外国語の能力が先ではない:
28日の朝にテレ朝だったかで木村拓哉と工藤静香夫妻のインターナショナルスクールに通わせている15歳の娘さんが、何だったかにデビューするのだという件を採り上げていた。この娘さんは英語とフランス語だったか(だったかばかりで申し訳ない)できると、女性キャスターの1人が如何にも素晴らしいことのように羨ましがって見せた。
私は何故か知らないが、ある程度名を為したテレビタレントというのか芸人はその子弟をインターナショナルスクールに入れるか外国に留学に出す傾向があるようだと思って見ている。では、彼らの他に誰がいるかと訊かれれば、即座に思い出すのは関根勤が矢張り娘さんをカナダの大学に留学させ優秀な成績で卒業したと聞いた気がする。ところがこの娘さんは折角の成績と英語力がありながら確か韓国の芸能人と結婚してしまったようだ。
私がここで言いたいことは「外国語、就中英語が話せるようになることを第一義に考えるのは誤りだとまでは言わないが、優先順位を下げて考えるべきだ」なのである。それに余計なお世話だろうが、我が国の多くのインターナショナルスクールは各種学校であって、我が国の学校教育の仕組みの枠外にあるのだ。だが、何故か彼らは、例えば帰国子女等の美しい発音だけを聞いて「これぞ国際化の時代に備える道」と思い込む傾向があるように見える。
勿論、美しくて且つ正確な発音で英語が話せるのに越したことはない。だが、私が知る限りでの帰国子女の方々が悩むことは「我が国の学校教育の英語」という文化の中に入れられると、英語の勉強そのものに限りなく悩まされるのだそうだ。即ち、発音が良いことや「会話ができること」等は学校教育の英語で良い成績を挙げることには何の助けにもならないという冷厳な事実である。
それだけではない。都内の某有名私立大学で「英語」を教えておられたアメリカ人は “Kikoku shijos don’t know what English is.”とまで酷評した。それだけではない。私は何人もの成人した帰国子女に「小学校入学前ででアメリカにいて普通に英語が解ったが、今となっては全く何も覚えていない」と嘆いたのを聞いている。
帰国子女に拘り過ぎたが、私が指摘したい問題点は「ただ単に英語が話せるとか会話ができるだけではなく、その外国語能力を海外に出ても活かせるかだけの教養と論理構築の力、諸外国と我が国との間に存在する文化の相違点と思考体系の違い等々を認識する能力を備えることに努力する必要を認識すべきだ」なのである。
換言すれば「自国の文化とは如何なるものかというか、自分の足下も立ち位置も見えずして国際人などにはなり得ないのだ」と知るべきだということ。その為には外国語の能力就中相当程度以上の英語力が必要なのは間違いない。しかも、そういう自覚が出てくる為には「欧米の諸国と我が国との間には歴然たる文化の違いがある」と認識できねばならない。
不肖私もアメリカの会社に転進して間もなくは容易に「文化の違い」が認識できずに「何でこうなってしまうのだろう」と深刻に悩まされた事柄が多かったのだった。そして、来日する本部や工場の連中が「文化の違い」の認識が欠如している為に犯す失敗が多いことに気が付いて、副社長兼事業本部長に「日本とアメリカの企業社会における文化の違い」のプレゼンテーションを是非やらせて欲しいと申し出たのは、何と転身後15年目だった。
これは自慢話をしようと思って指摘しているのではない。私があらためて強調したいことは「アメリカやヨーロッパの世界に入って少しでも成果を挙げようと思うならば、外国語の能力を第一義に考えるのではなく、それなりの教養と討議や討論の際の論旨の構築能力に加えて彼我の文化の相違等を認識できてから進出すべきではないのか」なのである。そしてそこには十分なる外国語能力の裏付けが必要なのは言うまでもないこと。
遺憾ながら、我が国の英語教育にはそういう問題点への配慮があるとは見えない点だ。そう指摘する根拠は大学入試センター試験の英語には来年から(?)TOEICやTOEFLや英検等の点数を当てると報じられていた事にある。数年前にPresident誌が掲載した大手企業の人事担当者の座談会に
「当社はTOEICの点数は問題にしていない。600点にも満たない者がその論思の構築と自己表現の高い能力で、海外市場で優れた実績を挙げたとの実例がある。英語がペラペラと話せるかどうかの問題ではない」
と語っておられた。さもありなんと思って読んだ記憶がある。そういう例の他に「TOEICの成績は優秀だったが」という実際に外国に行かれて通用しなかった嘆きも聞いている。これなどは更に誤った「外国語の能力優先」の例だと思うのだ。結論めいたことを言えば「如何なる目的で外国語を学ぶのか」である。無目的でただ単にペラペラになって何の御利益があるのかということだ。即ち、掲題の「勘違い」なのである。
28日の朝にテレ朝だったかで木村拓哉と工藤静香夫妻のインターナショナルスクールに通わせている15歳の娘さんが、何だったかにデビューするのだという件を採り上げていた。この娘さんは英語とフランス語だったか(だったかばかりで申し訳ない)できると、女性キャスターの1人が如何にも素晴らしいことのように羨ましがって見せた。
私は何故か知らないが、ある程度名を為したテレビタレントというのか芸人はその子弟をインターナショナルスクールに入れるか外国に留学に出す傾向があるようだと思って見ている。では、彼らの他に誰がいるかと訊かれれば、即座に思い出すのは関根勤が矢張り娘さんをカナダの大学に留学させ優秀な成績で卒業したと聞いた気がする。ところがこの娘さんは折角の成績と英語力がありながら確か韓国の芸能人と結婚してしまったようだ。
私がここで言いたいことは「外国語、就中英語が話せるようになることを第一義に考えるのは誤りだとまでは言わないが、優先順位を下げて考えるべきだ」なのである。それに余計なお世話だろうが、我が国の多くのインターナショナルスクールは各種学校であって、我が国の学校教育の仕組みの枠外にあるのだ。だが、何故か彼らは、例えば帰国子女等の美しい発音だけを聞いて「これぞ国際化の時代に備える道」と思い込む傾向があるように見える。
勿論、美しくて且つ正確な発音で英語が話せるのに越したことはない。だが、私が知る限りでの帰国子女の方々が悩むことは「我が国の学校教育の英語」という文化の中に入れられると、英語の勉強そのものに限りなく悩まされるのだそうだ。即ち、発音が良いことや「会話ができること」等は学校教育の英語で良い成績を挙げることには何の助けにもならないという冷厳な事実である。
それだけではない。都内の某有名私立大学で「英語」を教えておられたアメリカ人は “Kikoku shijos don’t know what English is.”とまで酷評した。それだけではない。私は何人もの成人した帰国子女に「小学校入学前ででアメリカにいて普通に英語が解ったが、今となっては全く何も覚えていない」と嘆いたのを聞いている。
帰国子女に拘り過ぎたが、私が指摘したい問題点は「ただ単に英語が話せるとか会話ができるだけではなく、その外国語能力を海外に出ても活かせるかだけの教養と論理構築の力、諸外国と我が国との間に存在する文化の相違点と思考体系の違い等々を認識する能力を備えることに努力する必要を認識すべきだ」なのである。
換言すれば「自国の文化とは如何なるものかというか、自分の足下も立ち位置も見えずして国際人などにはなり得ないのだ」と知るべきだということ。その為には外国語の能力就中相当程度以上の英語力が必要なのは間違いない。しかも、そういう自覚が出てくる為には「欧米の諸国と我が国との間には歴然たる文化の違いがある」と認識できねばならない。
不肖私もアメリカの会社に転進して間もなくは容易に「文化の違い」が認識できずに「何でこうなってしまうのだろう」と深刻に悩まされた事柄が多かったのだった。そして、来日する本部や工場の連中が「文化の違い」の認識が欠如している為に犯す失敗が多いことに気が付いて、副社長兼事業本部長に「日本とアメリカの企業社会における文化の違い」のプレゼンテーションを是非やらせて欲しいと申し出たのは、何と転身後15年目だった。
これは自慢話をしようと思って指摘しているのではない。私があらためて強調したいことは「アメリカやヨーロッパの世界に入って少しでも成果を挙げようと思うならば、外国語の能力を第一義に考えるのではなく、それなりの教養と討議や討論の際の論旨の構築能力に加えて彼我の文化の相違等を認識できてから進出すべきではないのか」なのである。そしてそこには十分なる外国語能力の裏付けが必要なのは言うまでもないこと。
遺憾ながら、我が国の英語教育にはそういう問題点への配慮があるとは見えない点だ。そう指摘する根拠は大学入試センター試験の英語には来年から(?)TOEICやTOEFLや英検等の点数を当てると報じられていた事にある。数年前にPresident誌が掲載した大手企業の人事担当者の座談会に
「当社はTOEICの点数は問題にしていない。600点にも満たない者がその論思の構築と自己表現の高い能力で、海外市場で優れた実績を挙げたとの実例がある。英語がペラペラと話せるかどうかの問題ではない」
と語っておられた。さもありなんと思って読んだ記憶がある。そういう例の他に「TOEICの成績は優秀だったが」という実際に外国に行かれて通用しなかった嘆きも聞いている。これなどは更に誤った「外国語の能力優先」の例だと思うのだ。結論めいたことを言えば「如何なる目的で外国語を学ぶのか」である。無目的でただ単にペラペラになって何の御利益があるのかということだ。即ち、掲題の「勘違い」なのである。