新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月28日 その2 あー、勘違い

2018-05-28 14:15:17 | コラム
外国語の能力が先ではない:

28日の朝にテレ朝だったかで木村拓哉と工藤静香夫妻のインターナショナルスクールに通わせている15歳の娘さんが、何だったかにデビューするのだという件を採り上げていた。この娘さんは英語とフランス語だったか(だったかばかりで申し訳ない)できると、女性キャスターの1人が如何にも素晴らしいことのように羨ましがって見せた。

私は何故か知らないが、ある程度名を為したテレビタレントというのか芸人はその子弟をインターナショナルスクールに入れるか外国に留学に出す傾向があるようだと思って見ている。では、彼らの他に誰がいるかと訊かれれば、即座に思い出すのは関根勤が矢張り娘さんをカナダの大学に留学させ優秀な成績で卒業したと聞いた気がする。ところがこの娘さんは折角の成績と英語力がありながら確か韓国の芸能人と結婚してしまったようだ。

私がここで言いたいことは「外国語、就中英語が話せるようになることを第一義に考えるのは誤りだとまでは言わないが、優先順位を下げて考えるべきだ」なのである。それに余計なお世話だろうが、我が国の多くのインターナショナルスクールは各種学校であって、我が国の学校教育の仕組みの枠外にあるのだ。だが、何故か彼らは、例えば帰国子女等の美しい発音だけを聞いて「これぞ国際化の時代に備える道」と思い込む傾向があるように見える。

勿論、美しくて且つ正確な発音で英語が話せるのに越したことはない。だが、私が知る限りでの帰国子女の方々が悩むことは「我が国の学校教育の英語」という文化の中に入れられると、英語の勉強そのものに限りなく悩まされるのだそうだ。即ち、発音が良いことや「会話ができること」等は学校教育の英語で良い成績を挙げることには何の助けにもならないという冷厳な事実である。

それだけではない。都内の某有名私立大学で「英語」を教えておられたアメリカ人は “Kikoku shijos don’t know what English is.”とまで酷評した。それだけではない。私は何人もの成人した帰国子女に「小学校入学前ででアメリカにいて普通に英語が解ったが、今となっては全く何も覚えていない」と嘆いたのを聞いている。

帰国子女に拘り過ぎたが、私が指摘したい問題点は「ただ単に英語が話せるとか会話ができるだけではなく、その外国語能力を海外に出ても活かせるかだけの教養と論理構築の力、諸外国と我が国との間に存在する文化の相違点と思考体系の違い等々を認識する能力を備えることに努力する必要を認識すべきだ」なのである。

換言すれば「自国の文化とは如何なるものかというか、自分の足下も立ち位置も見えずして国際人などにはなり得ないのだ」と知るべきだということ。その為には外国語の能力就中相当程度以上の英語力が必要なのは間違いない。しかも、そういう自覚が出てくる為には「欧米の諸国と我が国との間には歴然たる文化の違いがある」と認識できねばならない。

不肖私もアメリカの会社に転進して間もなくは容易に「文化の違い」が認識できずに「何でこうなってしまうのだろう」と深刻に悩まされた事柄が多かったのだった。そして、来日する本部や工場の連中が「文化の違い」の認識が欠如している為に犯す失敗が多いことに気が付いて、副社長兼事業本部長に「日本とアメリカの企業社会における文化の違い」のプレゼンテーションを是非やらせて欲しいと申し出たのは、何と転身後15年目だった。

これは自慢話をしようと思って指摘しているのではない。私があらためて強調したいことは「アメリカやヨーロッパの世界に入って少しでも成果を挙げようと思うならば、外国語の能力を第一義に考えるのではなく、それなりの教養と討議や討論の際の論旨の構築能力に加えて彼我の文化の相違等を認識できてから進出すべきではないのか」なのである。そしてそこには十分なる外国語能力の裏付けが必要なのは言うまでもないこと。

遺憾ながら、我が国の英語教育にはそういう問題点への配慮があるとは見えない点だ。そう指摘する根拠は大学入試センター試験の英語には来年から(?)TOEICやTOEFLや英検等の点数を当てると報じられていた事にある。数年前にPresident誌が掲載した大手企業の人事担当者の座談会に

「当社はTOEICの点数は問題にしていない。600点にも満たない者がその論思の構築と自己表現の高い能力で、海外市場で優れた実績を挙げたとの実例がある。英語がペラペラと話せるかどうかの問題ではない」

と語っておられた。さもありなんと思って読んだ記憶がある。そういう例の他に「TOEICの成績は優秀だったが」という実際に外国に行かれて通用しなかった嘆きも聞いている。これなどは更に誤った「外国語の能力優先」の例だと思うのだ。結論めいたことを言えば「如何なる目的で外国語を学ぶのか」である。無目的でただ単にペラペラになって何の御利益があるのかということだ。即ち、掲題の「勘違い」なのである。


バングラデシュの国策だそうで

2018-05-28 08:46:03 | コラム
>何故新宿区百人町にバングラデシュ人が増えるのか:

先日、ジムで顔馴染みになったネパール人に「近頃大久保通りにはネパール料理屋か酒場が増えて、バングラデシュ人が店番をするハラルフード店兼八百屋が異常に増えたのと同様に目立つが」と問いかけてみた。このネパール人は未だ30歳になったばかりだが、飯田橋にアジア料理とカレーのレストランを経営しているそうだ。日本語もかなり達者だが、英語の方が上手い氏話が分かりやすいと思う。

彼の解説では「自分は大久保通りに店を出すことは考えていなかった。理由は客というか見込み客の質が良くないか乃至はあの辺に住んでいるアジア系を主とした外国人は可処分所得(で良いとも思えないが)が少なく、市場としての妙味がないから。故に飯田橋を選んだ」ということだった。ズバリと言えば「客種が悪い」という意味だろうと解釈した。確かに我が物顔で歩き回っているのは日本語学校の留学生と思える中国人の若者が圧倒的だ。私でも彼らは宛てにできないと思う。

彼は更に「バングラデシュ人が多いのはあの国の国策である。世界最貧国の一角を占めているので、国内に十分な職がなく諸外国に必ずしも若者ではない者たちまでも送り出していると聞いている」と言った。「なるほど」と思わせてくれる説得力があった。私は彼らバングラデシュ人が我が国までの渡航費を個人で負担し、尚且つ自国よりも遙かに生活費がかかるはずの我が国で、如何なる在留資格で生活し、店舗を運営しているのと不思議に思っていた。

彼が言うこと正しければ、バングラデシュは国費で自国民を裕福な国を狙って送り出していることになる。しかも彼らは如何なる手段と手法でハラルフード店兼八百屋というか雑貨屋を営んでいるのか知らないが、少なくとも我が国のインフラを悪用しているのであり、もしかして手配師がいて国民健康保険にも加入しているかも知れない。そう疑う根拠は既に述べたことがあるが、上は国立国際医療研究センター病院から街のクリニックまでには国保の保険証を持った外国人(欧米人を除く)が数多く来院している。

President誌の最新の6.18号の石塚二葉氏の論文によると「日本で働く外国人労働者数は2017年10月末現在で約128万人、このうちベトナム人が約24万人で全体の18.8%を占める。これは29.1%の中国人に次ぐ人数だ。」とあるし、これまでに見たこの種の統計でもバングラデシュ人は上位には挙げられていない。だが、ここ百人町/大久保通りには彼らが増えている。私の被害妄想では「我が国は食い物にされていないか」となるのだ。

私は知り合いのネパール人が大久保通りにはビジネスチャンスがないと指摘したのは慧眼かとすら考えている。何方でも一度でもお出で願えれば解ることだが、兎に角中国を主体としたイスラム教徒を含んだアジア人が「新宿区は我が街」といったような表情で安心しきって闊歩している。そこには間もなくドンキホーテが閉鎖したパチンコ店の後に進出する。しかもアジア人の買い物客で埋め尽くされている「業務スーパー」の隣である。

ンキホーテは彼らから何を吸い上げる気なのか?それとも餌食になることを覚悟での進出か。私が危惧することは、あの2店が並んで悲しい競争をするのを見物させられることになりそうだという辺りだ。