新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

偶にはサッカーも語って見よう

2022-11-15 09:01:58 | コラム
11月21日からカタールでWorld Cupが始まる:

サッカー出身者でありながら、申し訳ないことに、この稿を書くに当たってW杯(カタカナ語排斥論者としては「ワールド」という表記は認めていない、これは「ウワールド」であるべきだから)が今月の何日から始まるのかをWikipediaで確認した次第だった。

我らが代表ティームの最初に当たる相手のドイツの他に、2010年には優勝もしていたスペインもいるグループに入っているにも拘わらず、森保一監督以下はベストエイトを目指すという勇壮果敢な目標を掲げてカタールに乗り込んだ以上、応援して上げなければならないとは承知しているつもりだ。だが、私は常に過大な期待をせずに結果が出るまで心を静かに保って「良い結果を出してくれれば良いが」とだけ願うようにしている。

そこで、私が何をどのように考えているかを、あらためて述べていこうと思う。今月に入ってからNHKのBSで過去の名勝負(と言ったか?)を特集して、多くの試合の録画を流してくれたのを、偶然にもチャンネルを合わせて何試合か見ていた。その中から強烈な印象を受けたものから「サッカーとは」を考察してみようと思う。

第一は1994年のブラジル対イタリアの決勝戦だった。結果を言えばブラジルがPK戦まで持ち込んで勝ったのだったが、当時の世界最高水準にある両国が力というか技術の限りを尽くしてやって見せてくれたサッカーの質はと言えば、激しいぶつかり合いの場面が比較的少なく、寧ろ穏やかなサッカーだったように思わせられた。言って見れば「パスを組み立てるサッカー」のようだったが、所謂「超絶技巧」の発揮もなく、淡々と試合が進んでいるのかなとすら感じさせられた。

しかしながら、2010年のスペイン対オランダの決勝戦は、凄まじいばかりの94年とは違う高い水準にある技術を見せた試合だった。両国の代表選手たちはイエローカードやレッドカードを出されることなど全く気にする様子もなく、相手を倒していこうとばかりに相互に激しく当たり合っていた。確か、1対0で負けたオランダの方が10人になっていた気がする。

この試合を12年も経った今になって見て、あらためて痛感したことがあった。それは、英連合王国がその発祥の地であるアソシエーション・フットボールは「矢張り、狩猟民族の競技だった」という点だった。即ち、両国の代表は「倒すか、倒されるのか」との争いを展開していたのであり、イニエスタらが魅せた(見せた)高度な技術はその為の手法の一つに過ぎなかったということなのだ。言い方を変えれば「矢張り、我が国のような農耕民族に何処まで適した競技かな」となるのだ。

ここに取り上げた「狩猟民族」と「農耕民族」の違いは、私がこれまでに展開してきた「我が国とアメリカの企業社会における文化と思考体系の相違点」を語る際に指摘してきた重要な違いなのである。彼ら狩猟民族は「短期間に攻めて獲物を手に入れて結果を出す」のに対して我ら農耕民族は「土地を耕してから種を蒔いて、収穫の時が来るまで風雪に耐えてじっと待つ」という違いである。

彼らが退場をも怖れずに反則を犯すということは「結果を出すために手段を選ばず」と思っていることの証しであると言って誤りではあるまい。性善説を信奉する我が国では考える事すらしないだろう手法ではないのか。その背景にあるのが、二進法的思考体系で、彼らは「やるか、やらないか」しかない考え方なので、「やる」と決めたら突き進むのだ。

ここで、我が国のサッカーを振り返って語っていこう。私は2010年にグループリーグでデンマークに3対1で勝った試合を見せて貰って「あの頃は(私の見方からすれば)良いサッカーをやっていたな」と、偽らざる所を言えば「何故、あの形を捨てたのか」と残念に思わせられた。

森保一監督率いる現在の代表のサッカーと何処が違うのかと言えば「責任逃れとしか見えない巧みなパス交換の技術と、自分で攻めずに何かと言えば後陣にバックパスをしてバックス間で横パスを交換している間には、前線にいる者たちはまるで静止画を見せられているように一向に動かず、相手のディフェンスの裏を取ろうとか、マークを引きずり出してスペースを作ろうという類いの動きがない」のである。

あの12年前の代表選手たちの顔を画面で見れば、長谷部誠、本田圭佑、遠藤保仁、中澤佑二、田中Tulio、大久保嘉人、松井大輔、阿部勇樹、岡崎慎司、川島(申し訳ないが、最も評価していないGKなので名字のみとする偏見をお許し下さい)等々がいた。彼らのサッカーの何処が良かったかと言って「兎に角何が何でも、如何なる難しい局面にあっても、常に前を向いてひたすら攻めていこうとしていたこと。責任逃れやピッチを広く使う後方へのパスなどせずに前向き」だった点だ。

もう何年もサッカーを現場では見ていないが、現代のサッカー選手たちの技術水準の高さや、リフティング等で見せる球扱いの質の高さは十分に承知している。と言えるのも、72歳だった2005年までは高校時代の「全国制覇し損ないの会」で、往年のオリンピック代表だった小林忠生さんを中心にサッカーからフットサルまでをやっていたので、現在のサッカーの質はある程度把握していた。

特に慶応大学の女子フットサル部に9対0で惨敗した際に、彼女らの技術とスピードに完膚なきまでにやられた経験まであるので、このように語れるのだ。念の為に申し上げておけば、我々は昭和23年(1948年)の第3回の福岡国体の決勝戦で、広島師範附属高に0対1で破れ、全国制覇をし損なったのだった。その相手の主力選手の一人が、後のサッカー協会会長の故長沼健氏だった。

昔話はこれくらいにしよう。私が森保監督以下代表選手たちに望むことは「どうぞ、あの2010年当時のひたすら前を向いて攻める敢闘精神を思い出して、強敵と見て怖れることなく、攻めることに専念して、無用の後方への展開を避けて欲しい。その先にドイツやスペインに勝利することが待っていると思って」なのだ。敢えて言えば「私が無い物ねだりをしたことにならないよう、一所懸命にサッカーをやってくれ」なのである。



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