新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が変遷の時代の回顧録

2023-10-22 13:24:06 | コラム
先進国が瞬く間に後進国になってしまう時代:

1972年に偶然の連続と運命に逆らわずに、アメリカの紙パルプ産業界に39歳にしてMead社に転進した。そこで見た事はといえば、世界の最先端を行っているとばかり思っていたアメリカの産業界が、後進国化に向かっていく様子だった。意外であり印象的だった現象だった。

戦後の復興期だった我が国ではアメリカの文化・文明を導入して「アメリカに学べ」の時代だったと思うが、追い抜こうと目指していたか否かは知らない。振り返ってみれば、あの頃にアメリカの生産現場を見学された方々の多くは「アメリカの工場は素晴らしいが特に印象的だった事があった。

それは、現場の作業員の為に作業の手順を説明するマニュアルが備えられている」と感心しておられた事。確かに誰にも解りやすく書かれていた。だが、誰もこのマニュアルが何の為に整備されていたかは知らなかった。

そして、我が国の産業界でも設備投資が進み近代化されて、アメリカの時代の先端を行く生産設備が導入されようになった。紙パルプ産業界でも紙類の加工業界でも、設備の合理化・近代化以外にアメリカからライセンスを取得して技術と品質の向上を図ったのは自然であり当然の流れで、徐々に先進国の仲間入りをしつつあった。

私は1975年に再度の転進でウエアーハウザーに入社した。その年に、我が国最大の印刷会社のアメリカの製紙と印刷・加工業界視察団のご案内役をする事になった。その行程の中で我が社は西海岸で最大の業容を誇るカリフォルニア州の紙器印刷加工会社の見学を組み込んだ。その工場見学では、ご一行様も私も予想もしていなかった意外な現象に出会った。

知らぬ間に先進国に:
それは、当時の日本では大手の印刷会社でなくても導入していたボブストチャンプレン社(Bobst Champlain)製の一般紙器の印刷から打ち抜きまでを一連の流れで仕上げる加工機が何処にも見当たらない事だった。即ち、全員がそこには最新鋭の「ボブチャン」が唸りを上げて稼働しているものと信じ切っていたのだ。だが、そこで稼働していたのは、古色蒼然たる印刷と打ち抜きの2台の機械が別々に動いていたのだった。一同我と我が目を疑ったが、誰も「何故、何で」とは質問せずに終わった。

見学が終わってからの夜の検討会で到達した推論乃至は結論と言えば「アメリカでは未だに古い形式のB社とC社の機器を使っているのであり、BCと言う一連の流れの機器が未だに導入されていなかったようだ。我が国はと言えば、後発なるが故に先端のボブストチャンプレンを導入できたのだろう」となった。換言すれば「知らぬ間に先進国の如くになっていた」のだった。現場での生産効率はどちらの機器が優れているかは言うまでもない事。

アメリカに見るべき物なし:
実は、我が国では1960年代末期から70年の始めにかけて、アメリカの産業界を見学してきた人たちから「最早アメリカに見るべき物がないのでは」という類いの疑問の声が上がっていた。それは「製造や加工の現場を見れば、このカリフォルニア州の紙器印刷加工工場の例が示すように、一時代前の製紙や印刷加工の設備が稼働している工場が多いのだから、設備面では最早学ぶべき点が少ないのだ」という印象になるのだろう。

これは確かにその通りなのであるが、アメリカが古き良き資本主義の理念に従って経営しているから、そういう事態が生じる事になる場合が多いのだ。

困らせるような質問はさせないから安心して:
次に「時代遅れの現場の設備」の例をもう一つ挙げておこう。我が事業部がアメリカ全土に牛乳パックの加工事業を展開していた1980台初期までの事。我が事業部はパック用の原紙を生産して加工工場に供給していたが、原紙の販売の面でも国内以外にも成長著しい日本市場向けの輸出にも注力するようになっていた。その販売促進の手法の一つで、牛乳パックの印刷加工では後発である日本市場の取引先の工場向けに、技術指導の説明会などを開いてお手伝いをしていた。

さらに、我が社の紙パック加工工場の見学を積極的に勧誘していた。だが、我が方は歴史ある先発の国の工場なので、現場の印刷・打ち抜き加工機の中には、既に我が国では何処も導入していない、言わば年代物も残っていた。それを見て疑問に思っていた地方の工場の技術者が、見学の後の工場長出席の質疑応答の場で「あのような我が社では導入を検討した事もないような機械を使っている事に、何かメリットか意義があるのか」と切り込んだのだった。

工場長はその瞬間に困惑した表情を見せたが、何とか無事に切り抜けた。通訳も大いに苦戦させられた。簡単に言えば「後発だった我が国の地方の工場の方が、アメリカには未だないような時代の先端を行く設備を導入していた」のだった。

この事件の後に最大の需要先である某製紙の現場の主任技師が2名この工場を訪問される運びになった。その引率者である本社の技術担当の課長代理には、先日の難問の件はそれ以前に出会った機会に偶然に語ってあった。

すると、アメリカに着いてからアメリカの事情に精通されている課長代理は「ご心配なく。彼ら二人には現場を見て工場長を苦しめるような質問はするなと言い渡してあるから」と言われた。正直なところ「ホッ」とした。

何故、我が社の設備投資が遅れているかを解説すれば、当時はトリプルA(AAA)の格付けで無借金の経営だったので、経営陣から科されている利益目標が非常に高く、またそれを達成できていないと新規の設備投資が許可されていなかったのである。牛乳パック市場は過当競争で十分な利益を上げられていなかったのだ。

「私にはもうそのような最新の抄紙機は理解できない」:
1997年の事だった。私は思いがけない幸運で、シンガポールに本拠を置く華僑財閥がインドネシアに展開している世界最新鋭の設備をしていると聞いた新興勢力の大規模な製紙工場を訪問する事になった。そこで事前に我が国最大の製紙会社の元研究所長だったI氏にその旨をお伝えした。

I氏からは「可能だったら、その最新鋭の抄紙機の写真を撮ってきて見せて欲しい」と依頼された。勿論、I氏は通常はそういうことは承認されないのはご承知だった。

私は新興勢力の最新の抄紙機とはどれ程凄いのかと期待して場内に入った。大袈裟でも何でもなく、その最新鋭の三菱重工製の抄紙機を見た瞬間に言葉を失った。余りに驚愕的だったので。1972年8月にMead社のアラバマ州の段ボール原紙工場の超高速の抄紙機を見たときの驚きなどとは次元が違っていて比較にならなかった。

その規模の大きさにも圧倒されたが、日産の量などは「そういう機械もあり得るか」と言われていた領域を超えていたし、その機械の速度でも安定した品質の紙が製造されているのだった。しかも、場内には見渡す限り人がいないし、抄紙機に言わば並行して設けられている試験室の設備も理想的だったのも凄いと、感心させられたのだった。

フィンランド人の工場長に撮影の許可を申し入れてみると、いともアッサリと「この機械は市販品だから、何の問題もない。ご随意に」と言われてしまった。持ち帰った写真を直ちにI氏にお目にかけて、その仕様と能力を説明した。すると、何とも言えない悲しそうな表情を浮かべられて「もう私の時代とは全てが変わった。私の製紙の知識と経験からはこの抄紙機は解らないので、論評する事は不可能だ」と言われたのだった。

華僑資本の中国の製紙会社はその資金力を存分に活かして、世界最新鋭にして最大級の能力の(アメリカでは何処にも導入されていない)抄紙機を導入して、経済的なコストで大量生産して競争力がある価格で世界の市場を席巻しようとしているところだった。

即ち、世界最大の製紙国だったアメリカも第2位だった我が国も、その後間もなく中国の後塵を拝するようになっていくのだった。換言すれば、瞬時にして先進国だったはずの上位2ヶ国は後進国の如くになってしまったという事。中国やインドネシアや韓国やブラジルなどは後発なるが故に、世界で最も進歩した最新鋭の機械設備の導入が可能なので、需要が停滞気味で、利益も上がらずに設備の近代化や合理化の投資もままならないアメリカやヨーロッパやアジアの我が国等を置き去りにして、先進国の地位を占めている時代になったと解釈できるのだ。

私は不勉強にしてこういう現象が何処まで他の産業界に起きているのかは知らない。だが、自動車やEVの生産量では中国が世界を主導しているとの報道もあった。後発国が先進国を瞬時にして凌駕する時代が来ていると考えて、必ずしも誤りではないように、インドネシアの製紙工場を見て考えさせられた。それは26年も前の事だった。