うできなければ、何時何時退去を言い渡されるか解らない恐怖と戦っていたのだったから。

昨日も何処のテレビ局だったか記憶はないが、営業担当として採用された若者が所謂ノルマなるものを達成できずに苦しんでいたのだったが、彼が言ったことは「(同じ課の)皆に迷惑をかけている」という反省だった。この辺りが我が国の企業社会(だけに限ったことではないと思うが)の文化である「皆でやっていこう」、「一丸となってやろう」との精神の表れだろうと思って聞いていた。

「遅刻」という制度も我が国の文化であり、少なくともアメリカの会社にはない仕組みだと認識している。何度か採り上げたことだが、アメリカの不動産の自営業の女性社長さんを朝の出勤時間帯の新宿駅に案内した時に、多くの人たちが目の色を変えて乗り換えに疾走して行く有様を不思議に思ったのだろう「何故走るのか」と質問されて「遅刻という制度があって、それが度重なると有給休暇を1日失う制度を設けてある企業もあるので」と説明した。

彼女は始めは理解出来なかったが、遂には「それは良い制度だ。我が社にも規定の出勤時刻に出勤してこない者がいるので、帰国したらその制度を導入しよう」とまで言い出したのだった。ウエアーハウザーの本社にも一応「朝は8時出勤で午後は5時までの勤務」との取り決めはあったが、それはそれとして各人はそれぞれの仕事の事情というか都合で自由に出勤し帰宅していたのが実態だった。即ち、飽くまでも社員の主体性を尊重し、目標達成は自己責任であると言えるだろう。

各人が個別に「職務内容記述書」を事業部長との対話で合意して与えられているので、それぞれの仕事が同じ部門の他の社員と重複することはあり得ないので、譬え目標を達成できていなくとも、そのことが他人に迷惑をかけることにはならないのである。迷惑がかかるのは自分自身で、結果如何では翌年の減俸から甚だしきは解雇まであるのだ。

MM商店とて同様で、何時に開店し(「オープンして」ではない、念のため)当日何時にシャッターを閉めるのかは開くまでも社長の自主的な判断によるのだ。決められた成績を挙げる為には、早朝7時から開店し夜は8時でも9時でも店を開けていれば良いだけのことだ。しかも、その長時間営業の為には如何にして健康管理をするのかも自己責任であり、他人が心配して下さるものではなかった。有給休暇をとること、即ち長期間の休業も自己責任であり、閉めていた間の分を取り戻すのは容易でないのだが、閉めていた間には近隣の商店に迷惑がかかる性質ではないのだ。

このように述べてくれば、如何にもアメリカ式の文化が良いように言っていると解釈されるかも知れない。だが、私には全くその考えも意図もない。「日米相互間にはこれほどの違いがあるのだ」とお知らせしているつもりであるだけのこと。自分には偶々「アメリカの会社とは如何なるものか」とは知らずして飛び込んでしまったのだったが、その文化に何とか適応できて、61歳でリタイヤーするまで何とか勤められたということで、私には日本の企業社会の文化よりも向いていたのである。

即ち、飽くまでも各自が判断すべきことで、アメリカ式には「向き、不向き」があるのだ。そこでは、何でも自己責任で自分の主体性に任されているので、個人が余程強くないと耐えられない場面に屡々出会うだろう。そういうアメリカ式が良いと思えば入っていけば良いと言いたい世界であると思っている。それに「言葉の負担」も結構な重荷となるのも確かだ。